5:じゃあワタクシはカニさんと友達になろうと思います
デンシャがホームに着くと同時に、私とウサギはホームへ軽く飛ぶようにして降りた。
どこか寂れた、人気のないホーム。
電灯はどこにもないのに、ぼんやりと浮かび上がるように、うっすらと明るかった。
不思議と怖くない。
ウサギが平然としているからかもしれないし、私はこの風景をどこかで知っている気がした。
もちろん、気がするだけだと思う。
私は一本だけある白い柱にかかった札を眺めた。
そこにはひらがなで、確かに“おつきさま”と書かれていた。
「“おつきさま”って駅の名前のことだったんだね」
「そうですよ。あの空に浮かぶ月のことだと思いましたか?」
「うん、ちょっぴり期待してた。ざぁんねん」
「それはそれは、申し訳ありません」
ウサギはそう言うけれども、しかしどこか嬉しそうに喋った。
「あそこに行ったら、ワタクシは餅をつかなくてはいけませんからね」
ウサギは上を見上げながら言った。
「日本じゃない場所ではね、蟹がいるって説もあるんだよ」
「ほほう、じゃあワタクシはカニさんと友達になろうと思います」
今度はどこか面白くて、私はまた笑った。
デンシャを乗り換えてから、私は笑いっぱなしな気がする。
「それにしても、こんな場所あったんだね」
私はホームからあたりの風景を見渡した。
月が出ていた。
暗い影をおとしながら、その向こうにある海を静かに照らし出していた。
黒い海だった。
吸い込まれそうとまでは言わないが、しかしどこか優しい感じのする色でもあった。
私は耳をすまして、波音を聞いた。
かすかではあったが、寄せてはかえすあの安らぎの音が、私の心をくすぐった。
水は冷たいと思うけど、どこかあたたかい。
私は音を聞いただけで、その海が好きだと思った。
二人で改札を出る。
民家は無く、目の前には低い草むらが流れるように広がっており、その間を縫うようにして一本の道が続いていた。
改札に人はいなかったし、券売機も無かった。
この路線は赤字にならないのかな、と一瞬思ったけど、やめた。
ロマンの欠片もありゃしない。
私は思いっきり、その空気を吸い込んだ。
ちょっぴり湿っぽい。
「うん、潮の匂いと、土の匂いがする」
「懐かしいですね」
ウサギも、んーと伸びをしている。
気持ち良さそうだ。
先ほどど表情が違う。
もっともっと、嬉しそうな感じがする。
ウサギはまっすぐ前を見据えると、ヒョコヒョコと歩き出した。
私も少し距離をおいてそれに続く。
時折吹く風に、さらさらと黒髪が揺れた。
麦わら帽子は私の頭の上にちょこんと乗っている。
もう必要ないかもしれないけれど、わざわざ手に持つのも億劫だった。
「そういえばさ、さっきの鞄持ってきても良かったのかな?」
「あとで駅員さんに届ければ大丈夫でしょう」
「そんなこと言ってる間に、持ち主さんが尋ねに来ちゃったらどうするの?」
「おっと、それは困りますねぇ」
どこかのんびりとした空気が二人を包んでいる。
自分の家の周りを散歩している時と、同じ匂いがした。
「まぁ、たぶんですけれど」
そこでウサギは足を一度止めた。
「きっと来ないですよ。うん、来ない来ない」
「どうしてそんなことが言えるの?」
私はウサギの隣に並んだ。
「なんとなくです。理由も根拠もありませんよ」
なぜでしょうねぇ、とウサギは笑いながらまた歩き出した。
私は一度首を傾げて、まぁいっかと思い直してからウサギの後をついていった。
ゆらゆらと揺れる一本道。
まるで獣道のよう。
ここを、何か動物が通っているのかしら。
いやいや、今、目の前を通っているではないか。
ウサギという名前の生き物が。
ひょっとしたら、彼はよくこの道を通っていたのかもしれない。
彼だけが通る道。
彼だけの。
なんだろうこの気持ち。
嬉しいような、恥ずかしいような。
でも、と私は思った。
相手はウサギだ。
しかも昨日知り合ったばかり。
――いいじゃない、別に。
そんなロマンチックなこと、そうそう起こるわけじゃない。
謳歌しないと、損だ。
――にしても。
もしもこれをウサギがつけた道なのだとしたら、そうとうフラフラしながら歩いたんだろうなぁ。
考えると、思わずふきだしてしまいそうになった。
かわいいところもあるもんだ。
「どうしたんです?」
察したのか、ウサギは私の方を向いて後ろ歩きになった。
「なんでもないよ。いいところだなと思って」
「そうですか、それはよかったです」
ウサギは笑った。
本当に、よく笑う。
「ほらほら、そんな後ろ向きに歩くと、危ないよ?」
「大丈夫ですよ、おじょうさん。危険なことは何もありません」
ウサギはそう言って、空を仰いだ。
大きな満月が出ていた。
今にも落ちてきそうなほど、大きくて、まんまるい。
「ねえ、あの月に行きたいって、思ったことあるでしょ」
「……さあ」
ウサギは鼻をひくひくさせた。
土の匂いが、幾分強くなっている。
「どうでしょうね。行きたいと思ったことが、もしかしたらあるかもしれません」
「あまり月が好きじゃないの?」
「そうではありませんよ。好きです、月。言ったでしょ、丸くて優しいものは好きですって」
ふふんと、どこか誇らしげなウサギがちょっと羨ましいと思った。
「ワタクシはもしかしたら、月からやってきたのかもしれない」
「それが本当だったら、とっても素敵ね」
私はウサギに近づいて、そのふさふさの頭を撫でた。
「わ、わ、やめてくださいよ」
「いいじゃない。別に減るもんじゃないし」
「減ったら困りますけどね」
ウサギはそれでも私の手を振り払おうとせず、私に任せてずっと水平線の方を見つめていた。
手を下ろすと、どこか残念そうに、今度は下の地面を見下ろした。
「まさか本当に来てくれるとは思っていませんでした」
「どうして?」
「だって、常識的に考えたらそうでしょう」
私の瞳を見つめたウサギは、どこか少し寂しそうだった。
「うーん、常識、ねぇ」
私は右の人差し指を頬にあてた。
「ま、常識では考えられないこともあるってことで。いいじゃない、今、私はすっごく楽しいよ?」
「本当ですか?」
「うん、本当。嘘つかない」
ウサギは、心の底から嬉しそうに、頬を緩めた。
そんなウサギを見ているのが、幸せに感じた。
「じゃあ、行こっか。ね、行こうよ」
「はい、おじょうさん」
私たちは、空を見上げながら、今度は並んで歩き出した。
二人の歩調がぴったりと重なる。
ウサギも同じようなことを考えているのだろうか。
私は頬にかすかな熱を感じた。
こういうのも、なんかいいなと、思った。
「おじょうさんってさ、フランス語でマドモアゼルって言うんだよ」
「知ってますよ。つづりは難しくて忘れてしまいましたが」
「なんか不思議な響きだよね、マドモアゼルって」
「でも、ワタクシが言ったら、余計うさんくさくなるでしょう」
「そうでもないよ」
「マダムっておよびした方がいいですか?」
「それは、ちょっと失礼だよ」
「ええ。敢えて言ってみようと思って」
「結構、冒険家なんだね、ウサギさんって」
そこではた、とウサギは止まった。
私は数歩あるいてから、どうしたんだろう、と後ろを振り返った。
ウサギは何かに驚いているかのように、眼を大きく開いて、私の顔を見ていた。
まるで魂がどこか遠くに飛ばされているように見えて、少し怖かった。
「どうしたの?」
「――あ、いえ」
ウサギは首をぶんぶんと横に振り、目をぱちぱちさせた。
「なんでもありません。少し、考え事をしていました」
「そうなんだ」
ウサギがスキップするように、私の横までかえってくる。
「何を考えていたの?」
「んー、ちょっと昔のことですよ。考えていたというより、思い出そうとしていた、と言った方が正しいかもしれません」
ウサギが少し歩くスピードを早める。
私もそれに合わせて歩く。
一人で散歩している時よりも速かったが、不思議と息が切れたり疲れたりすることはなかった。
月の神秘に照らされて、感覚が酔っているのかもしれない。
私は自分が高揚していくのが分かった。
「こんなに素敵な夜を、あと何回過ごすことができるのかな?」
「どうでしょう。ワタクシにも分かりませんが、きっと、たくさん過ごすことができますよ」
「そうだといいな」
私はデンシャで拾ったバッグを後ろに回し、両手で持ち直した。
ざくざくとたくさんのものが入っているのが分かる。
ゆったりとした夜。
ウサギと歩く夜。
いいもんだ。