007:……シズク、でれでれしすぎー
これっぽっちも睡眠時間を取っていないのに気分がスッキリ爽やかなのはどうにも違和感があった。
カレンと出会ったことで生活のリズムが粉砕されたことは疑いようのない事実だが、別にそれについて文句を告げるつもりはなかった。失ったモノと手に入れたモノを比較した場合、圧倒的に手に入れたモノの方が多いからだ。
失ったモノとはつまり俺の常識であり、普遍的な意味での日常だ。
怪我をしたり、首を咬まれたり、死んだり、血をいっぱい流したり、死んだり、生き物を殺したり、棒っ切れで殴ったり、突き刺したり、叩きつけたり、そして死んだりする日常への変質。
正直言って、今の自分の精神が歪んでいないと言い切れないところが少しだけ怖い。
だが手に入れたモノとは俺がずっとずっと欲しかったモノだ。
それをあえて口にはしたくない。振り返りたくない過去である。それをくれたカレンはまさに俺にとっての救いだった。そしてかわいい。初めて出会ったときの彼女の可憐さと真っ白な柔肌を今でも鮮明に思い出せる。
抱きしめられたときの柔らかな感触、ぬくもり、匂い、艷やかな唇、スッとした鼻立ち、青く煌めく瞳、蒼白の銀糸、控えめな双丘、桃色の突起、小柄で細い身体のライン、誘惑的な眩い白い肌、自己主張の小さいおへそ、一筋のアレ、健康的なお尻と太もも、ちょこんとして可愛いらしい足のつま先まで。
その全てが愛おしい。
うーん、ここまで鮮明にカレンの裸体を思い出せるなんてもはや変態の領域かもしれない。俺の映像記憶はここまで精度が高かっただろうか。悪いことではないから別にいいか、便利だし。
「……風呂場でちょうどよかったな」
何がちょうど良いのかはさておき、俺はいまシャワーを浴びて精神を研ぎ澄ませていた。
ミラクルベッドのおかげで肌や頭髪の清潔感についても保たれているとは思いつつ、それでもシャワーを浴びたい気持ちになるのはなぜだろう。
温水を頭の天辺から浴びることで雑念や精神的な疲労が一緒に流れ落ちていくから。そんな理由かもしれない。できることなら煩悩も一緒に洗い流してほしかったところである。
『ほほーう。シズク、なかなか肉体が引き締まってきたんじゃないかな? さすがボクのダンジョンに通っていることだけはあるねっ』
「ッ……カレンのすけべっ! 女の人っていつもそうですよね、男の裸体をなんだと思ってるんですか!?」
と言いつつも俺は特に身体を隠すようなことはしない。ちなみに人生で一回くらいは言ってみたかった感のある構文だ。正直、俺もカレンの裸を想像してイロイロしているので彼女を非難できない。お互い様だ。
一部、他人様には見せられないような状態になっているがカレンに見られるのならばむしろ本望である。ついでに俺の意志ではどうすることもできない本能でもあった。
シャワーで汗を流すといえば、今は夏真っ盛りな季節である。
セーフルームから戻ってくると夏特有の蒸し暑さがアパートの一室をむわあっと包み込んでいた。俺の不快指数がぐっと高くなる。夏場に関してはギリギリまでカレンのダンジョンにお暇していた方が経済的にも精神的にも助かるかもしれないな。
電気代の節約にもなるし。……いや、そんな理由でダンジョンに挑むのもどうなんだと思わなくもないが。
『いいねいいね、どんな理由でも構わないからもっとボクの中においでよ。ボクはいつだってシズクを大歓迎するんだからね』
カレンと頭の中で世間話を楽しみつつ、シャンプーで泡だらけになった頭髪をシャワーの温水で洗い流す。爽快感を味わいながら、ふともう一つの違和感に気がついた。
「ふぅ、朝食はコーンフレークとバナナでいいとして……ん? あれ、もしかして腹も空いてないんじゃないのか、これ」
俺は腹のあたりをなで回して空腹度合いを確認した。
この感覚はなんだろうな。今から腹一杯になるまで食べられるような気もするし、このまま外出して軽く走り込みをしても大丈夫そうな満足感のようなものもあった。まるで空腹感と満腹感がごちゃ混ぜになっているみたいだ。
朝食代が浮いて助かるような、そうでもないような。体作りのためにちゃんと食べたほうが良いのかな。
カレンとの出会いで唯一困っている事と言えば、こういった違和感が多発することくらいだろうか。少しばかり調子が狂う。
これもステータスの恩恵の一つなのだろうか。
腹持ち、つまり燃費が良くなった的な? 向上した生命力が何か内蔵に作用しているのかもしれない。
それともこれもミラクルベッドのさらなる効能か?
傷を癒やし、精神も癒やし、睡眠も不要にして、さらには清潔感すら保ち、衣服を修復し、そして空腹感も満たされるとか盛り過ぎじゃないか?
まあ、とりあえずカレンに聞いてみれば済む話か。
食うべきか食わざるべきか、それが問題だ。
『んー、ご飯はしっかりと食べた方が良いんじゃないかな。それと……ごめんね、ボクのせいでシズクの日常を崩しちゃって』
しょんぼりとしたカレンの声が脳内に届く。
俺は慌てて声をあげた。
「別に謝らなくていいって、ただ現状を確認したかっただけだよ」
カレンに自分の頭の中を覗かれていることは重々承知しているが、こういうときに少しだけ困る。別にカレンを非難しているわけではなくて、ちょっとした思考の一片に過ぎないもので落ち込ませたくなかった。
いや、こういう思考もカレンは把握しているからその心配が不要なのも理解はしている。ただ非難するときはしっかりと理由を添えて行いたかった。
感情のままに当たり散らすようなことはしたくないのだ。と、カレンに八つ当たり気味な上段蹴りをかましたのは何を隠そうこの俺、中ノ森シズクです。反省はしている。
俺個人としてはカレンに頭の中を覗かれようとどうとも思わなかった。なぜなら、俺にはどうしようもないからだ。
どうすることもできないことに関してイライラと苛まれるくらいなら思考を放棄した方が百倍マシである。それに俺の脳内を覗いたところで何の利用価値もないだろうし。
『そうやって割り切れるところもボクは純粋に凄いと思うよ』
「そうか? けっこう現実的な思考だと思うけどな。自分は自分にしかできないことをすればいいんだ。できないことにいつまでもこだわっていてもしょうがないからな。……まあ、ある種の努力放棄ともいえるけどさ」
大体こんな思考で俺は20年間を生きてきた。
正確に言うなら、19年と半年ってところか。法律が改正されたことでなんと俺は既に成年扱いである。これっぽっちも自覚はわかないけどな。ちなみに飲酒と喫煙はこれまでどおり20歳にならなければ飲んだり吸ったりしちゃだめだってさ。
あと競馬も駄目らしい。残念。
子どもっぽい感情であることは自分でも自覚しているが、あんまり成人というものにはなりたくなかった。もはや手遅れだけどな。
「ああ、大人になりたくないなぁ」
ピータパンシンドロームみたいなこと言ってる。まあ実際、怖いのだ。大人になることが。
『シズクは歳を取りたくないの?』
「別にそういう意味でもないんだが、まあそれに近いかな」
自分の行動に責任を持ち、まともな大人になる。
そんな当たり前のことが末恐ろしく感じる。アパートで一人暮らしをしているとはいえ、それはすべて両親の仕送りのおかげだ。アパートの家賃や生活費も、大学の入学料や年間授業料だって父さんと母さん、あと爺ちゃんのおかげなのだ。
せめて食費と光熱費くらいはと奮起してアルバイトをしてはいるが、どうしても自分の趣味や娯楽を優先してしまう。実に軟弱な精神の持ち主だ。
それでも大学の講義をサボるなんてもったいなくて考えられないね。
大して学習意欲もないくせに、ただモラトリアムを楽しむためだけに俺は大学に入った。だからこそ、両親に申し訳が立たなくて授業料分くらいは真面目に講義を受けようってのが俺の中で明確なルールとなっていた。
結局、講義を真面目に受ける理由もその程度のものだ。
それは果たして『真面目』と言えるのだろうか。
「っと、何だか妙な思考の渦に落ちそうになったな。……きっと、こんな自分がまともな大人になれるのかって不安なんだろうな。だからこそ、こうして真面目であることに対して意固地になっている気がする」
不思議な気分だ。
以前まではこんな風に自分を見つめる作業なんて死んでもしたくなかったのにな。これもステータスの恩恵によるものなんだろうか。それとも16回ほど死んだせい精神的に何かが覚醒したのかもしれない。
『なるほどっ、つまりシズクはこれからもボクを、ダンジョンを攻略し続ければ良いってことだねっ』
んん? どういう思考過程があってその発言に辿り着いたのだろうか。
ステータスのくだりか?
『要するにね? シズクは成長したいんだよ。それでお父さんとお母さんにこう言いたいんでしょ? どうよ、これが成長した俺の姿だってね』
なるほど、目からウロコとはこのことだ。
俺のウジウジごちゃごちゃした内面をあっさりと簡潔に表してくれるとはね。流石、カレンだ。
「ふふっ、そうだな。そのとおりだよ、カレン」
俺は成長したいんだ。
そしてそれを両親に、誰かに誇りたい。認めてもらいたい。
そんな単純な話だったのだ。
自己承認欲求を満たしたい。言葉にすれば実にありきたいな話だった。でもなんだか今日は一段と頑張れそうな気がする。自然と拳を握りしめ、身体の内から力が湧いてくるのを俺は感じとった。
まあ、風呂で素っ裸なまま漲るのもなんだかアレだけどな。
アパートの扉に鍵を掛けたことを三度ほど確認してから、俺はコツコツと小さな足音を鳴らしながら階段を降りていく。
この階段、けっこう音が響くから夜中に帰るときやこういう早朝とかだと気を使うんだよな。ダンジョンで覚えた忍び足を駆使してできる限り足音を最小限にしてみたが、靴と階段の相性が悪いせいかどうしてもコツコツと鳴ってしまう。
階段の終わりが近づくにつれて少しずつ緊張が緩和されていく。
俺は「……よっ」と地面に降り立ってようやく何も気にせずに歩けるようになった。別にこの時間帯に音を忍ばせる必要性は全く無い。日常を活かした訓練である。
それにしても、音を立てずに歩かなくていいってのは本当に気楽で助かるよ。強張った肉体をほぐすためにぐッと両腕を持ち上げて軽く伸びをしてから、俺は自分の身なりを整えた。
上下ともに大学生がよく着ていそうなカジュアルスタイルだ。上は白Tシャツに紺色のカーディガン、下はワイドパンツ? とかいうズボンを着ている。
あとはシンプルな通学バッグを肩にかければザ・大学生の完成だ。
オシャレとか服装に微塵も興味がない俺がなぜこんなワンセットで整った格好をしているかと言うと、大体が母さんのおかげだった。
清潔な格好なら別に何でもいいじゃんと俺が毎日似たような服装で大学へ通っていることを母さんが知るやいなやである。
「シズ君、夏にはコレがオススメよ。あのね、シズ君、春はもう終わったのよ? ……なんで冬服を着ているのかしら? 暑くないの?」
と、大量の服を送ってくれた。
せっかく俺のために用意してくれたものを無下にするわけにもいかず、着こなせているかはともかくとしてとりあえず着ていた。ちなみに冬服を着ていたのは冷房が効きすぎて寒くなっていたからであり、いつも着ているわけじゃあないのだ。
空を見上げるとお日様が昇って白色混じりのきれいな青空が広がっていた。今日も一段と暑くなりそうだが、湿気も少なくカラっとした天気だ。なんとなく今日は良い一日になりそうな気がした。
早朝の時間帯なので中高生の自転車群や通勤自動車に注意しながら道路脇に出た。すると「わふっ」という鳴き声が俺の耳に届いた。
ビクっと体を震わせてすぐさま声の方に顔を向けると、そこには幸せそうな表情をしながら舌を出す柴犬のシバ君がいた。
その姿を確認すると、俺はすぐに他のイヌモドキが壁面の影から現れないか視線を散らして警戒した。
『シズク、ここはボクの中じゃないよ?』
「お、おう。知ってる知ってる」
そうだったそうだった。
シバ君はイヌモドキではなくお犬様だった。ダンジョンにも「わふ?」と困惑顔を浮かべるイヌモドキがいるので物凄く紛らわしい。ここがダンジョンでないことに一安心してから、俺はもう一度シバ君に顔を向けた。
「わふ?」と困惑顔を向けるシバ君に俺は微笑む。
「……いやだから紛らわしいっての。あと、ビビってごめんな?」
咬まれないとわかってはいても、シバ君の頭に伸ばした右手が若干震えた。わしゃわしゃと為すがままにされるシバくんに和みつつ、やはりダンジョンに出現するあのイヌモドキどもとは分かりあえないなと確信した。
そして利き手である左手をついつい庇ってしまうあたり、本当にどうしようもないなと思った。
「あ、おはようございます。シズクさん。シバもおはよっ」
「あっ、おはよう、ユリちゃん。いつも勝手にごめん。シバ君とどうしても戯れたくて」
アパートの向かいにある一軒家。そこで飼われているシバ君との触れ合いは俺にとっての清涼剤となっている。そして、イヌモドキが現実のお犬様とは根底から異なる存在なのだと自分に言い聞かせるために行っている儀式でもあった。
ちなみに家主にはちゃんと許可を貰っているのであしからずだ。このアパートに越してきたときからの付き合いだから、もう一年以上の付き合いだ。
「ふふっ、シバもすごく気持ちよさそうだから全然良いですって。これでもシバって人見知りが激しいんですよ? 私にもこんなに愛想よくしてくれないですし、ちょっとシズクさんに嫉妬しちゃいますっ」
ぷんぷんと怒ってますよ的な口調と仕草をしているユリちゃんだが、それとは裏腹にとても朗らかな笑顔を浮かべていた。黒髪の片おさげが大人びた印象を与えるが、確か彼女は近くの公立高校に通っている高校生だったと記憶している。
というか俺の目は節穴か、彼女は学校の制服を着ていた。どこからどう見ても女子高生である。白いブラウスが日差しに反射して実に清潔感があって眩しい。夏服が似合う女の子って良いよね。もちろん冬は冬で同じようなことを言うつもりである。
そんな彼女はさておき、俺はひたすらシバ君に構い続けていた。
「おいおい、シバ君。人見知りって本当か? 構ってオーラが物凄いんだけどなぁ」
「わふーんっ!」
シバ君は俺に腹を見せて何やら悶ている。
なんだ? 撫でてほしいのか? ここを撫でてほしいのか?
「わふわふっーん」
へへ、良い声で鳴くじゃねえか。と俺がシバ君で遊んでいると。リードと手提げ袋を持ってきたユリちゃんがシバ君の隣にしゃがんだ。
「ほら、シバ。散歩の時間だよ?」
「わふ?」
「もー、散歩だってばー」
「わふーんっ!」
俺に構ってオーラを放ちつつ、散歩に行きたがらないシバ君。お犬様って散歩が好きな印象があったけどそうでもないのだろうか。邪魔になりそうだからそろそろ退散するべきだろう。
「えっと、俺もそろそろ行こうかな。ほらシバ君、散歩だってよ」
俺がシバ君にかまうのをやめて立ち上がると。シバ君はしぶしぶとユリちゃんにリードを繋がれて動き始めた。その際にも、やはりピクリと身体が動いて警戒してしまった。
イヌのカタチをしたものが動いている。
それだけで身体が勝手に反応してしまう。ダンジョン病だよ、これ。
「すみません、急かしちゃったみたいで。あのっ、と、途中まで良かったらご一緒しませんか?」
「え? あー、うん。ご一緒しようかな」
特に急ぐ必要もないのでシバ君の散歩についていくことにした。
『ねえ、シズク……ゆっくりしてていいの? 何か確かめたいことがあるって言ってた気がしたんたけど』
『たまにはシバ君と一緒に散歩したい気分なんだよ。……というかシバ君で慣れておきたい』
『……ほんとにそれだけかなー』
シバ君は相変わらず俺にばかりジャレついてくるので、少し歩き方を工夫してユリちゃんの迷惑にならないように気をつけた。お願いだから俺のズボンにオシッコを引っ掛けないでくれよ?
そして、お願いだから俺の足に咬み付かないでくれ。頼むぞ。
途中までという地点は思いの外あっさりと着いてしまった。ずっとシバ君に意識を集中していたせいかもしれない。俺はシバ君とユリちゃんにお別れを告げた。
その際、ユリちゃんが素晴らしいことを言ってくれた。
「あの、こんなことを言っては失礼かもしれないんですけど、シズクさん雰囲気が変わりましたね。あ、いえその変な意味じゃなくってですね? とても余裕があるというか、自信に溢れているというか」
なにこれ。
もしかして成長しちゃってるオーラでも醸し出しているのだろうか。実は内心では、お犬様にビクビクしていつでも逃げられるように警戒してました、なんて言えない。
「そ、そうかな」
それでも彼女の言葉に俺は素直に照れた。気持ちの高ぶりや内面の変化ってのは本当に雰囲気とかに表れるんだな。ぜひこれからもコイツできるぞ的なオーラを放っていきたい所存である。
「えっと、じゃあここで。俺はこっちだから」
ただ今回は気恥ずかしさのあまり、俺は逃げるようにシバ君たちと別れを告げた。そんなわけで俺は朝からとても気分が良い。何度でも言うが、今日は絶対に良い一日になるに違いない。
何せ朝一番でもう良いことが二つもあったからだ。
『……シズク、でれでれしすぎー』
『……それはまあ、否定できない』
カレンの言葉を素直に受け入れつつ、俺は笑みを隠しきれず陽気な気分で大学へと向かった。