2
「このフロアはオペレーション部門で、23階が研究部門。あの角から四つの島がオンコロジー部門。そこから三つの島が感染症部門。それから・・・」
渡瀬さんは身振り手振りで教えてくれる。
「・・ほら、天井からサインが下がっているでしょ。あれを見ればわかるわよ。」
私は天井を見上げる。スーパーマーケットの売り場案内みたいに、各部署名が吊り下げられている。納得して渡瀬さんに頷いて見せる。
「私たちの部門はこの角の島。経理は全員で9人。紹介するね。」
経理の島に行き、まず経理部長に挨拶をすると、部長が経理の人たちに声を掛けて、全員が立ち上がった。外資系なのに日本っぽいなと思いながら、私は適度な笑顔を作り続けた。部長が全員を紹介し、私も短く自己紹介をして席に着いた。男性はポロシャツにチノパン、女性もカジュアルな服装だ。みな三十代から四十代で落ち着いている。
「今日はパソコンをいじってシステムに慣れてくれればいいわ。簡単な入力とチェックをしてもらうくらいかな。」
「はい、わかりました。」
前職で使っていた経理システムと同じだし、派遣だからあまり責任も感じない。言われたことをやればいい。楽な仕事は思考の隙を作って、私に雅也を思い出させる。Tシャツも歯ブラシも連絡先も一切合切全部捨ててやったのに、頭の中だけは捨てられない。
「どう?使えそう?」
隣の席に座る渡瀬さんが声を掛けてくれる。
「はい、前に使っていたのと同じシステムだから、大丈夫です。」
「そう、よかった。やっぱり即戦力ね。」
私は雅也を思考する頭を遮ってくれた渡瀬さんに感謝した。こうやって、日々に紛れて奴の記憶は薄らいでいくだろう。私の心の傷も治っていくはずだ。
不幸って重なるもので、雅也がいなくなった直後に仕事も失った。10年働いていた会社が突然なくなった。外資系企業にはよくある。日本撤退という決定でその日に職を失う。そういうことが起こることは知っていたが、まさか自分に起きるとは思ってもいないものだ。
男も仕事も一度になくなった。人生は冷たい。結婚して子供が欲しかった。古川綾香になって、子供は二人。男の子と女の子。かほりと雅人。保育園の送り迎えは大変だけど、共働きをする。38じゃ最後のチャンスだ。雅也が6歳も年下なのが良くなかったのか。でもそれくらいの年の差の夫婦なんてたくさんいる。年なんて関係なく、私たちの・・
「今、データ送ったから、SAPに入力してくれる?わからなかったら言ってね。」
仕事を振って、私の思考を遮断してくれた渡瀬さんにまた感謝する。
「はい、わかりました。」
私は島の一番端っこの席で、派遣社員らしく仕事を続けた。他の人たちも黙々とパソコンに向かっている。でも殺気立っているような雰囲気ではないし、どちらかといえば和やかな空気だ。居心地は悪くない。これならしばらくこの会社でやっていけそうだ。