王妃なる王
「おい、指一本でも触れてみな。国政ボイコットしてやんぞこらぁ(意訳)」
外務官の父、宰相の叔父、辺境伯の顔役爺の溺愛する孫娘。王妃にと育てられた悪役令嬢は断罪されず王太子妃に収まった。
ただし、王太子は側妃に迎えた商家の娘に首ったけ。笑顔なき婚礼は盛大に、初夜は罵り合いで終わった以降は音沙汰なし。恋狂いのアホンダラ王太子に代わり、執務政務を一手に引き受け周辺国に女王国だと揶揄される昨今。陛下は引退を仄めかし、周囲の大人は皆口を揃えて孫を催促する。
「そろそろ御子は…」
「側妃様にご要望くださいませ。私と殿下がいかに睦じいか皆さんご存知ですわね?
いいですか?私が孕れば誰が王の代わりを務めるのです?私をこれだけ酷使したあげく鼻から西瓜を出すような痛みに耐えろと?そもそも側妃しか愛せぬ王太子と閨を共にしろと?
2年毎夜のように蒔いても実らぬ種に期待もできませんわ。はやく養子を迎えなさいませ。
あちらもこちらも負ぶれや抱けやと身勝手な。私、他国の方々から女王と揶揄されて散々肩身の狭い思いをしておりますのよ?」
と、毎度言い負かす労力のなんて無駄なこと。
その夜、愛しの側妃が不調で妊娠したかもしれないから別の穴で欲を発散しようという不埒な輩がきたら、口汚い悪態を浴びせても致し方ないはず。
「おい、今日からしばらく抱いてやる。脱げ」
「…御冗談を。お断りいたしますお帰りくださいませ」
「なっ!折角情けをかけてやろうというのに!」
「自惚れないで。能力もコネもない負んぶに抱っこの鼻垂れ王太子さまに乳まで吸わせる謂れはありませんわ」
「貴様言わせておけば!男というものを教えてやる!」
「おい、指一本でも触れてみな。国政ボイコットしてやんぞこらぁ(意訳)」
組み敷かれて鳥肌が立ち、悪寒に体が震えたけれど、幸い口から悪態は吐き出せた。さらに幸いなことに王太子は脅しを脅しと理解するオツムはあったらしい。
「貴様覚えておけよ!この男女!一生処女でいればいい!女のなりぞこないめ!!」
「うるせぇ種馬王子!大人しく牝馬に種付けしてろ能無し!!(意訳)」
「…っ!!好きで王族に生まれたのではない!!」
「私だって好きで王太子妃になったわけではないわ!失せろ甘ったれ!」
心から傷付きましたといわんばかりに吠えて、泣きながらでていった王太子。つい、最後は(意訳)をつけ忘れてしまった。
そう、彼だって望んだ婚姻ではなかった。開花しない才に惨めに苦しんでもいるのだろう。
しかし、しかしだ。私に全部擦りつけた罪は重い。奴は側妃を娶れ愛に生きているが、私にはそれすら許されないのだ。ただ飼い殺され、消費される。なんて虚しいのだろう。
呼び鈴を鳴らし、近衛を呼ぶ。
声も物音も漏れていたのだろう眉を寄せ、藍色の瞳に心配を滲ませて彼は音もなく入ってきた。我が近衛にして我が推しメン、そして恋しい人。
「私を抱いて」
できるはずのない命令に、彼は歯噛みする。私はゆっくり扉に向かい、閉める。跪く彼の肩をひと撫でしてベッドに戻った。
ギシリと軋むベッドを一人戯れに揺らす。
らしくなく子供っぽい仕草をする私に彼は困惑しているのだろう。ひとしきり鳴りやすく加工されたベッドを揺らした私は己の美貌をより際立たせるよう意識しながら笑んだ。
「貴方を解任する」
俯いていた彼がばっと私を睨む。その目は愚直に何故と問うていた。
「もう疲れたのよ」
王后が儚んで半年。トチ狂ったのか、王太子が無理なら陛下頑張っちゃう?やっちゃう?と。冗談でもやめれ後妻娶って頑張れやと一蹴したが本気かもしれない。
それにひと月前、ただの私を一心に愛してくださっていたお爺様が黄泉に旅立たれた。
叔父様やお父様達は王太子妃としての荷を負わせるばかり。
そして、先ほどのアホンダラ。アホンダラの相手するだけの側妃。
真面目すぎる近衛。
もう、なんのために生きているのかわからなくなってしまった。
親しいメイドは慮り同情するばかりでこちらも暗くなるから先日暇を出した。専属の料理人は外交先に是非にと乞われたので差し上げたばかり。
最後に熱を孕んだ眼差しを向けながら手を出してこない意気地なしを切り捨てて、私はようやく自由になる。
「貴方を欲しがる国がある。受けなさい」
「嫌です」
「否やはないわ」
「…何故」
「貴方達みんな邪魔なのよ。もういいの。いらないの。貴方達みんな、私を溺死させるための重石でしかない。いままでご苦労様。消えて」
近衛の顔が絶望に染まるのを冷めた目で見下ろす。メイドも料理人も同じ顔をしたわね、とにべもなく思い出す。
すぐに王太子直属の兵が彼を引っ立てに来た。王太子の閨を蹴ってすぐに鈴で近衛を呼び伽をせがみ、扉は閉められベッドは軋み続けたのだ。私に腹いせをしたい王太子が放っておく筈がない。
捕らえられた彼の処理は手配済み。隣国を挟んだその先へ、きれいな履歴のまま送りだされる。
そして私は独りになれた。
機械のように政務に勤しみ、外交をこなす王太子妃。ばたばたと薙ぎ払うように片付けた身辺に叔父様やお父様達は警戒こそしたものの、なにができるわけでなく。
外交の傍ら毒物を入手したり、報酬次第でなんでもこなす器用な傭兵とツテを結んだりするたびに哀れなほど必死に私に気負わせる大御所達。広まり続ける無能な王家の醜聞。
死か逃亡かで悩み続ける私に新たなアプローチがあった。
北隣国の第三王子。恋した近衛のようなしなやかな体躯。象牙色の肌に、眉も睫毛も神秘的な白金で淡く輝くよう。台座に嵌められたような見事な翡翠の虹彩は理知を湛えた漆黒の瞳孔を彩るのに相応しい。
彼は私を見下ろすと、砂糖を煮溶かしたように笑った。
「兄が強請った料理人が未練を語って聞かせてくるのです。気になって会いに来てしまいました」
「まぁ。彼の料理は口に合いまして?」
「ええ、彼のおすすめのデザートも素晴らしい。卵色の艶髪も、白玉のような肌も、白桃のように淡く色付いた頬も、とても美味そうでそそられる。成人した男がまさか葡萄酒色の瞳に一目で酔わされてしまうとは」
(人食文化なのかしら)
「我が国の窓口は今宵より私が引き受けます。これからぜひ私を覚えて、知ってください」
第三王子はそう言って流れるように私の掌に口付けた。そこでようやく彼に好意を向けられているのだと理解する。
「ごめんなさい」
彼もまた私を縛り付ける枷となるなら切り捨てなければならない。私は王太子妃だ。彼の好意を受け入れることはできない。彼に惹かれても実るものはなにもない。
「近衛を手放したばかりなの。やっと自由になって終わりの選択肢を悩む今、新たな楔に囚われるつもりはないわ」
少女のように逢瀬を楽しんだとして、私は女にはなれない。そんな恋を繰り返すつもりはなかった。王太子妃は幕を下ろしてしまいたいのだ。
終わり、と私の言葉を反芻する彼。心なしか周囲の他国の重鎮方もざわめいているような。
「思慮深く類稀な誠実さで各国を繋ぐ貴女にそのような顔をさせるのですか、かの国は」
どのような顔でしょうか、とは聞けない雰囲気だ。彼も、会場そのものすらピリピリと張り詰めたものが充満している。これはまずい。
「私も王太子妃ですから、そろそろ次代をと願われておりまして。なので遠くないうちに陛下に、いえ、あの、」
陛下に召し上げられそうなどと口が滑り、慌てて言葉を切ったものの会場の冷気は全ての音を攫い、静寂が三秒。
「陛下に…?」
第三王子から吹き荒れた吹雪は会場に嵐を巻き起こした。
失態だ。やってしまった。外交の場を壊してしまった。かつてない大失態に身が震える。連れてきた自国の外交官すら会場の皆様と一体となって険しい顔をしていた。
血の気が引いて崩れ落ちそうな私の手が強く熱く握られる。
「貴女を攫いに行く。近いうちに、必ず」
後ずさった私を彼が抱きとめる。
「貴女の荷を私に分けてください。共に背負い、寄り添い、心を交わしましょう。きっとうまくいきます。…私は孤独で安らぐような生活などさせませんから」
ぐらりと脳がかき混ぜられたような。心の奥底に沈めた澱みを浚われたら。
「ふっ…ぅ…」
「今は泣いてください。その涙を吸らう資格を手にしてまいります」
私の頬を優しく拭い、濡れた指を蠱惑的に舐める様を見せ付けられ否応なく顔が熱くなる。茹だった私を外交官に託し、彼は人混みに消えてしまった。
「王太子妃様、今宵はもう」
「そうね、お暇いたしましょう」
退場を知らせる扉の音に多くの諸国方が振り向く。彼らに静かに礼をとって、私は会を辞した。
「我らが愛す清楚なる姫を貰い受けたい!助力願えるだろうか!」
彼の声も、満場一致とすら思える応の拍手の大きさも知る由もなく。
一週間かけて帰国し、帰城すると、知らせを受けた父様が駆けてきた。
ぱしん、と頬を張られる。
「お前はなにをやらかした?誉ある王太子妃には相応の責任があるのだと教えてきたというのに!」
ぱしん、対の頬を張る。
「自惚れるな!未だ王太子妃としての務めも満足に果たせぬままのお前が、王太子の訪を無下にし、近衛に迫り、陛下の誘いを断り!あげく他国の王子に色目を使うなどと!恥を知れ!」
繰り返される張り手に、父の後ろに並ぶ陛下に王太子に側妃の嘲りの笑み。かっと感情の昂ぶるまま父の三度目の張り手を叩き落とした。
「…一切の、執務を、放棄させていただきますわ」
地の底から滲み出したような声。沸々と溢れだす怨嗟をなんとか飲み下してそれだけ告げると早足で奥宮に向かう。
「この国の人間を誰一人として通さないで」
門に、扉に配置された王妃直属兵に命ずる。彼らが王や王太子、側妃にどれだけ抗えるかわからないが命じるだけ命じておく。王太子妃の居室である自室に控えた侍従を全て追い出して施錠し、続き間の扉も閉めてチェストで塞いだ。駄目押しにベッドも寄せておく。ドレスやスカーフをいくつか犠牲にして出来うる限りの篭城の準備を整えた。
慌ただしい外の様子など気に止める余裕もなく、カウチのクッションを両手で振り回して暴れる。
自惚れるなですって!?娘に荷を負わせて役目を終えたと一息つくような怠け者が!
未だ王太子妃としての務めも満足に果たせぬままですって!?自らの役目を果たしている者がどこにいるの!?陛下も!王太子も!側妃も何の役目を果たしているというの!?
王太子の訪を無下にして、近衛に迫り、陛下の誘いを断るのも、誰も私を愛してないからじゃない!
あげく他国の王子に色目を使うなどと!嘯くその目玉をくり抜いてやりたい!
悔しい、悔しい!悔しい!!
あんな奴らのためにいいように使われている自分が。
幾度も叩きつけたクッションが裂けて羽が舞ってもなお振り回した。
言葉にならない叫びをあげ終えたところで、ノックに気づく。
「…どうしたの」
「陛下と王太子が呼んでおります」
「捨て置きなさい」
「え?あの…」
「放っておきなさい!あの血統書付きの家畜どもに煩わされるのはもうこりごりなのよ!」
散らばった羽毛を襤褸切れで煽りながら叫ぶと兵士は戸惑いながら去っていった。
しかし、しばらくしてまた侍従から声がかかる。
「宰相閣下が入室の許可を求めておいでです」
「…扉の前まで許可します。私が何を手にしているか想像しつつ、行動には結果が伴うことを重々考えながら来るよう言付けなさい」
「はぃいっ」
ペンダントに仕込んだ毒薬を握りしめながら、ぐらりと揺れる頭を押さえ叔父の叱責を想像した。
何時の間に寝てしまったのか、扉をこじ開けようとする音で目が覚める。
「なんのつもりですか!こじ開けるつもりならば毒をあおります!」
「許してくれ!部屋で倒れている訳ではないのだな?無事なんだね?」
宰相である叔父様だった。父様と変わらない印象だったが、どうやら冷静に話をする気があるらしい。
「兄がすまない。陛下や王太子らに色々吹き込まれているようだ」
「もう匙は投げましてよ」
「わかっている。腑抜けた王室と出来損ないの王子の補助に充てたつもりが、君がいなくては国が回らないまでに依存してしまった。いずれはこうなるような気はしていたよ」
諦めたような声にざわりと苛立つ。王家が放り出す責をひたすらに私に転嫁してきた一人である叔父がよくもいけしゃあしゃあと。
側妃など娶るのを許した陛下と叔父様のせいで不出来な王太子がさらに腑抜けたのだ。腑抜けさえしなければ王太子を表に立てて私は裏方に徹することも可能だった。お互いを労い尊重し合えれば愛だって育めたかもしれないのに。暗愚な大人は王太子が側妃を愛する愚を選ばせた。
側妃は寵愛と贅沢と正妃への嫉妬で生きているに等しい無能な俗物であるし、あの能天気に勝ち誇った顔を見かけるたびに張り倒したくなる。
さっさと後継を産んでもらっていちはやく役目を辞そうと考えれば、種か畑かどちらに不備があるのか知れないが身ごもる様子もない。さらには陛下による執務放棄。父様も、叔父様も後継が思うように育たず私を頼り、王太子の分、王太子妃の分、加えて陛下の分、よく耐え回し続けたものだ。
「そういえば、側妃は次代を宿しましたの?」
「それが原因か?君が嫌なら堕ろさせてみせるが」
「とんでもない。早く産んでもらいたかったのです。次代を育て上げれば早く王太子妃を辞することができるかと考えて。
今となっては関係ないですけれど王太子の件で気になっただけです」
「…側妃様は経口避妊薬を常用してましてな。三ヶ月ほど前に発覚し、他薬にすり替えておるのです。なのでおそらく懐妊されたと思う」
「…あの女。まぁいいわ」
「それで本題なのですが、宣戦布告されてしまいまして」
「は!?」
発布国は北隣国、次いで静観を表明する書簡が山のように届いたらしい。次いで、ということは静観といいながらも発布国に通じ、恭順するに等しいということだ。
書簡のないらしい西隣国はそもそも仲が悪い。助力を頼んだところで後か先か飲み込まれて終わる。
結論として北隣国との一騎打ち。
「無理ね」
国土の広さしか取り柄がない我が国の安穏とした兵では北隣国の屈強な軍は止められない。暗愚な王を守る士気も低い。
「王太子妃様が指揮に立っていただければ…」
「立つと思うの?いままでクーデターを起こさなかったことを不思議に思ってなさいよ」
主役がクソな舞台でも、脇役はいつか舞台を降りれると思ったから乗っ取りはしなかったのだ。舞台そのものの終わりに抗うものか。
「嫌でしたか。その肩書きは…」
「…兵も、民も、無抵抗であるよう指示なさい。彼はきっと無駄に人を殺めたりはしないわ」
ただの肩書きでないならばこんなことにはならなかった。ただの肩書きにしかしなかったからこんなことになったのだ。
「助かりたくば陛下と王太子と身篭った側妃を牢にでもいれて彼の国に差し出しなさい。私も逃げるつもりはないから」
王太子妃という不可逆の既婚者に興味を持った第三王子はきっと私を戦利品としてこの国から奪う体裁を取るつもりなのだろう。動きの速さひとつとっても以前から攻め込む予定であったことは察する。北隣国は我が国とは逆の意味で国力と国土が釣り合っていないのだ。
あの夜会で私が彼の琴線に触れなくても関係なかった。
私は所詮決まった行程に落ちていた路端の石。蹴って道を開けるか拾ってポッケにいれるかの違いだったのだろう。
落胆はしない。
それで構わない。
彼は私と縁の糸を縒りあわせようとしてくれるつもりなのだから。
「この国の人々を見捨てられますか」
叔父は何を言っているのだろうか。
嫌々仕方なく王太子妃をやらされ、やりたくもない役柄を敬うだけの人たちに何を思えと。この国の奴らは皆『便利な王太子妃』が全部やってくれてるから有難がってるだけ。
「さっきから何?喧嘩売ってるの?買わないわよくっだらない」
「あなたは王太子妃、いずれは王妃に、国母になられる立場なのですよ」
「…あなたは宰相として王太子妃を諭しているの?無能ね、無能だわ」
能力があるにしろないにしろ序列はまず陛下、王太子だ。王太子妃相手にいつまでも何をしているのかこの愚図は。
「この国の人たちは、誰も私に寄り添ってくれなかった。…さようなら叔父様」
焦る制止の声は私が毒をあおったと勘違いしているのか。心配の声はやがて罵倒に変わる。期待していたのに、君はその立場に相応しい能力があるのに、と。身勝手な言い分を暫く吠えて消えた。
「執務用のおやつも幾許か。抉じ開けられるか、火を放たれるか。私の王子さまは間に合うかしら」
疲れて目を閉じた。幾度も眠った。眠ることしかできなくなった。
私の心を癒す淡い夢は遠い喧騒、あの人の声、扉を壊しバリケードを破りながら私を呼ぶ声、持ち上がる身体、温かい鼓動。
「攫いに来ましたよ」
優しい声に擦り寄ると髪を撫でられる。しばらく手入れもできてない。所々引っかかる指に恥ずかしさと申し訳なさが込み上げた。
「__過労による衰弱と栄養失調と脱水、しかし休養と食事で持ち直せますのう。みっともなく急ぎ倒した甲斐がありましたか?三の君よ」
「あった、あった。だから妃殿にばらしてくれるなよ爺」
「ふぉふぉふぉ」
南の隣国を攻め落とした北国は大規模な戦闘も略奪おこなわず、たったひとり南国王太子妃を奪い軍を率いた第三王子への褒賞とした。力のない王室は低爵位の貴族に落とされ、王室の贔屓や便宜で屋台骨を支えていた商会の勢いが急落する中、人々は大した混乱もなく支配者のすげ替えに恭順していく。
北国で療養の日々を送りながら私は故国を眺めている。
幾度か奪還の蜂起の気配はあったようだが、民衆は白けた目で距離を取っただけだったようだ。てっきり属国属領となった故国の舵取りをやらざるをえないと思っていた私は安穏とした日々に拍子抜けするばかり。
「また故国を思っているのですか?」
第三王子は縁を撚り合わせようとよく気をまわしてくれる。鏡に映る未だ若さのある自身は実は幻で、本当はもう老いて面倒を見てもらっているだけの老婆なのではないかと疑うほどの扱いを受けていた。
燃え上がるような愛がなくとも、私はそう遠くなく彼を信頼しすべてを委ねることができるだろう。だけど、老夫婦のように寄り添う関係もまた私にとっては奇跡のような幸せだろう。
「憂う気持ちはありません。むしろ故国の民はより良い環境に身を置くこととなったと思います。しかし、私はここでいつまでものんびりとしていていいものか、と」
「私は食糧難や人口過密、資源不足をすべて解決できる肥沃で広大な土地を国に捧げた功労者ですから。妻と共にこれから内務でゆるりと過ごしていけます。貴女も、もう充分働きました。どれだけ休んでいても誰も何も文句は言わせませんよ」
荷を分けてくださいとは言いましたが、いらない荷物は捨てて差し上げます。そう第三王子は悪戯っぽく笑って見せた。
そして優し気な瞳は挑戦的に色めく。
「奪った女性は孕みの見極めのための規則で三ヶ月手を出せません。あとひと月、心安らかにお過ごしください。それから私は全力で貴方の心を奪いにかかります」
私の手を取り甲に口付ける第三王子の瞳は熱い情を滾らせていた。その熱に枯れた芯が僅かに熱を持つ。私は彼の男の部分を綺麗に覆い隠した仮面を見破れていなかっただけのようだ。
「一目で貴女の色彩に惹かれた。言葉を交わせば他に折らせまいとする姿勢に焦がれ、独りで枯れると仄めかされて焦った。手に届く今、すぐにでも手中に収めたいと逸る衝動を必死になって抑えているのです。貴女の過去をすべて上書いて、塗り替えてしまいたい。私は嫉妬に正気を喰われる前に貴女の心身を手に入れなければならないのです」
彼が紡ぐ奔流のような思慕が身の内を駆け回っていく。酩酊するようにふわふわと三半規管が揺れる。未だかつて口説かれることなど初めてなのだから少し手加減してほしい。
「あとひと月、貴女の中に命が宿ってないことを祈ります。そのあとは本当に、本当にお覚悟を」
脆いものを壊さぬように柔く抱きしめられた。
その逞しい体躯も、陽だまりのような匂いも、激しさを内包しながらも頬を染め私を優しく包もうとする心も、その美しい風貌がなかったとして恋するに難くないと自覚がないのが可愛らしい。
「覚悟しておきます。でも、祈らないでください」
少しの逢瀬で、少しの言葉で、私はもう手遅れなのだ。飢えていたのだ。腕を回して彼に抱き着き、私の心はころっと彼へ転がったのだと伝えるように抱きしめる。
「私は王太子妃という名の王だったのです。王子様に見初められてようやく姫になれる…」
「っ!うそだ、まさか!」
がばりと彼が身を剥がし、思いもよらなかった僥倖に茹だった全身を震わせ、潤んだ瞳を輝かせながら声にならない感動を喉元につっかえてはくはくと喘ぐ。初心な反応を見せる彼を、心身ともに初心な私が笑った。
「はやく私を姫にしてくださいませ。私の初めての王子様」
「っ!煽らないでください!お願いだから!信じられない、こんな奇跡がっ!ああ、愛しています我が姫よ!」
発するや否や、苦しいほどに強く抱きしめられる。私も想いの丈の限り抱きしめかえす。
実は立てこもった奥宮で死んでいて、これは黄泉の夢だといわれても納得の幸福がここにあった。
南隣国を併合し大国となったその国は永く富み、かの第三王子と戦利品として据えられた妃は人々に夫婦仲を説く象徴とされながら睦まじく寄り添い国の繁栄に尽力したという。
さらっと幸せな話をノンストレスで。
ざまぁすらないですが楽しんでいただけたら幸いです。