7:私は、ウサギの隣にいる。
「“オモイデ”を、埋めたんだ?」
ウサギは大きく頷いた。
「そう、オモイデ。ワタクシは、忘れたくないオモイデを、ここに埋めたのです」
一度上げた顔なのに、ウサギはそのまま静かにうなだれた。
吐く息が長い。
私はぶらさがる彼の腕を掴んで、その土にまみれた手を、握りしめた。
「どんな、オモイデだったの?」
「……大切なオモイデだったんです」
そこでウサギは、悔しそうに潤んだ目で、いきなり私の瞳を射抜いた。
「嗚呼、思い出せなくなってしまっている! さっきまで、“おつきさま”に着いた時には確かに覚えていたオモイデが、ワタクシの中から無くなってしまっている!!」
ウサギは空を仰ぎ、そして、叫んだ。
この世界全部に響き渡るような、重くて厚い咆哮だった。
「なくしてしまった、なくしてしまった、なくしてしまった!」
狂った蓄音器のように、ウサギは何度も同じフレーズを叫びながら、天のはるか向こう一点を見続けて、いた。
なくしてしまった。
なくしてしまった。
なくしてしまった。
なくしてしまった。
なくしてしまった。
なくしてしまった。
なくしてしまった。
なくしてしまった。
なくしてしまった。
なくしてしまった。
「嗚呼、ワタクシは……なんてことをしてしまったんだ! 覚えておきたかったのに。あんなに、あんなに大切だったのに!!」
ウサギは立ち上がろうとしてよろめいて、自分で掘った穴の中に、お尻から落ちた。
大切なおもちゃを落としてしまった少年のような声で、ウサギは苦しそうに、呻いた。
私はウサギに手を伸ばし、ウサギも私の手を握りしめた。
ウサギを起こそうとして、それを彼は首を振って止めた。
そして、呟いた。
「嫌です……とても怖い」
首を振りながら、糸の切れたマリオネットの腕にも似た振り子運動のように、首を振りながら彼は言った。
「たぶんワタクシは、この苦しい気持ちも、しばらくしたら忘れてしまうのでしょう。大切なものがあったことも、それを失くしてしまったことも……」
ウサギの目と私の目が交錯した。
「きっと、お嬢さんと一緒にいたことも、忘れてしまう」
「そんなこと、ないよ」
私はなんて声をかけたらいいか分からなくて、ウサギに聞こえないくらい小さな声で、言った。
私には何ができるのだろう。
今の彼にかける言葉とは、一体なんなのだろうか。
昨日の夜、初めて出会った女がかける言葉なんて、あるのだろうか。
私は自分に、泣いた。
もっと昔にウサギと出会って仲良くなっていたとしたら、もっとウサギの悲しみを和らげてあげることができたかもしれない。
何もできない。
何も言えない。
だから私は、鞄からシャボン玉キットを取り出して、ウサギの前で吹いてみせた。
デンシャでウサギがとても喜んでくれた、シャボン玉。
私はウサギの前で、静かに、静かに、シャボン玉を浮かばせては、そのたびに微笑んでみせた。
「――綺麗だね」
私はシャボン玉を作るたびに、何度も呟いた。
呟けば呟くほど、私から涙は消えていき、小さくてか弱いけれども二人をほっこりと包む空気が、確かな感触でそこにあるのを感じた。
『はいっ。丸くて優しいものは好きです!!』
ウサギの笑顔で胸がいっぱいになる。
もう一度見たい。
もう一度。
今度は、私が笑わせてあげたい。
ふっと、二人で掘った穴から、何かがでてきたような、気がした。
気のせいかもしれない。
けれども、私は確かに何かがでてきたのを感じた。
形はない、しかしそこにある。
あ、もしかして。
――ううん、違う。
ここに埋めたのは、彼のもののはずだから。
でも。
私は、ストローを動かす手をとめて、彼を見た。
今度は、私が笑わせてあげたい。
だから、私は、笑った。
ウサギは、初めは俯いていたものの、私がシャボン玉を空中に放ち続けると、次第に顔をあげてくれた。
ふう、と最後のシャボン液で、最後のシャボン玉たちをつくりだす。
空になったシャボン玉キットを、私はウサギが作った穴にいれて、土をかぶせた。
「なくしたらね」
そう、簡単なこと。
ううん、本当はとっても難しいこと。
だけど、頑張れること。
「また、作ればいいと思うんだ。私が、オモイデをプレゼントするよ。だから、悲しまないで」
ウサギは一瞬、きょとんとした顔で私のことを見つめた。
私の精一杯の笑顔は、ウサギに通じるだろうか。
ウサギは視線をうろうろと迷わせた。
伝わるだろうか。
私の気持ちが。
伝えられるだろうか。
もう一度、ウサギの笑顔が見たい。
ウサギは、笑った。
少しして、もう一度私の顔を見て、笑ってくれた。
笑ってくれた!
それだけのことなのに、すごくすごく、嬉しかった。
泣きそうなのに。
私以上に悲しいはずなのに、笑ってくれた。
それが、とても幸せなことなのだと感じた。
たけど、ウサギは一瞬にして冷めたように、その笑顔が暗くなった。
「ワタクシにはあれ以外のオモイデなんて、意味ないんです」
そう言って、悲しむウサギ。
でも、と言って笑顔になっても、ふっと彼の顔に翳りがさす。
私はウサギの目をまっすぐと捉えて、言った。
「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない!」
気づいたら、私はウサギを抱えて、一本道へと引き返していた。
「さあ、先に進むよ。きっと楽しいから、行こう」
ウサギを地面におろして、手をつないだ。
ウサギが心配そうな顔で私の方を見つめてくる。
私の意志が伝わったのだろう、ウサギはまっすぐ前を見て、うん、と頷いてくれた。
二人は、海岸を目指して、歩いた。
波の辿りつく場所へ。
理由はない。
けれども、そこに行くのが今は一番いい気がした。
私の左手には、小さな鞄。
寄り添いながら、ゆっくりと歩く。
獣道を踏みしめるように、ゆったり、のんびりと。
少し悲しい棘が心に刺さっているけれど、私は小さな幸せを感じていた。
不思議なものだ、と私は自分のことながら思った。
こみ上げた衝動というものは、こんなにも自分を奮い立たせてくれるのか。
やがて、道は急に開けた場所に出た。
右側の方に、花がたくさん、咲いている。
とても赤い。
「いい匂いですね」
ウサギは言った。
「そうだね」
私は言った。
花を一輪摘んできて、私はウサギの鼻元に近づけた。
ウサギは鼻をひくひくさせて、その匂いをかいだ。
「……本当にいい匂いです。懐かしい感じがします。ワタクシはこの花がきっと今までで一番好きです」
ウサギは笑った。
私もそれを見て、ゆっくりと目を細めた。
「うん。私もこの花が一番好き」
私はもう一輪、花を摘んで、自分でその匂いを確かめた。
ほうっとやわらかくて甘い匂いが、私の肺いっぱいにまでひろがった。
とても落ち着く香り。
しばらく二人で匂いをかぐと、どちらからともなく、花をもっともっと摘みだした。
この花がたくさんあれば、きっともっと幸せになれるかもしれない。
私たちは両手いっぱいに花を摘んだ。
真っ赤な真っ赤な花びらが、一枚、ひらりはらりと風に舞った。
少し強い風が、私の髪と花たちを揺らした。
気持ちよかった。
こんな夜は、いいものだ。
「この花の名前、なんなのかな?」
「うーん、ワタクシにもちょっと分からないですね」
「残念。でも、きっと素敵な名前だよね」
「そうですね。もしかしたらあなたと同じ名前かもしれない」
「あはっ! そうだとしたら、ちょっと嬉しいかも」
私たちはまた先を目指して、歩きはじめることにした。
二人の手には、二人の花束があった。
しっかりとした足取りで、前へ前へと、進んでゆく。
この先には、海。
きっと大丈夫、そこはもっと素敵なところだから。
私は、ウサギの隣にいる。
うん、きっとこれなら大丈夫。
一緒にいける。
さあ、行こう。
「うわぁ……」
砂浜に出ると、ウサギは感嘆の声をあげた。
丸い月が、静けさの漂う海を照らし出している。
海と空が入り混じっていて、目の前の世界全てが一つであるような気がした。
ウサギが海の方へ走り出す。
波打ち際で立ち止まり、寄せてくるしぶきにおっかなびっくりしていた。
私は少し離れたところで、サンダルを脱いで裸足になった。
鞄を砂浜の上に置くと、中に詰めこんだ先ほどの花があふれ出していた。
風に吹かれて、花びらが少しずつ散っていく。
私は赤い花の中から線香花火とライターを取り出して、ウサギの元へ駆け寄った。
ウサギは波に触れないよう、ぎりぎりのところで足を出したり引っ込めたりしていた。
「ねえ、これやろうよ」
私は線香花火をウサギに見せた。
ウサギは不思議そうな顔で首をかしげた。
「待っててね」
私は線香花火に火をつけた。
パチパチと音を放ちながら、線香花火は静かに弾けた。
「うわぁ……」
ウサギは目を輝かせた。
弾ける火はやがて無くなり、朱い玉がその先に残った。
「綺麗でしょ」
「はい、とても綺麗です!」
音もなく、朱い玉は地面にぽたりと落ちた。
「ワタクシ、こんな大きな水たまりも、そんな綺麗な光も、実は見たことがなかったんです」
「そうなんだ?」
私は少し意外に思った。
「ここ、来たことあるんでしょ?」
「あります。でもこっちの方まで来たのは初めてなんです。一応、本を読んで知識はあったんですけどね。あのざーざーって音の正体がこの水音だったことを、今知りました」
「へえ、変なの」
私は思わず笑ってしまった。
執事のような、いかにもなんでも知っていそうな口ぶりをするくせに、こんなことを知らないなんて。
おちゃめなところもあるんだな、と思った。
私は次の花火を取り出して、また火をつけた。
玉が落ちたらすぐ次の花火を取り出して。
それを何回も繰り返すと、いつの間にか花火は全て終わってしまっていた。
「ああ、楽しかったです」
ウサギは満足そうに、目を細めた。
「よかった」
私も笑った。
「ねえ、ウサギさん」
ウサギの頭を撫でながら、私は言った。
「説教みたいに聞こえるけどね。あなたにとってはつまらないオモイデかもしれない。でも、私にとって今日のオモイデはとても大切なものなんだよ」
波の音が、いっそう大きくなった気がした。
静かだった風は今は止み、それでも動くさざ波に、私はちょっとの焦燥と憧れを抱いた。
私の足を、波が静かに撫でる。
冷たくて優しい感じがした。
足元の砂が、波にさらわれてゆく。
それが気持ちよくて、私は笑顔になった。
「ね、楽しい」
私はウサギが濡れないように、そっとその腕に持ち上げた。
ウサギと視線が同じ高さになる。
私は波から離れ、サンダルを脱いだ場所へと戻った。
鞄の中からは、先ほどよりも多くの花びらが、道を作るようにひらひらと舞いおちていた。
ウサギをおろす。
すっと後ろ足で立っても、私の膝くらいしかない。
花が散るのをもっともっと見たくて、私は鞄をいっぱいにあけると、両の手いっぱいに花を持ち、そして空に向かって大きく撒いた。
強い強い風が吹いた。
私の麦わら帽子が、風に乗ってどこかへと飛んでいってしまった。
そして、赤い花びらが、風下に向かって、ひらり、はらりと舞い落ちていった。
「ほら、さっき来た一本道とは、また違う一本道ができたよ!」
ふと思ったことを口にすると、それがなんだか妙に嬉しくて、思わず笑ってしまった。
「あはは! いい匂い」
鞄の中の残りの花も取り出すと、その全てを風に委ねた。
ひらり、はらり。
ウサギもとてもおかしい様子で、私の周りをくるくると回った。
“おつきさま”は、私たちをどう見ているのだろう。
赤い道の砂浜で踊る一人と一匹の影が映っているのだろうか。
くるくると、くるくると回る二つの影。
楽しそうに見えたら、それはとても幸せなことなのだろう。
二人だけの“おつきさま”が、いつまでも続けばいいなと思った。
風にゆられて、ひらり、はらり。
その上を二人でくるくると。
ひらり、はらり、くるくるくる。
どこか幻想的で、どこか稚拙で、どこか不思議で、どこか楽しい。
そんな世界で、私はウサギと共にいる。
過去のオモイデも大切かもしれない。
でも、今のオモイデだって、そして未来のオモイデだって大切だ。
忘れることもあるだろう、思い出せないこともあるだろう。
だからって、悲観にくれることはない。
忘れたとしても、そこにきっとあるはずだから。
気づけなくなったとしても、絶対近くにいてくれるから。
だから、今この時を楽しもう。
ひらり、はらり、くるくるくる。
最後に、ウサギはこう言った。
「……僕は、おじょうさんに出会えて本当によかった!」