プロローグ 見初められた青年
右腕が重い。そして邪魔だった。
感覚が麻痺している。自分の腕なのにまるで肩からぶら下がっている荷物かなにかのようだ。右腕が千切れかけている現状をこうして他人事のように考えている時点でどうかしている。
俺の精神状態は異常だ。まともじゃない。視点が定まらない。俺は今、何をしているんだっけ。早く帰りたいな。それともこんな状況に何度も陥ったせいで慣れてきたのだろうか。
慣れてる? 何に? 痛みか。別に痛くはない。身体が熱い。頭が重い。足を上手く動かせない。考えがまとまらない。何してるんだっけ。戻りたい。
「……もどり……たい」
そうだ、俺は戻る途中だった。どこへ? セーフルームだ。
左手に握りしめている棍棒で身体を支えながら、遅々たる速度で前へ、前へと進み続ける。あと少し、あと少しでセーフルームに到着するはずだ。
果たしてそれまで俺の意識は持つのだろうか。
ああ……早く、戻りたい。
「…………はぁっ……はぁっ」
呼吸がつらい。
傷を負って歩く。腕がちぎれかけたまま歩く。苦しい。吐き気がする。ここまで苦しくつらいものだなんて知りたくなかった。全身に刻まれた生傷は既に痛みという信号を発していない。ただ熱く気持ちが悪い。
身体が前へと進む度にぶらりぶらりと右腕が揺れ動く。酷く煩わしい。いっそのこと千切れてしまえばいいのに。でも、そんなことは怖くて想像したくもなかった。
一歩、また一歩と重たい頭と足を引きずるように先を行く。
朦朧とする意識が「……あと少し、その角を曲がってすぐだ」と歓喜と激励を全身に飛ばす。しかし、ここがそんなに甘い場所ではないことを俺は既に知っていた。
「……ガルルッ」「ガウゥッ」「……アウ?」
角から現れた三匹の化け物。
イヌの姿形をしているが絶対的に異なる存在であると、俺は確信している。魔物、モンスター、魔獣、怪物。言い方なんかはどうでもいい。とにかく、そいつらの瞳には敵意と殺意だけが宿っていた。
……若干、一匹ほど困惑顔なのはこの際無視する。
例外を除いて、奴らは俺を認識すると瞬時に襲いかかってきた。ケモノじみた殺意を向けられるのにはまだ慣れそうにない。身がすくみそうになるのを懸命に抑えた。
二匹のイヌモドキは距離など物ともせずに凄まじい速さで迫ってくる。
俺は既にこの命を諦めている。
けれど……それでも。一矢報いたい。何に対して? 自分自身のために。最期まで生き足掻くことをやめないのは、それが生命に課せられた義務なのかもしれない。ふと、そんなことを思った。
そんな生命体の一員として、生存本能が最後の意地を貫き通せと身体に命じた。
役に立たない右半身を壁に押し付け、左手の棍棒を強く握りしめる。いつでも真っ直ぐ突けるように身構え、その時を待つ。……一匹だけ。今の俺にはそれが限界だ。
狙いは先行する一匹。そいつは大きな牙をむき出しにしながら地面を蹴り上げ、飛び跳ねた。俺の首元へ一直線に狙ってくる。やけにそれがゆっくりと認識できた。
既に俺の眼中には他のイヌモドキは映っていない。俺のすべきことは一つだけ。ただ左手に握る棒っ切れを前に突き出すだけだ。狙う必要はない。……突っ込め。
「ッガァァ」
見るも無残な光景なはずだが、何の感慨も湧かなかった。
体勢を崩しながらイヌモドキの瞳から光が消え失せたことを確認すると、俺は満足気に頷いた。と同時に、もう一匹のイヌモドキによって俺の首元が咬み千切られた。
そのまま力なく地面に倒れ伏す。肉体はイヌモドキになすがままに蹂躙される。……もう痛みだとか噛まれているだとか、そんな思考は残っていなかった。
虚ろな瞳で通路の天井を見つめながら呟く。
「……ごれ、じん……」
……俺の意識はそこで終わりを告げた。
そして、何事もなかったかのようにベッドで目を覚ました。まずは周囲の状況を確認する。
「はぁ……何度死んでもやっぱりここか」
ここは俺の自室ではない。迷宮内に用意された部屋だ。俺はセーフルームと呼んでいる。肉体はいつも通りに完治されていた。千切れかけていた右腕がちゃんとくっついて機能しているという現実に安堵する。
イヌモドキに噛み切られた首や全身のいたる所にあった打撲や裂傷も一つ残らず治癒していた。ベッドから立ち上がって怪我一つない肉体のありがたさを痛感していると。
「あーあ、死んでしまうとは情けない。シズクー、もっと集中しなくちゃダメだよー。迷宮攻略は一に警戒、ニに警戒、三、四に余裕で五に警戒なんだからね」
どこからともなく聞こえてきた少女の声に俺は乱暴な言葉をお返しする。
「うっさいなぁ。警戒したところで無駄だよ。負傷したあの身体で複数同時に相手なんかできるもんか」
そもそも警戒なんぞできるような精神状態ではなかった。朦朧としてほとんど無意識状態で歩いていたのだ。
魔物に出会ったら確実に死ぬだろうなと予想しながら先へ進んだ結果、予想通りに死んだわけだ。先行して飛びかかってきた奴だけは相打ちで殺す意地は確かにあった。その意地を貫き通せただけでも今回は良しとすべきところだ。
「そこはまあ、今のシズクの実力じゃあどうしようもないねー。くすくす」
傍から見て笑う側は楽しいかも知れないが、殺される側としてはちっとも楽しくない。むかっとしたので今日の探索はもう打ち切りに決めた。
「今日はもう帰っていいか? 先にレポートを終わらせておきたいんだが」
それでもこうして下手に出て相手のご機嫌を窺わなくてはならないところが、弱者側のつらいところだ。
「えーっ、ヤダヤダぁ。もっとボクを攻略してよぉ。笑ったのは謝るからさ、ね? ごめんなさい!」
謝られたところで決定を覆すつもりはなかった。
「今のところ俺に旨味がないからな。俺だって痛いのは嫌だし、好き好んで死にたくもないよ」
迷宮に挑んだ数だけ大怪我をして、そのうち十数回は死に至っている。それでも俺が彼女の言葉に従って迷宮を探索するのには非常に『浅い』理由があった。決して深くはないのがポイントだ。
「一番最初に言ったでしょ? ボクを攻略すればするほど。ボクのいっちばん大事なトコロまで踏破できればね、ボクのことを好き放題、やりたい放題にできるんだよ? シズクにとってすっごく美味しいお話だ思うんだけどなぁ」
初めて彼女に出会ったとき、その可憐さに目を奪われたことは事実だった。温もり、柔らかさ、匂い。瞳の色、眩い肢体、造形。その全てに俺は魅了された。
まさに自分の理想像ともいえる美少女の体を好き放題にできる。そう言われたら誰だって最初の一分くらいは奮起するだろうさ。そしてそれが最大にして最初の罠だったのだ。
「俺にとっての理想的な姿で。しかも全裸だぞ? 断れるわけがない。あぁ、ホイホイ了承した俺がバカだったのは言うまでもない。でもな? それでもこの仕打ちはあんまりだろ? 何回死んだと思ってるんだ」
最初は「迷宮なんて余裕余裕」とバカ丸出しで意気込んだ。そして大怪我を負って、あっさりと死んだ。あまりにも呆気なく死んだものだから、自分が死んだことにも気づかなかったくらいだ。
二度、三度と繰り返してようやく恐怖を知った。痛みを知った。浅はかさを呪った。それでも俺は迷宮へ挑んだ。何かが変われると思ったから。そう願ったから。
恐る恐る鈍亀のような歩みで迷宮の通路を進む。巡回する魔物に見つかっては戦いとは呼べない何かを繰り返す。怪我をして死んで、怪我をして死んで、怪我をして死ぬ。
得られたものは噛まれると痛い、引っ掻かれると痛い、怪我をすると痛い。それだけだ。
既に数十回に渡って試行錯誤を繰り返しているがその大半は死んでいる。これは画期的な何かを得られない限り、先には進めないとしか思えない程の死亡率だった。
無事にセーフルームへ戻れた場合でも満身創痍はデフォルトである。運良く魔物が一匹ずつしか出てこなかったときだけ生還できた。
まだ確信はしていないが、彼女はおそらく魔物の出現パターンを調整しているはずだ。こう手のひらで踊らされている感が半端ない。
ちなみにどんなに傷だらけでセーフルームに帰還してもベッドで横になればたちまち全回復してしまう。素晴らしい仕様だが、あまりにも一瞬で治るので逆に気味が悪い。あと妙な効果音が鳴るのもやめてほしい。
「ふふー、そろそろ音を上げる頃だと思ってたんだ。でもね、今までシズクがやってきたことは何一つとして無意味なことはなかったんだよ? 魔物を倒したこともそうだし。怪我を負ったこともそうだし。死んじゃったことも含めてシズクは成長しているんだよっ」
一度、セーフルームから出ると一定時間は帰ることを許されない。部屋の前でずっと立ち止まっていてもその時間の針は進まない上に魔物が次々と襲いかかってくる。
故に、無理やりにでも前に進むしか選択肢はなかった。道中で拾える物は棒きれ一つだけだ。それで複数の魔物を相手にどうしろと言うのか。
一匹は相打ち覚悟でなんとかなる。だが、複数同時に来られると本当にどうすることもできなかった。必ず肉体のどこかを犠牲にして一匹を殺す。その後も、同様に怪我を追加しながらもう一匹を。それの繰り返しだ。
セーフルームに戻れるタイミングは彼女が教えてくれる。それまで延々と迷宮をさまよい歩いて魔物と戦い続けるしかなかった。あんまりである。
「成長してるねぇ。まったくそんな実感はないけどな。今回だってセーフルームに戻って来られなかったじゃないか」
と口では言いつつも、あと少しだった。俺の中では本当にあと少しでこの部屋に戻れると思っていた。けれど、現実は無情だ。イヌモドキに殺されてベッドの上で目覚めた。
悔しさのあまり、拳を握る。だが、次に少女が発した言葉で俺は別の意味で拳を握りしめることになった。
「それはそうだよ。だってシズク、今まで得てきた経験値をステータスに割り振ってないもの。いくら自力で成長できるとはいっても今のシズクじゃあ限界ってものがあるもんね」
俺は自分の耳を疑った。
経験値? ステータス? 割り振り? 成長?
「……あ? 経験値を割り振るなんて話、初めて聞いたんだが?」
「うん、それはそうだよ。だってたった今、初めて教えてあげたもん」
「……コイツ」
ダンジョン生命体である彼女を女の子と形容していいのかはわからない。けれど、女性に対してここまで殺意と苛立ちを覚えたのは生まれて初めての経験だった。
今はまだコイツの姿をこの目で見られる段階ではない。あの柔らかな感触も匂いもお預けだ。
ある程度、迷宮を突破するごとにその可憐で美しくも可愛いらしい裸体をさらけ出し、色々と触れさせてくれる。と、そんな約束を彼女と交わしている。
だが。
次にあの姿――蒼白の長髪、蒼い瞳、花が咲き乱れるような笑顔、真っ白く眩い艷やかな肌、控えめかつ柔らかな双丘、胸躍るひとスジ、小柄な身長、しゃぶりつきたくなる太ももと素足――を見たら一先ずぶん殴ってやろう。
俺は心の中でそう決意した。
「ままま、待って待って、落ちついて落ちついて。傷を負ったり死を経験することは経験値以上に大切なことだからね。そんなに怒らないでよぉ」
俺の心の内を覗いたのか、とてもあわあわとした声だった。理想的な声なせいもあって、ついほっこりと和んでしまった自分が憎い。毒気を抜かれてしまったが、それでも俺は初志貫徹を目指す所存だ。
「まあいいよ。その経験値振りはまた今度だ。俺はもう帰らせてもらう」
彼女唯一の良心。
それは現実世界への帰還だ。3日に一度は必ず迷宮に潜ること。それさえ守れば日常生活を送っても良いという『許し』を俺は得られている。そう、許しだ。この上下な関係が実に滲み出ている単語である。
それでも許可を得ていることに違いはない。
俺は自分の権利を行使させてもらう。ちなみに約束を破るとかそういうことはできない仕様だ。なぜならいくらこちら側に迷宮に戻る意思がなくても彼女の意志によって俺は強制的にここ、セーフルームに戻されるからだ。
「ちぇっ、しょうがないなぁ。今日のところは、ゆ・る・し・て・あ・げ・るっ」
この少女に目をつけられた時点で、俺に選択肢など用意されていないのである。自分自身を攻略するまで、探索者は死ぬことすら許されない。
そんなヤベーダンジョンに目をつけられた俺は大学生活と迷宮攻略を謳歌する……かもしれない。