序章:月の、静かな夜だった
握りしめていた手を開くと、紅い花びらが潮風にさらわれて、一枚、一枚と翻りながら、細い道を作るように散っていった。
月の静かな夜だった。
暗い星空に共鳴するように、ひらりと来ては還ってゆくさざ波が、穏やかな調べを奏でている。
砂浜で横になりながら目をつぶると、時間が経つのを忘れてしまいそうになる。
私はまぶたの向こうの星々を数えようと指を折った。
一、二、三、四、五。
目を開けて花びらの向こうを見つめると、白いうさぎが、鼻をひくひくさせながらひっそりと座っていた。
私の手から零れおちた花びらをはんでいる。
その朱い目に、紅い花弁がよく似合っている。
私は空に視線を戻し、星を数えなおそうとして、やめた。
月の静かな夜だった。
人の影も無ければ、人の暮らしている痕跡もない。
車の音もしない。
動物の声もしない。
風の声も届かない。
そういえば、かぶっていたはずの麦わら帽子は、いつの間にか飛ばされてどこかへいってしまった。
もしかすると、この波に乗って漂っているかもしれない。
遥か向こうまで続いているはずのこの海は、黒いうねりのようで、私には彼の姿が確認できなかった。
生き物は、海から来て、海に還るという話を、大学の図書館で読んだことがあったような気がする。
無機物だって、きっとそうなんじゃないかと私は思う。
麦わら帽子の神様が、きっとあの子を海に還してくれたんだ。
よかったね。
私は心の中で呟くと、そっと体を起こした。
海は果てしなく広い。
私の知らないところまで、私の届かないところまで、広がっている、はず。
私も行きたい。
どこか遠いところへ。
誰も知らないところへ。
もう帰れない場所まで。
月の静かな夜だった。
私はそっと立ち上がる。
スカートから何枚かの紅い花びらがちらちらと舞った。
私はその一枚を拾い上げて、その胸に抱いた。
花びらが私の手に濡れて、ざらりとした。
顔を上げる。
白いうさぎも、いつの間にか顔を上げて、海の向こうを見ていた。
私と白いうさぎだけの世界。
私はしばらくほうっとうさぎのことを見つめた後、うさぎと一緒に、海の向こうを見つめることにした。
月の、静かな夜だった。