これは都合のいい夢?
目が覚めたのは日が高く昇った頃。閉じたカーテンから漏れ出す光は眩しくてほんのりとあたたかい。まぶたをこするとスクラッチみたいにじわじわと現実の世界があらわれてきた。
もう一眠りしたい気持ちを半ばに、僕は亀並みの速さで回転椅子から立ち上がる。それからほぼ無意識にコンセントのある位置まで移動すると、くたびれた人差し指で充電器に繋いだままのスマートフォンの電源ボタンに触れた。満充電。ロック画面には通知が5件。ニュースアプリ、母からの着信、大学の友達からの遊びの誘いが合わせて2件、そして一番下までスクロールしていくと、
「不在着信?」
見覚えのないアドレスからの電話が一本入っていた。時刻は早朝の3時半過ぎ。深夜に誰だろう。間違い電話にせよ、はた迷惑な奴だ。
僕はもう一度眠たい目をこすって風呂場へ向かった。
身につけていた衣類を全て脱ぎ捨て、空腹でへこんだ腹をなでる。腹筋のないやわらかな腹の贅肉をつまみ、ため息を一つ。最近はやたらとため息が多い。よほどストレスが溜まっているんだろうな。
一日の食事なんて専らカップ麺やコンビニ飯だからロクなもん食ってないし、なんとなく食欲がわかない。
それに加え、やや運動不足だ。今もそうだけど、僕は学生時代を通して運動部に所属した経験がない。サッカー部や野球部、テニス部なんかはマネージャーの女の子が可愛かった。部員のやつらがやたらめったらキャーキャー言われていたからから羨望の気持ちはあったが、部員たちはその声援に応えるための努力をしているんだ、と勝手に自己完結してからはもうなんかどうでもよくなった。
しかし運動不足は自分の中の解消しなければならないお悩みの結構上位にランクインしている。
自宅でできるエクササイズという記事を立ち読みで見た気もするが、結局は地味なトレーニングの積み重ねに匹敵するものはないのだ。6畳1Kの部屋でできる運動なんて腹筋とか腕立てとかせいぜいそんくらいのレベルだと思うけど、絶対長続きしないし何よりそれを真面目に実行している自分って、はたから見ればかなり情けなくないか?
(そんなことしてる暇があったら絵を描いて時間をつぶすほうが全っ然マシだ!)
スポーツなんてのは所詮が一時的な自己満足の世界だ。だらければだらけた分だけ自分にツケが回ってくる。なんてったって、努力が見た目でわかってしまうじゃないか。しっかり食事制限している人や定期的にジムに通っている人は言われなくても雰囲気でわかったりするもの。その逆もしかり。
その点、内なる才能というものはなかなか気づかれにくい。
たまーに「あなたのカリスマ性、オーラでわかりました」とか言って絡んでくる胡散臭い悪徳商法の人がいるが、そんなのウソに決まっている。個人の隠された能力というのは、その人が自慢したり、知り合いなんかが言いふらしたりしない限りはずっとずっとその人の中にとどまって光り続けている。
僕は絵を描くことが好きだ。でもその好きは個人的な好きであって、他の誰かにも同じように好きになってもらいたいわけじゃないし、気に入ってもらいたいわけでもない。ただちょっと褒められたり素敵だねって言ってもらえれば嬉しかったりもするんだけど。
どうやら僕は、誰にも知られないところで努力するのが好きな性質らしい。
有名になりたいんじゃないんだ。才能を認めてほしいわけでもない。誰かに真似されるのは絶対に嫌だ。リメイクも嫌う。自創作のキャラと他所様のキャラで創作交流、なんてのはもっての外だ。別の世界観を自分の世界に混ぜ込みたくない。言葉は悪いが、うちの子を汚したくない。
そう考えてみると自分は、欲望に塗れた一般的な自称「絵描き」や自称「絵師」よりもだいぶワガママな人間なのかもしれないなあ。
なんてことを思う午前4時前。
********************
柔軟剤が香る白いタオルを抱え、僕は浴室のドアを開けた。浴室内は狭いが、ユニットバスではないため、しっかりと洗う場所が確保できるのでありがたい。あらかじめ溜めておいた湯桶からはもくもくと白い湯気が立ちのぼっていて非常に良い雰囲気だ。
この前駅でもらったお試し用の薔薇の香りの固形入浴剤を一個掴み、乱雑に開封する。寝起きの頭に花の濃い匂いが染み込んでいき、クラクラする。中毒を起こしそうだ。普段女とあまり関わりを持っていないからこういった化粧品のような香りに慣れない。
僕は空になったパッケージをくずかごにパッと落とし、浴室の取っ手に手をかけ、ぐっと押した。音もなく扉が開く。
開いたのは、いいのだが。
「――――は?」
見間違えるはずがない。磨りガラスの向こう側、誰もいないはずの狭苦しい空間には確かに肌色の影があった。その肌色の影は湯船に黒く艶めいた髪を揺らめかせており……。男の僕にとってはとても魅惑的な光景で、自分の恰好も気にせず、思わず見入ってしまっていた。
ぴしゃん、と湿った音が小さく響いた。音のした方に目線を落とすと、今まで持っていた僕のタオルが水の流れ道に落ちていた。
(おわった)
その音に気付いたのは残念ながら僕だけではなかったようで、湯に濡れた小さな肩がゆるりと動いた。桃色にのぼせた細い喉がこちらを向いて、黒々とした瞳などは完全に僕を捉えている。冷や汗がタラタラである。
(ほんとクソかよ、なんだこの状況)
(誰が悪いんだよ。僕か?僕なのか?いや、僕はいけないことをしたと思うよ。思ってるよ。けどさ、なにこの理不尽な感じ)
(いやでも僕は悪くない)
元々無い脳味噌で色々と言い訳を考えているのだが、気の利いた一言が思いつかない。その前にこの状況を説明してもらいたいくらいだ。貴女は一体、「どこの」「誰で」「何のためにここにいるのか」そして「何故アヒルの玩具を当然のように頭に乗せているのか」。
(可愛いから全然オッケーだけど)
「「あの……」」
運がいいのか悪いのか、声をかけるタイミングが見事に合わさった。ええと、この場合、僕から話すべきなのだろうか。はたまたレディファースト効果で譲歩するべきなのか。
迷いあぐねていると、少女の方が切り出した。
「あの……、タオル落とされましたよ」
紡ぎ出された言葉は実に柔らかで、薄いオブラートに包まれていた。しかし、その優しさが些か酷であった。
僕は我に返ってタオルを拾いに屈んだが、立ち上がる際に視界に入った彼女の姿が瞬時に脳裏に焼き付いた。
控えめに下に落とされていた視線と長いまつげ、いつの間にか口元に添えてあった手ぬぐい、その隙間から見えた彼女の薔薇色の頬、そのどれもが色っぽく、今の僕には目に毒だった。
「し、失礼しました……」
「いえ」
********************
ザワついた気持ちを整理するためにひとり脱衣所に戻る。
正直言ってこれでは何の解決にも至っていない。もしかしたらただの悪い(ある意味ラッキーな)夢かもしれない。
僕は頭を冷やすために下半身にバスタオルだけを巻いた状態で冷蔵庫へ向かった。グレープサイダーのペットボトルを取り出してキャップをひねる。プシュ、と爽やかな音とともに中の泡が数粒弾けた。喉を通っていく炭酸の細かい泡が、火照った頬の内側からタックルをかましてくる。
「はあぁ、これで夢オチとかならわかるんだけどなあ」
ふたをテーブルの上に置き去りにしてデスクに戻る。
飲みかけのペットボトルをそっと机の端に置き、机の中央に広げてあったノートを何気なく手に取る。
(可愛い……)
完全に目が覚めた頭でそんな寝ぼけたことを思う。
紙の上の彼女にデレデレしていると、脱衣所のドアが静かに開く音がした。