2:こんな姿じゃ悪いやつに誘拐されてしまうかもしれないでしょう?
目を覚ますと、お腹の上に暖かな温もりと重みを感じた。
部屋の窓は開いていて、白いカーテンが夏の薫風に乗ってはためいている。
窓の向こうに、青々と繁茂した木々たちと、小さな田舎町の姿が映っていた。
少しばかり眩しい。
夏の日差しは照り返すように強く、新緑の葉々で和らいでいるものの、その濃い影にまた今年も暑くなるのだなと思いを馳せた。
「おはようございます、おじょうさん」
視線を戻すと、ウサギと目が合った。
何かの匂いが漂っているのか、鼻をひくひくさせている。
「おじょうさん、喉が渇きました。お水を一杯、いただけませんか」
私はウサギをシーツの上に移動させ、ベッドから起き上がった。
まだ眠たげなまぶたを擦りながら、キッチンへと進む。
底の浅いガラスの皿があったので、冷蔵庫からContrexのペットボトルを取り出し、ほどよく冷えた水を入れて、ウサギの元へと戻った。
窓から入る光が反射して、床に光の輪を作っている。
ウサギは小さな音をたてながら、水をなめるようにして飲んだ。
「嗚呼、ありがとうございます。おじょうさん、なかなか綺麗なグラスを持っているんですね」
「ありがとう」
私はガラスの皿を手にしながら言った。
「お世辞でも嬉しいわ」
「そんなことはない。そうめんでも食べたくなります」
ウサギは嬉しそうにはにかんだ。
一度キッチンに戻り、もう一度水を入れて、今度は私が何杯か飲んだ。
すーっと喉を迸る感覚が、朝の日に気持ちよかった。
影がさらに幾らか濃くなっている。
喧騒のない、静かな朝だった。
「おじょうさん」
と、後ろから小さく呼びかけられて、私は顔だけウサギの方を向いた。
「実はワタクシ、今日、行かなければならない場所があるのです」
「それで?」
体を向き直し、私は首をかしげた。
ウサギは目を細めて笑った。
「ほら、こんな姿じゃ悪いやつに誘拐されてしまうかもしれないでしょう?」
昨日の夜、私はふらふらと夜風にあたりながら家のまわりを散歩した。
歩くのは小さい頃から好きだった。
たまに中学校の通学路を歩いたり、歩いたことのない道を通ったりするのが好きだった。
山の麓にあるこの町は、少し道を外れただけで思いがけないところに繋がったりする。
京都のように、碁盤の目のような整然とした街に憧憬がれたこともあったが、この複雑に絡み合う町が、やっぱり好きだった。
階段を登るだけでいつもと違う町並みがそこに広がる。
こっちから見る町と向こうから見る町ですら全然違うのだ。
――こんにちは、私の町。
――さようなら、私の町。
――いってらっしゃい、私の町。
――おかりなさい、私の町。
――はじめまして、私の町。
――だいすきです、私の町。
けれども変わらないのは、穏やかで平和な風景だというところ。
のんびりと時間の流れるこの町が、好きだった。
家を出ながら食べたアイスキャンディーの棒を口に咥えながら、私はくるりと歩いた。
町明かりの少ない坂道を登って、少し急な階段を下りて、平らな道を進む。
ちょっと歩こうかなと思った時の、私のお気に入りの道だった。
畑や、草の茂る原っぱが、ところどころ道の脇に広がっている。
電信柱が木でできていればさぞや昔くさい場所なんだろうな、と一人でくすくすしながら歩くのが、たまらなく気持ちいいのだ。
んーと体を上に伸ばすと、アイスキャンディーの棒が鼻にぺちりとくっついた。
それがまたおかしくて、私は小さく笑った。
風や木々たちも一緒に笑っているようだった。
私は一歩一歩をかみしめるようにしながら歩いてゆく。
踵から地面に足をつけ、つま先から抜けるようにして離す。
ずいぶん前にテレビで健康的な歩き方、みたいな番組で同じような歩き方を紹介していたが、それはまったく無関係で、父がそうやって歩いていたので私も真似をしていたら癖になっていただけである。
この町に一人で引っ越してきてから、もう二年になる。
ここには昔の私を知る人は誰もいない。
私は新しいワタシとして、この町で今までとは違う私として生きているのだ。
たまに、都会で暮らしていた頃のことを思い出すことがある。
歩いて一分のところにファミリーマートがあったし、お腹がすいたとなればラーメン屋がそこらに店を構え、誰かと遊びたくなったら駅前の雀荘に足を運べばよかった。
買い物に時間がかからなかったり、電車でそう時間がかからずに美術館に行けたりするところは、少なくとも便利だった。
出版社での仕事だってある程度やりがいを感じていたし、人間関係に悩むこともさほどなかった。
なのに田舎町へ引っ越してきたのは、別に都会の生活に嫌気がさしたわけじゃない。
失恋をしたわけではなければ将来に不安を感じたわけでもない。
恋をしたことすらない。
仲のいい男友達はいたけれど、彼らと一緒じゃなければできないというものは無かったし、興味もあまりなかった。
もったいないね、と言われることがある。
未亡人かと思った、と言われることもある。
どうやら私はそのような人間に見えるらしい。
気にすることはまったくないが、しかし未亡人は少しショックだったかもしれない。
そんなに老けて見えるのだろうか?
数日間は紫外線やシワを気にしてみたり、パックをしてみたりしたけれど、自分らしくないなと思ってやめた。
のんびり生きるのが性に合っているのだ。
だから仕事を辞め、両親を残して私はこの町へふらりとやってきた。
坂が多いのが、気に入った。
出版社時代のコネを使って、雑誌のコラムを連載させてもらえることになり、それと今までの貯金で細々と生活をしている。
贅沢をしたいわけではないので、そんなに窮していることもなく、不自由もさほどなかった。
あるとすれば、食料や日用品を買うのに自転車しかないという点くらいか。
私のは元々折りたたみのできる自転車で篭がついておらず、いつもバッグを背中にしょって買い物にいかなくてはならない。
トイレットペーパーやティッシュペーパーなど、どうしても持ちきれないものは、近所の人に頼んで買ってきてもらうか、少しお金を上乗せして配送してもらったりしている。
車がないと遠出もできない。
けれど、あまり遠出をしたいと思わないので、ゆくゆく考えると車もあまり必要なかった。
もったいないね、と親に言われたことがある。
ある程度名前のある大学を卒業したのだから、もっと高収入を望めるし、いい人だって見つかる、と言っていた。
余計なお世話じゃ、という返事をするはずもなく、軽く聞き流して、私は江國香織の『冷静と情熱のあいだ』を読み進めるのだった。
特にその本ではないとダメという理由もないのだが、ミラノの街がプリントされたYシャツを持っている私は、気づけばミラノに憧れていて、ドゥオモに一度登ってみたいと願っていた。
そう話すと知人は『あなたの憧れるドゥオモはフィレンツェにあるんでしょ』と笑うが、その事実は私にとって別に大したことではない。
つまりそういうことで、その程度の話だということ。
特にその本ではないとダメという理由もない。
そんな些細なことを思い出しては笑ったりしんみりしたりため息をついたりしながら歩くのだが、懐かしいと思い出にするにはまだまだ時間は経っていない。
今思い起こしたものは、そんな昔の話ではないのだ。
二年という歳月は、この年代の私にとって短いわけではないが長く遠いものでは、まったくなかった。
そんな結論に達したと同時に、私は暗がりの向こうに、小さな影を見た。
私の前をひょこひょこと歩いている、黒い物体。
大きいようで小さい。
私は一目見て、それを気に入った。
それが、私とウサギの出会いだった。
ウサギは今いったい何を考えているのだろうか。
左右に揺れながら歩くその姿は、誰かにお酒を飲まされたのではないだろうかとさえ思うほどおぼつかない。
疲れているのだろうか、それともそういう風に歩くのがウサギなのだろうか。
私は生まれて初めてウサギを見たのだ、そう思うのも不思議ではない。
私は左右を見渡し、誰もいないのを確認した。
一人ぼっちの街灯の下、年老いた石垣、囁きあう草花たち。
誰かが私のことを監視している様子もないし、ストーカーがいることも無さそうだし、まして両親が私を心配してこの町に来た、ということもない。
私は、ある一定の衝動に従って、ウサギを後ろから抱きしめた。
寂しかったわけではない、単純に、ウサギに興味があった。
好奇心旺盛なのは私の長所であり、同時に短所でもある。
「ねえ、よかったら今からうちに来ない?」
ウサギは驚いたように顔をはっと上げ、しかし私の腕から逃れることはできなかった。
「行こう?」
ウサギの返事も聞かないまま、私たちは私の家へと向かって走り出した。
そしてその夜、久しぶりに私は自分以外の生き物の温もりを、肌で感じたのだった。
「それはつまり、私のようなやつが他にもいるかもしれない、って言いたいの?」
若干の皮肉を込めて、私はウサギに向かって言ってやった。
ウサギは私の言葉に、爽やかな笑いで返した。
私の皮肉に悪意がないことを感じ取ったらしい。
ウサギのくせに、と私は心の中で小さく悪態ついた。
「ま、いいよ」
別段、急ぎでやらなくてはいけない仕事もないし、ウサギの行きたいところについていくのも悪くなかった。
ウサギはますます嬉しそうな顔で、小さく鼻をひくひくさせた。
夏の日差しがほんのりと角度をあげたものの、照りだされた影はさほど動いてはいない。
この町は、時間がほんっとうにゆっくりと進む。