4:丸くて優しいものは好きです
とても、悲しかった。
小さい頃のお話。
車で二時間ほどかかる場所に、親戚の家があった。
母の妹さんのおうちで、小さな猫を飼っていた。
プア、という名前だった。
白くて、ふわふわした猫だった。
私はその子に会うのが楽しみで、母にせがんでいつも連れていってもらっていた。
家に着くとまずプアを探して、家中を駆け回ったものである。
「プア!」
私はその子を見つけると脇から抱えるようにして、自分の胸にだいた。
温かい。
私は、数時間という短い間、ずっとプアと一緒にいた。
プアを膝の上にのせて、プアの頭を撫でているのが好きだった。
小学生になる頃には、私はその家に遊びにいかなくなった。
近所の友達と一緒に遊ぶ方が楽しかった。
プアに会いたいという気持ちもあったが、私は他に優先するものができた。
小学三年生になった時、久しぶりに、母と二人で妹さんの家にいった。
プアは、最後にあった時よりも大きくなっていた。
少し、ふくよかになった気がする。
私はプアを再び抱こうと、プアに手を伸ばした。
――そして、手の甲に鋭い痛みを感じた。
プアに、引っ掻かれた。
私は痛かったのと同時に、プアが自分のことを引っ掻くことが信じられなかった。
プアはぷいっとそっぽを向くと、部屋の奥の方へと、去っていった。
私が再び近寄っても、ひらりひらりと部屋を移動して、避ける。
とても悲しかった。
悲しくて、悲しくて、私は母の前で泣いた。
プアに嫌われた、と。
そんな私の頭を、母は優しく撫でてくれた。
大丈夫だから、きっと大丈夫。
そう言って、私が泣き止むまでずっと母は私の頭を撫でてくれた。
動物だって物忘れをすることだってあるわ、ノリちゃんを嫌いになったんじゃなくて、きっと忘れちゃったのかもしれない、また頻繁に遊びに来ればきっと思い出してくれるわ。
私は泣き止むまで1時間くらいかかったらしい。
ずっとずっと泣いていた。
そんな私を、プアは遠くからじっと見つめていた。
また、仲良くなればいいじゃない。
母は最後に一度、私の頭をぽんぽんした。
それっきり、私はその家に行っていない。
「……おじょうさん!」
ウサギの声で、目が覚めた。
いつの間にか眠ってしまっていたらしかった。
あんなに白く鮮やかだった陽の光も、いつの間にか赤みが増していた。
あたりの風景もずいぶんと田舎の匂いを増している。
「ずいぶんと眠っていましたね」
「……自分でもびっくりだよ」
私は一度、んーと伸びをした。
肩甲骨のあたりの筋が、ぐぐぐっと目覚める。
最後に首を左右にまわすと、すっかりと眠気はなくなっていた。
「もう少しで、デンシャを乗り換えますよ」
「乗り換えるの?」
「そりゃそうですよ。世の中そんなものです」
てっきり、このデンシャで目的の駅まで着けるものだと思っていた。
本の中のお話なら、そのままぷしゅーと目的地のホームに入って、静かにドアが開くのに。
「“おつきさま”って、ずいぶん遠いのね」
「そりゃあ、遠いですよ。ええ、おじょうさんのところからは、とてもとてもね」
ウサギは笑った。
「ねえ、そういえばどうして私は“おじょうさん”なの?」
「貴女はおじょうさんだからです」
まあ、と私は口に手をあてた。
まるで禅問答のようだ。
「おじょうさんって年齢でもないでしょ。私、今年で24だよ? おじょうさんって8歳くらいの女の子に使う言葉だよ」
「いえいえ、何をおっしゃいます! 貴女は、私の中ではいつまでも『おじょうさん』ですよ!」
「ふーん」
聞いても理由がさっぱり分からないので、私は質問するのをやめた。
そういえば、私は全然ウサギのことを知らない。
それもそうだ、私たちは昨日の夜に会ったばかりなのだから。
「私、いつ帰れるのかな?」
「帰ろうと思えば、いつでも帰れますよ」
「じゃあ、もし私が『今すぐ帰りたい!』て、ダダをこねたらどうする?」
「それは少し悲しいですが、すぐに戻ることは可能です」
「どうやって?」
「デンシャから飛び降りればいいのです」
ウサギはさも当たり前のように、髭を触りながら答えた。デンシャから飛び降りればいいのです。
「大丈夫です、平気です」
何を根拠にそんな自信満々に答えられるのだろうか。
私は少し、頭が痛くなった。
「あなたって、どうしてそんなに不思議なの?」
「さあ、自分が不思議かどうかも分かりません」
ウサギは小さく頭を横に振った。
がたん、と大きく揺れて、デンシャがホームに入った。
ホームに人の姿は無い。
向こうにホームがもう一つあって、見たことのないデンシャがドアを開けて待っていた。
「さあさあ、おじょうさん。こっちですよ!」
ウサギはドアから飛び出して、駆け出した。
思ったよりも素早い。
「ちょ、ちょっと待って!」
麦わら帽子がとばされないように、右手で抑える。
ホームを左右に見渡すと、ウサギはホームの隅にあった階段を駆け上がっているところだった。
「待ってよー!」
私も階段に向かって駆け出した。
「早く、早く! 乗り遅れてしまいますよっ」
遠くからウサギが叫んでいる。
階段を下りたところで、発車ベルが鳴った。
鉄琴のような音が、あたりに響く。
私が階段を駆け下りたところで、ウサギは先にデンシャの中へするりと入り込んだ。
デンシャのドアが閉じ始めると同時に、私もデンシャの中に乗り込んだ。
へなへなとその場に座り込む。
額から汗が吹き出ていた。
息が荒い。
肩で息をしながら、私は言葉を紡いだ。
「そもそも、この駅は一体、どこなの?」
みるみると、ホームがデンシャから遠ざかっていく。
私は立ち上がって、ドアの窓から今いたホームを眺め、そして、あっと、声にならない声を出した。
今まで乗っていたデンシャに、影がなかった。
周りの木やレールやプラットホームには、影がくっきりと刻み込まれているようにはっきりと見えるのに、そのデンシャには影がまったくなかったのだ。
不思議な感じがした。
もしかしたら、幽霊列車なのかもしれない。
レールの繋ぎ目の上を移動する、ガタンゴトンという音が無かったのも、それなら頷ける。
そうだ、ドアが開く時の音もなかった。
私は少し怖くなった。
ウサギはどこへ連れていこうというのだろうか。
ウサギに問いただしてみようとデンシャの中を見渡しても、ウサギの姿がない。
別の車両に移ったのだろうか。
今度のデンシャはやけに長い。
地下を走っているのか、窓から見える景色は真っ暗だ。
「ウサギさん、どこに行ったんだろう?」
私はふらふらと近くの座席にすわった。
走った後で、足が疲れた。
数分も座ったら、息も普通に戻った。
今度のデンシャも音もなく進んでいる。
まわりはずっと真っ暗なので、もしかしたら進んでいないのかもしれない。
ふわふわと浮いているような感じもする。
今、空を飛んでいたら面白いのにな。
私は先ほどの不安とは逆に、今の状況がどこか楽しくなっていた。
少しして、ウサギが奥の方から帰ってきた。
「どこに行っていたの?」
「いやいや、すみません、おじょうさん」
ウサギは小さなリュックを引きずっていた。
「何、それ?」
「リュックサックですよ」
「それは見れば分かるよ。どうしたの、それ?」
「落ちてました。何かいいもの入ってますかね?」
ウサギは私にそのリュックを渡した。
私に確かめさせたいらしい。
横に座ると、目を輝かせてリュックを見つめている。
私はリュックの蓋を開け、中を覗き込んだ。
「えっとね……ハンドシャベルでしょ、トランプでしょ。あとゴーグルに時計に花火、ライター……あ、シャボン玉キットが入ってる!!」
「シャボン玉キットですか?!」
ウサギは鼻息を荒くして、目のまわりに小さな輝きを潤わせた。
リュックからシャボン玉キットを取り出して、かまえる。
ヤクルトのような小さい容器に、細いストローがついている。
「懐かしいな。小さい頃にやったことあるよ」
「いいですねぇ、シャボン玉……」
「なになに? やる?」
「はいっ。丸くて優しいものは好きです!!」
ウサギは子供のようにその場でぴょんぴょんジャンプしてみせた。
本当に、嬉しそうだった。
私はデンシャの窓を半分まで開けた。
緩やかな風が私の頬を撫でた。
本当にデンシャは走っているのだ。
行き先も知らないまま、私とウサギだけを乗せて走る。
そういえば、と私は思った。
幾分古いデンシャになると、ドアの上に電光掲示板が無いんだなぁと、当たり前のことがふと頭に浮かんだ。
マイクロバスをそのままデンシャにしたような造り。
マイナーなローカル電車で確かこういうのがあった気がする。
電光掲示板があれば、次の駅が分かるのに。
とは言っても、全然駅に寄る様子のないこのデンシャには、そもそも電光掲示板なんていらないのかもしれない。
おっと、そんなことを考えているなら、シャボン玉をしよう。
容器の中にストローを少しだけ入れ、静かに吹いた。
小さなものも大きなものも、一斉に車内へと溢れた。
一部はデンシャの外に舞い、一部は座席に触れて溶け、一部は空中で消えた。
ふわふわと、一つだけ大きなシャボン玉が、私の目の前で浮かび続けている。
透明で、頼りない。
ウサギがそっと、その大きなシャボン玉に向かって手を伸ばした。
ウサギが手のひらに乗せようとした瞬間、シャボン玉は弾けた。
鼻に少しかかったのか、ウサギは目をぎゅっと閉じて、ふるふると顔を左右に振った。
その様子がどこかおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
「どうして笑うんですか?」
「ううん、ごめんね」
なおも笑いは止まらず、私は右手を自分の口にやって、笑いを堪えた。
「ほら、早く早く。次のシャボン玉をお願いします!」
ウサギは少し拗ねてしまったようだ。
私は言われたままにもう一度ストローを吹いた。
笑いがまだ残っていたのか、少し強く吹きすぎてしまって、頼りないシャボン玉が、たんぽぽの綿のように、散らばった。
ウサギはそれを一生懸命追いかけている。
ウサギの体にたくさんのシャボン玉が当たり、消えていった。
それがまたおかしくて、私はまた笑った。
ウサギは少しムッとしたようだったが、頬を緩ませ、一緒に笑った。
二人の笑い声が、がらんとした車内に、響き渡った。
本当におかしい。
こんな、今ではくだらないと思えるくらい幼稚な遊びで笑ったのは、いつぶりだろう。
高校生の頃に、言葉遊びをした時だったかもしれない。
連想ゲームがその時すごく流行って、何人かの友達と一緒に帰り道でずっとやっていたのを、今でも思い出す。
黄色と言ったら、レモンと信号くらいしか出てこなかったのは、今からしてみれば稚拙だと思うのだけれど、当時はそれがとても可笑しかった。
今だったら何が思い浮かぶだろう。
プリンタのインク、文庫本の背表紙、大手雑貨屋さんの紙袋……うん、もしかしたらあの当時が一番楽しかったかもしれない。
とにかく、私はウサギとシャボン玉をしているこの状況がおかしくて、腹を抱えて笑った。
ストローが座席の上で涎を垂らしている。
私は一度ストローを手にとり、座席を軽く手のひらで拭いた。
少しぬめりのある液が、私の手にこびりついた。
ウサギはひとしきり笑った後、鼻をひくひくさせて、窓の外を見た。
座席の上に膝から飛び乗り、私の顔を見て、言った。
「おじょうさん。“おつきさま”はもう、近いですよ」