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七、徘徊 死の淵 沈む

 四日目の夜。

 顔のない人は梁を越えて、天井の暗闇から降り立つ。

 足音が聞こえない代わりに、死臭だけをまきながら、私の布団をただ周回するのみ。


 その間、ずっとお経を唱え、その声は枕元に近づいては大きく響き、足下へ遠のくと声は小さくなる。

 再び枕元へ近づくと、お経の声は大きくなる。

 これを夜な夜な繰り返す。



 無無明…………無老死亦無老死尽無苦集滅…………得以無所得故………… 依般若…………無明亦無無明…………死亦無老死尽無苦…………亦無得以無所得故…………依般若波羅蜜多故…………。


 次は私の順番だ。

 逃れようのない運命を悟り、恐怖だけが私をむしぱむ。

 

 五日目の夜。

 病状においても、この日が一番辛く、死の淵を彷徨さまよった。


 身体は高熱で、火炙りにされているような錯覚におちいり、金縛りにあったように全身が痙攣した。

 胸は岩を乗せたように詰まり、息が出来ない。

 麻痺した身体は、まるで宙に浮いているように、感覚がない。


 私の頭の中は、死への恐怖に支配される。

 全ての活力を失いかけた私は、ドロ沼のような暗闇に沈んだ。

 どれくらいの時がたったのか、真夜中の鐘の音も、耳には届かない。


 絶望を抱きながら、ひたすら沈む――――――――――――。


 どこまで沈んだのか解らない。

 深く、深く落ちていき、もう現世まで這い上がれないのだと悟る。


 ――――――――遥か彼方、通しき闇の先へ光が見えた。

 刹那、私は光に包まれる。


 キラキラと銀色に輝く水面みなも

 スズメの鳴き声と共に訪れるお日様の光。

 朝の光を受けて、笑いながら外で駆けずり回る、長屋の幼馴染。

 私を時に叱り、甘えさせてくれる父と母の、太陽のように輝く笑顔。


 生きたい――――――――もっと生きていたい。

 大人になって、お婆ちゃんになるまで、家族や友達と楽しいことを沢山したい。


 私の身体は吸い上げられるように、引き上げられ、意識がはっきりとする。

 そして、目覚めた――――――――。



 まぶたを開けると、思わず短い悲鳴を上げる。

 仰向けで寝ている私を、真上から除く黒い能面。

 絶えず歪む闇の顔が、目と鼻の先にあったのだ。

 

 こんなに近いのに、お経を唱える声が聞こえてこなければ、死臭も感じない。

 代わりに腕を伸ばして、這いずり回る黒い虫のような、指を伸ばした。  

 顔のない人は、怯える私の顎を掴み、乱暴に左右に振る。

 まるで漁で捕れた魚を、港で品定めするように、私を見下ろす。


 そして、顔のない人の闇で覆われた表情は、苦悶にも似た動きを見せ、つまらなそうな素振りを見せた。


 その後、飽きたように私から離れ、ふわふわと舞い上がり、部屋の梁を越えて、黄泉の国へ帰っていくように、天井の暗闇に飲まれていった。


 安堵から緊張の糸を切ったのか、私は半ば気を失うように、眠りへ落ちた――――…………。


 なぜ顔のない人は諦めたのか。

 幼き日の私には、考えなど及ばない。


 夜が明けて、久々に清々しい日の出を迎えた。

 朝の陽光から活力をもらい、生きることへの渇望を取り戻した。

 ようやく、小川先生から家に帰って良いとの、お許しが出たので、私は父母に迎えに来てもらい、小石川養生所の門まで見送ってもらった。


 七日が過ぎた。

 母と父が先生に、深々と頭を下げたので、私も習って真似する。

 皆、頭を上げると母が感謝を述べた。


「先生には本当に、お世話になりました」


「私も胸を撫で下ろしておるところだ」


 父は少し腑に落ちないのか、先生に尋ねる。


「しかし、その……何でこの子だけ、元気になったんですかねぇ?」


 母が父の肩を叩き、今はそんなヤボなことを聞くなと叱る。

 先生は私の顔を見つめて答えた。


「娘さんの、ただ生きたいという生への執着。それが死を遠ざけたのかもしれんな……お嬢ちゃん、よく頑張ったな?」


 そう言うと、小川先生はゴツゴツした手で、私の頭を撫でた。

 先生に挨拶を終えると、小石川養生所に別れ告げる。


 先生は謙遜けんそんした言い方をしたけど、小川先生を始め、小石川養生所のお医者様やお手伝いのおばさん達が、寝る間も惜しんで看病し、命をつなぎ止めようと努めたことで、私は生きながらえることが出来たのだと思う。

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