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第1章 ― 偶然の交換

桜ヶ丘高校の満開の桜の下――

ふたりの孤独な魂が、すれ違うように互いを見つめていた。

決して真正面から出会うことのないままに。


ユメ・ナカムラ。

静かな少女で、彼女は世界を淡い水彩画に閉じ込める。

言葉よりも、筆先で心を語るタイプだ。


レん・サイトウ。

秘密主義の少年で、彼は人の感情を驚くほど緻密な文章で描き出す。

誰にも知られないノートの中に、自分だけの物語を綴っている。


春のある午後。

たった一度の、偶然のノート交換が、ふたりの日常を静かに変えていく。


スケッチと文章で埋め尽くされたページの中で、思いがけない対話が始まった。

余白で視線が交わり、行間で心が近づいていく。


しかし――

その詩的なやり取りの奥には、ふたりがまだ向き合おうとしない真実が隠されていた。


やがて、並行していたふたつの世界が交わるとき、

彼らの孤独は、そして芽生え始めた想いは、いったいどうなってしまうのだろうか――。


桜ヶ丘高校の図書館には、珍しいほどの静けさがあった。

まるで時間が止まったかのように、光の一筋一筋が空間に浮かんでいる。

大きな窓から差し込む黄金色の陽光は、棚に並ぶ本や磨かれた木の机の上をゆっくりと滑り、床には影が揺れる模様を描いた。

光そのものがここに座り、読書する人々を見守っているかのようだった。


ユメ・ナカムラはいつもの角の席に座った。

本棚に背を預け、カバンを足元に置くと、いつも持ち歩いているスケッチブックを開く。

表紙の端は少し擦れていたが、中のページは別世界の新鮮さを保っていた。

そこには、彼女が筆を通して見つめる世界が広がっている。


今日は中庭の桜を描きたい気分だった。

春の風に揺れる枝から花びらが舞い、ベンチや歩道にひらひらと落ちる。

淡いピンクと白の一時的な絨毯を作るように。


ユメはまず枝の輪郭を描き、水と色で線を柔らかく馴染ませた。

一筆一筆が静かな言葉であり、顔料を混ぜるたびに無言の文章が生まれる。


ふと手を止め、窓を通り抜ける光を見つめる。

空っぽの図書館で陰と光が遊び、ページのめくれる音や木の軋む音さえも際立つ。

ここは彼女の聖域であり、日々の避難所。

誰も彼女を評価せず、誰も邪魔をしない。


再び筆を水に浸し、色を紙に広げる。

唇にかすかな微笑みが浮かぶ。

スケッチブックは単なる日記ではなく、彼女の声であり、世界だった。

ページごとに、口に出せない想いを紙に吐き出すことで、少しずつ自由に呼吸できる気がする。


その時、かすかな音がした。


誰かが机の下にぶつかったのだ。

スケッチブックがそっと床に滑り落ちた。



---


レん・サイトウはスケッチブックが床に落ちるのと同時に目を上げた。

メガネが少しずれ、反射的に身を乗り出す。

手がスケッチブックを掴み、床に完全に落ちる前に止めた。


表紙を見て眉をひそめる。

筆跡、繊細な色合い、目の前で踊るかのような軽やかな模様。

自分の書き込んだページとはまるで違った世界だった。

言葉で整然と並べられた文、感情や会話を分析する文章。

だが、このスケッチブックは…同じ現実を描きながら、まったく異なる形で語っていた。


色や形に感情が宿り、理性的に見ていた世界が突然、命を持ったかのように感じられる。


ページをそっとめくると、桜の枝が目の前で揺れ、生徒たちの輪郭は数本の線で描かれているのに、言葉以上の表現力を持っていた。

「きれい…」と、思わず口にする。


その瞬間、彼はただのスケッチブックではなく、今まで気づけなかった世界のかけらを手にしていることを感じた。



---


ユメは自分のスケッチブックだと思い込み、床に落ちたものを拾おうとした。

だが、ページには文字がびっしり書かれていることにすぐには気づかなかった。

レんはユメのスケッチブックをそっと閉じ、手渡そうとする。


二人の手がかすかに触れる。

時間が止まったかのような瞬間。

レんの心臓がわずかに早鐘を打ち、ユメは視線をそらす。

戸惑いと好奇心が、静かな図書館に漂った。


「えっと…ありがとう」

ユメは小さくつぶやく。


レんは軽くうなずき、微笑む。

「どういたしまして。」


互いに自分の「スケッチブック」を取り戻すと、席に戻る。

すぐには気づかなかったが、何かが変わった。

目に見えない、壊れやすいが確かな糸が二人の間に結ばれたのだ。



---


席に戻ったユメは、手にしたのが自分のスケッチブックではないことに気づく。

ページは文字でぎっしり埋まり、見慣れた日常が正確な文章で描かれていた。

廊下を歩く友人、耳に入った笑い声、何気ない会話。

全てそこにあるのに、別の次元を覗いているかのように感じられる。

思わず微笑みがこぼれる。


一方、数メートル離れたレんはユメの絵を前に真剣な表情でページをめくる。

描かれた色や形が動き、息づく瞬間を感じさせる。

葉のざわめきや中庭の微風、瞬間ごとの重みさえ伝わってくる。


知らぬ間に、二人は対話を始めていた。

色が言葉に応え、言葉が色に共鳴する。


ユメはレんのノートの余白に書く。

「あなたは私が色にできないものを見ている気がする。」


レんはその文字を読み、震えるような感覚を覚える。

返事を書く。

「僕は、君の色がささやくことを聞いている。」


誰も見ていない。時間は止まったまま。

互いに席で微笑み、存在を感じる。ただ文字と色を通して。


互いの好奇心は増していく。

相手の言葉や色の向こうにある人間を知りたいと思うが、直接見せることはしない。

静かで秘密めいたバレエのようなやり取りで、ひとつひとつの言葉や絵が、見えない橋を築いていく。



---


休み時間終了のベルが鳴り、図書館に生徒たちの声が広がり始める。

ユメは筆とスケッチブックをカバンにしまい、心が少しざわついたまま。

レんもそっとスケッチブックを閉じ、同じ感覚を抱えながらカバンにしまう。


二人はそれぞれ図書館を後にするが、すでに言葉と色、沈黙と告白で紡がれた特別な関係が始まっていた。


交換されたノートは、単なる物ではなく、壊れそうで壊れない、二つの平行世界を結ぶ糸となった。

この出会いが何を生むのか誰も知らないが、読者には、これがすべてを変える物語の始まりであることがわかる。


章は終わったが、詩的なやり取りは今まさに始まったばかりだった。



夕陽が桜ヶ丘高校の屋根の向こうへとゆっくり沈んでいく。

図書館へと続く階段の先まで、桜の木々の影が長く伸びていた。

校舎はほとんど無人で、あたりは柔らかな橙色の光に包まれている。

世界そのものが息をひそめているような、静寂の時間だった。


石のベンチにひとり腰を下ろしたユメ・ナカムラは、胸の奥がまだ少しざわついていた。

さっきの出来事を思い出すたび、心臓が小さく跳ねる。


教室に戻ってから、カバンの中身を三度も確認した。

それでも今、手の中にあるスケッチブックの表紙は、見覚えのないものだった。


視線が、手にした茶色い革表紙をなぞる。

角は少し擦り切れていて、古い本のような手触りがした。


――これ、私のじゃない……。


胸の奥に不安と好奇心が入り混じる。

ユメはゆっくりとその表紙を開いた。


中にはスケッチも、水彩画も一枚もない。

整った罫線と、丁寧に書かれた文字がびっしりと並んでいるだけだった。


一ページ、また一ページ。

そこには校内の何気ない情景が、静かな筆致で綴られていた。

中庭。雨の日。傘の下で丸まる猫。廊下の向こうから聞こえるくぐもった笑い声――。


だがユメの心をとらえたのは、その描写の正確さではなかった。

その文章は、まるで瞬間の「心そのもの」を閉じ込めているように感じられたのだ。


> 北側の廊下の桜の下で、二人の生徒が一つの傘を分け合っていた。

風は冷たかったが、その沈黙はどんなマフラーよりも温かかった。




ユメは息を飲んだ。

こんなにもシンプルで、こんなにも生き生きとした言葉を読むのは初めてだった。


ふと顔を上げる。

薄暗い空に、桜の花びらが静かに舞っている。


「……あなた、誰なの?」


小さくつぶやいた声は、夕風にさらわれて消えていった。



---


その頃、校舎の反対側では――。


レん・サイトウが、自分のものではないスケッチブックを勢いよく閉じていた。

ページをめくるたび、目に飛び込んでくるのは、見慣れた風景を鮮やかに塗り替える色、色、色――。


繊細な線。淡い光。何気ない情景が、まるで詩の一節のように描かれている。


> 窓ガラスに差し込む一筋の陽光。

体育館の前に脱ぎ捨てられた靴。

水たまりに映る空の青。




その一枚一枚は、彼が知っているはずの世界なのに、まったく違って見えた。

まるで、自分とは別の世界をのぞいているかのように。


胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような感覚が走る。

恐怖ではない。驚きとも少し違う。


それは――静かな感動に近かった。

初めて聴くはずなのに、ずっと心の奥で鳴っていたような音楽に出会ったときのような、そんな不思議な感覚だった。


レんはスケッチブックを胸に抱え、周囲を見回して誰もいないことを確認すると、大きく息を吐いた。


「……なんだよ、これ……」


小さく呟いた声が、夕方の静けさに吸い込まれていった。



---


その夜、二人はなかなか眠れなかった。


ユメは机の上に“知らない”ノートを置いたまま、ページの一文一文を見つめ続けた。

レんもまた、何度もページをめくり、言葉にできない何かに惹かれながら、スケッチに目を奪われていた。


ふたりはまだ気づいていない。

でも――この夜から、彼らの世界は静かに触れ始めていたのだ。


ゆっくりと。

音もなく。


まるで、決して交わることのないはずだった二本の平行線が、運命の手によって、ほんの少しだけ軌道を変えられたかのように――。


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