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最後にサイキアトリー部門長の話が始まった。私は釈然としない気持ちのままパソコンに流れる報告を聞き続けた。
「アメリカ本社から世界に展開する新薬の説明をします。海馬と扁桃体のセルアセンブリにある神経細胞ニューロンのシナプスの働きを抑制し、ニューロンの結合を阻害する物質KRGの開発に成功しました。」
フロアの全員の感嘆が漏れるのがわかった。そして社内に大きな拍手が巻き起こった。私にはニューロンだか何だか、全く訳が分からない。ついていけなくて一人で馬鹿みたいにぽかんとする。とにかく部門長の話を注意深く聞いてみることにした。
「・・想定外の速さで開発に成功したため、一連のオペレーションも直ちに進めなければならなくなりました。アメリカではすでに学会での発表を終え、臨床試験も最終フェーズに入り、新薬の発売日が来年度に決定されました。これを受けて日本のローンチに向け、学会発表、医師会への伝達、臨床試験の実施に、急ピッチで進まなくてはなりません。まず、日本語の病名を付けなくてはならないので・・・」
『病名を付ける』ってどういうこと?私はこの言葉に引っかかり、また違和感を覚えた。病気の名前って誰が付けるんだろう。
「渡瀬さん、病名を付けるってどういうことですか?」
私は好奇心から隣の渡瀬さんに小さな声で耳打ちして聞いてみた。
「その病気を発見した人が決めて、最終的に学会で決まるから、学会が開かれる前に決めておかないといけないのよ。」
「じゃあ、FZ製薬会社が病気を発見したってことですか?」
「まぁそんなところね、薬ができたから学会の時に病名を発表しないといけないのよ。」
私はなんだか腑に落ちなかったが、何度もしつこく聞くのも憚られて黙った。私が部門長の話を聞いた限りでは、アメリカでKRGとかいう物質の開発に成功したって言っていたけど、何ていう病気の薬なのかは言ってなかった。私は角度を変えて渡瀬さんにもう一度聞いてみることにした。
「KRGってどんな病気の薬なんですか?」
「KRGはニューロンの結合を阻害するから、記憶の再生ができなくなるのよ。だからそういう病気を作らなきゃいけないの。」
「・・・」
病気を作るって?いくら聞いても私には理解できなかった。これ以上質問するのも躊躇って、わかった振りをして仕事に戻った。会社でどんな製品を作ろうが、派遣社員の私には関係ない。
「私は非忘症がいいと思うんだけどなぁ。」
渡瀬さんのつぶやきが聞こえたが、聞こえないことにしてパソコンの画面を見ていた。
「ごめん、ごめん、独り言だから、気にしないで。私、大学で神経心理学を専攻していたのよ。それなのに経理の仕事するなんてね。食べて行かなきゃいけないもんね。」
軽く笑っておどけた様子をする渡瀬さんに、私は簡単な相槌を打ってちょっと微笑んで返した。四半期報告も終わって自分の仕事に戻ると、興味のない新薬のことはすっかり私の頭から消えていた。