浮世語り『夜道』
初の短編小説! ということで、以前から書きたかった幻想小説に挑んでみました。詩的な文と情景に力を入れたので、是非読んでみてください!
待てども、待てども、待ち人は来ない。
去っていった者を想うことしか許されない、残された者の気持ちは果てしない。
僕の日課は深夜に散歩をすることだ。
二三時を過ぎ、人が姿を見せなくなる頃に、僕は行き先を考えることもなく外へ出る。
今日もただただ気持ちの良い夜の道。
現実の痛みを何もかも忘れられる。
街灯のある道は夜に似つかわしくない程に明るく、面白味に欠けるので、敢えて街灯の無い暗い道を進む。
月の光と風の声
足元を照らす程度の光すら欲しくなるような夜道に目が慣れてきた頃、僕は何処かの細道にいることに気づいた。
昔は水路であっただろう迂曲した道は、コンクリート塀が壁となり、周りの様子を見ることはできない。
広い場所に出るために引き返そうと思ったが、道がわからない。
暗い夜道を何も考えずに進み続けたのだから当然のことだった。
自分のルールとして、スマホのGPS機能の使用を禁止していたのだが、仕方がないので使うことにする。
スマホの電源を付けると日付が丁度変わった。
ロックを解除し、GPSアプリを開く。
ーーー何も映らない。
画面上端を見ると『圏外』の文字。
思考停止。電源を落とす。付ける。落とす。付ける。落とす。付ける・・・・・・
何度確認しても二文字の『圏外』
徒歩圏内にネットが繋がらないような辺鄙な場所があったか思い出そうとするが、全く覚えがない。
朝まで待てば周りを見渡せるだろうと思い、眠れそうにもないので、座って待つことにした。
空を見上げると、綺麗な満月と細かな星々が見える。
目にその光景を焼き付けた後、写真に収めた。
撮った写真を見て違和感を感じる。
写真を撮った時刻が午前0時と表示されている。
スマホの時計を確認すると午前0時と表示されていた。
最初にスマホを開いた時から十分以上経っているはず。
こんな時にスマホが壊れるなんて運が悪いと思った。
することもないので、ぼんやりしていると、いつの間にか眠ってしまった。
目が覚めても辺りは暗いままだった。
スマホの時計は午前0時を表示する。
まだ早朝で日が出ていないのかと思ったが、空を見上げると、月の位置が寝る前と変わっていないことがわかった。
どれだけ待っても朝はやって来ない。
万物は流転するのではなかったのか?
夜はいずれ明け、やがて太陽は東から昇ってくる・・・・・・
ーーことはなかった。
待てども、待てども、待ち人は来ない。
現れるのは、いつも羊だけ。羊は慰めを与えてはくれない。
逡巡し、動けなかった体を起こして道の先に目を遣る。
奥の方にポツンと赤色の光が浮いているのを見つけた。
不審に思いながらも、誰かいるかもしれないので向かうことにした。
近くまで進むと、光の正体がわかった。
ーー提灯?
提灯の灯りに照らされた人型の姿が浮かび上がってきた。
提灯を持った人がこちらに気づいて、顔を向けてきた。
それは年季が入っているが身体の力が抜けてしまうほどの美しい女性の顔だった。
荘厳な着物を身に纏っているその姿から、何か訳ありげだと悟った。
こちらが様子を窺っていると、その麗人が話しかけてきた。
「其方、家路はわかっておるのでありんすか?」
突然の問いに身動ぎできなかったが、平静を取り戻し、答える。
「・・・・・・いや・・・・・・あの、わからないです・・・・・・」
麗人は僕の顔をじっと見て、哀しそうに言う。
「やはりそうか・・・・・・其方も迷い込んでしまったのでありんすな・・・・・・」
麗人の言葉に思わず反応してしまう。
「迷い込む? どういうことですか? ここはどこなんです?」
「・・・・・・」
麗人は考えるようにして黙ってしまった。
しばらく沈黙が流れた後、麗人が口を開いた。
「・・・・・・着いてきなんし」
突然着いてこいと言われても、と思ったが、ここにいても何も事情がわからないので、従うことにした。
しばらく着いていくと、開けた場所に出た。
一軒の家があるだけで他は何も無かった。
家は二階建てで、黒ずんでしまっている木造の壁に格子状の窓、上部には瓦の屋根を持っており、昭和初期を想起させる外観をしていた。
玄関に着くと、木が腐っているのか、カビの臭いが鼻を突く。
「さあ、上がりなんし」
「お邪魔します」
一言挨拶してから靴を脱ぎ、麗人の後に着いていく。
広さ八畳程の和室に連れられた。
「そこら辺に座りなんし」
言われるがままに正座で座る。
「・・・・・・さて、何から話しなんすかえ?」
僕は麗人をじっと見つめる。
麗人は唐突に手を叩いて言った。
「そういえば、自己紹介がまだでありんすねぇ!」
そんなことかと、拍子抜けした僕を気にする様子も無く続ける。
「あちきは早蕨≪さわらび≫でありんす。ここに来る前は花魁でありんした」
ーー花魁?
口調や服装から普通でないことは感じていたが、驚かずにはいられなかった。
大体、花魁っていつの時代の話なんだ?
そんなことを考えていると早蕨という名の自称花魁が自己紹介を促してきた。
「・・・・・・僕は国崎です。年齢は二十五です」
早蕨は不満足げに言う。
「それだけでありんすか?」
「・・・・・・すいません」
・・・・・・・・・・・・
これ以上の言葉はもう出ないと悟ったのか、早蕨は話を進める。
「国崎さんはここに来て何か気づいたことはありんすか?」
ーー気づいたこと?
思い当たることは幾つかあった。
「・・・・・・ずっと夜のままで、月の位置が変わっていないのは不思議に思いました」
早蕨は僕の言葉に神妙に頷く。
「その通りでありんす。ここに朝はありんせん。満月の夜は美しゅうありんすが、いい加減飽きんした」
早蕨と名乗った女性はこの不思議な空間に慣れているようだが、何者なのだろうか。
早蕨は俯いて、低い声でゆっくりと言う。
「・・・・・・時間が止まっておるのでありんす」
ーー時間が止まっている!?
朝が来ないのも、月が動かないのも、何かカラクリがあると思っていた。
だから、時間が止まっているなどという非現実的な話を受け入れられない。
「あちきの顔を見ておくんなんし」
言われた通りに顔を見る。
パーツは整っており、輪郭も綺麗なその顔が儚げな表情をしていた。
「あちきは恐らく五〇歳を超えているでありんしょう。けれども全くそうは見えねえでありんしょう」
早蕨の言いたいことがなんとなくわかった。
時間が止まっているから、老いないということだろうか。
僕はそれを確かめるために訊く。
「あなたがここに来たのは何歳の頃なんですか?」
「三〇歳でありんした」
やはりそういうことか。
早蕨を見て五〇歳だと思う者はいないだろう。
それくらいには若い顔をしている。
僕は頷き、理解したことを示した。
「あちきはここに来てから、食事や睡眠を取ったことがありんせん」
空腹や眠気を感じないということか。
「でも僕、あなたに会う前に眠りましたよ。恐らくその時には、時間の止まったこの場所にいたと思います」
早蕨は少し考えるようにしてから答えた。
「・・・・・・恐らく、ここに来る前の疲労が残っていたかもしれんせん」
この不思議な場所について色々知ることができたが、まだ一番重要なことを聞いていない。
僕ができる一番当たり前な質問・・・・・・
「・・・・・・それで、どこから帰ることができるのですか?」
早蕨は即答する。
「帰り道はありんせん」
ーーああ、知っていた。でなければ、ここにニ〇年も留まっているはずがないのだ。
こんな不気味な場所、早く離れたいに決まっているのに。
予想通りの返答に軽く絶望していた時、玄関の方から足音が聞こえた。
足音のする方に顔を向けていると、早蕨が答えてくれた。
「同居人でありんす。心配しねえでおくんなんし」
「他にも人がいるのですか?」
早蕨を少し表情を緩めて頷いた。
「この家にはあちきを加えて、三人で住んでおりんす。他にも、さらに道の奥に進むと、人の住む家がありんす」
てっきり、この早蕨という人しか居ないと思っていたから、意外だった。
一応、人が生きていける環境ではあるのだろう。
そんなことを思っている内にどうでも良くなってきた。
空腹も眠気も老いも無い、時間が止まったこの場所、そして元花魁の早蕨、全てに現実感が無いが、夢だと言うには妙なところで現実味があって困る。
『我思う、故に我あり』
デカルトの、この言葉が僕の現状を夢では無いと証明してしまう。
これが現実でも良いじゃないか。
社会的地位も無く、家に帰っても誰も居ない。
・・・・・・元の現実だって無いに等しいじゃないか・・・・・・
考えるのが面倒臭くなり、投げやりな気持ちになる。
「其方の住む部屋を決めねえといけねえねぇ」
「・・・・・・それは、僕がこの家に住むということですか?」
早蕨は当然の事だと言うように笑う。
「ずっと外にいる訳にはいかねえでありんしょう?」
それはありがたい提案だったが、あまりにも急な話だった。
元の現実に未練は無いと、どうでも良いと思いつつも、やはり考える時間が欲しい。
この家に住むと決めてしまったら、本当に、もう戻れないのだと、実感してしまいそうで怖かった。
「・・・・・・少し、外に出ていてもいいですか?」
僕の気持ちを汲んでくれているのだろう。
ゆっくりと頷いてくれた。
玄関に向かう途中、この家の住人に会った。
会釈だけして去っていき、部屋に入っていった。
その住人は浴衣を着ていたが、その点以外はどこにでもいるような老人の男性だった。
玄関には靴が三足あった。
左から、背の高い下駄、スニーカー、草履の順で置いてある。
下駄と草履に挟まれた僕のスニーカーはどこか気まずそうだった。
靴を履き、外に出る。
風は心地良く、月は綺麗だった。
「・・・・・・この風は何処から来ているのだろう・・・・・・」
誰にも聞こえないような声で呟く。
考え事をする時は歩くと良いらしい、ということを思い出した。
とりあえず、早蕨と出会った場所まで歩くことにした。
灯りは持っていないが、二〇分程度前に歩いた道だから、問題無く歩けた。
月の光を遮るものがないこの場所で、僕は元居た世界に思いを馳せる・・・・・・
特別、不幸だとは思わない。
中流家庭で育ち、小・中・高・大、と問題なく卒業でき、それなりの企業に就職もできた。
けれども、これまでの幸せを打ち消すのは簡単だった。
ある日、起床と同時に突然胸が苦しくなった。
病院で診察を受けると、即入院させられた。
すぐに退院できると思っていたが、お見舞いに来る人が途絶える頃には、医者から社会復帰は難しいと言われた。
それからは入院、退院、通院の繰り返し。
通院期間に軽作業のアルバイトをしていたが、他にすることも、できることも無かった・・・・・・
ーーああ! 幸せとはなんて脆いものなのか!
どうせ壊れた人生、自分でとどめを刺すのも悪くない。
心の中で、元居た世界に別れを告げた・・・・・・
先程の家に戻る途中、一筋の光とともに閃いた。
ーー時間が止まっているならば、病状は進行しないのではないか?
諦念に暮れ、穴に落ちてしまった僕に、神様が希望を与えてくれた。
待てども、待てども、待ち人は来ない。
時間の止まった世界で待つことにどれだけの意味が?
意味はきっとある。奇跡は信じなければ起きないのだから。
家に戻ると、早蕨が待っていた。
早蕨は僕の顔を見るやいなや微笑むと、部屋を案内してくれた。
部屋は六畳程で、一人部屋としては十分な広さだった。
部屋の中には椅子や机、箪笥などの古びた木製の家具が揃っている。
しかし、電子機器は一切見当たらない。
思い返してみると、ここに来てからその類のものを見ていない気がする。
なんとなく、電子機器が恋しくなり、スマホの電源を付ける。
やはり、時刻は午前0時を指していた。
早蕨は僕のスマホを物珍しそうに見てくる。
「その光る板はなんでありんすか?」
光る板というのは僕のスマホのことだろうか。
早蕨は自分を元花魁だと言った。
早蕨が江戸時代の人間だと考えるとスマホを知らないのは当たり前の事だと思われる。
しかし、問題なのはスマホを知らないことではない。
早蕨が江戸時代の人間だということが問題である。
「これはただの光る板です。なんでもありませんよ」
事実、今となってはスマホに価値は無く、ただの光る板だった。
「光る板とは・・・・・・ 初めて見んした・・・・・・」
早蕨は光っている物に頗る感動しているようだった。
「其方はいつの世からやって来たのでありんすか?」
「・・・・・・令和ですけど・・・・・・ 平成の次の」
早蕨は二〇年間時間が止まっていると言っていたので、平成の名前も出しておいた。
時代を聞いてくると言うことは、やはり早蕨は平成や令和の人ではないのだろう。
「令和とは初めて聞く世でありんすねぇ!」
初めて聞く世に早蕨は嬉しそうにしている。
僕もまた、早蕨の生きていた世が気になった。
「あなたはいつの時代に生きていたのです?」
早蕨は僕の問いに懐かしむように、悲しむように、答える。
「・・・・・・あちきは徳川様の世に生きておりんした」
早蕨の表情からは何か複雑なものが読み取れるが、それが何であるかはわからない。
徳川といえば江戸時代を治めた大将軍の名。
僕からすると、学校で習った日本史の中だけでの世界だった。
しかし、早蕨のこれまでの言動から考えると、あまりにも想像のつき易いことだった。
「この場所は数多ある世と繋がっておりんす。でありんすから、ここには色んな世の人が集まっておりんす」
ーーああ、もう何も驚くまい。僕は世捨て人。常識なんて捨ててしまおう。
「この家の他にも、沢山家があり、人がおりんす。あちきは長らくここにおりんすが、この世界の全てを見たわけではありんせん。どの程度人が居るのか、想像できんせん」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・・
どこか遠い場所から、地響きのような音が聞こえてくる。
崩れるような・・・・・・ 壊れるような・・・・・・
言いようのない不安が胸に押し寄せる。
堪らず不安を口にする。
「こ、この地響きみたいな音は何なんですか?」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・・
早蕨は困ったように、不安を隠すことなく言う。
「・・・・・・分かりんせん。この音を初めて聞いたのは記憶に新しく、其方が来る少し前に始まりんした故、何がどうなっているのか分かりんせん。」
少し経ち、音は止んだのだが、その残響だけは耳から離れなかった・・・・・・
こうして僕の時間の止まった世界での生活が始まった。
ずっと部屋にいると狂ってしまう程に何もなく、静かだった。
空腹を感じず、眠ることもできない。
こうした生理現象が全く起きないのは、話で聞くよりも余程違和感を感じるものだった。
気を紛らわせるために外に出る回数が多くなった。
早蕨や他の住人も同じようで、家に居るところをあまり見かけない。
以前見かけた浴衣の男性は結城という名で、昭和の人だと聞いたが、滅多に会うことはなく、何処に行っているのかもわからない。
只々、流れることのない時間を浪費するだけだった。
何か変化が欲しかったのだろう、僕は元居た世界の時のように、行く宛も無く歩くことにした。
相変わらず外は暗く、綺麗な円を描いた月だけが足元を照らしていた。
家を出て、道を進むのだけれど、ずっと一本道だったので道に迷うことは無さそうだった。
しばらく一本道を進むと、開けた場所に家が一軒建っているという、見覚えのある光景が広がっていた。
しかし、似てはいるものの、家の形や色が所々異なっているので、違う場所であるとわかる。
家に向かって声を掛けてみたが、反応が無かったので更に先に進むことにした。
再び一本道があり、しばらく進むと開けた場所に家が一軒建っていた。
しかし、今度は立っている男性の姿が見えた。
色の目立たない、質素な袴を着ている。
やはり、この人も僕とは生きてきた時代が違うのだろう。
僕はその男に近づいてみるが、男は微動だにせず、瞳には、白く輝くナルキッソスのような月の光でさえ、映していなかった。
厳密な理由はわからないが、恐ろしくなり、その場を立ち去り、先に進むことにした。
後ろを振り向いて、男を再度見たが、やはり魂が抜けたようにただ、あるだけだった。
もう何度見た景色だろうか。
開けた土地に、古い家。辺りには何もなく、一軒の家だけが存在感を放っている。
いくら進んでも同じことの繰り返しに飽いていたところ、何処か遠くから、聞いたことのある恐ろしい音が耳に入ってくる。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・・
地震とは違う、局所的に何かが崩れるような音、心なしか、以前の音よりも大きく、振動を感じるものだった。
この音を気にしてか、古臭く黒ずんだ家から人が出てきた。
その人は杖を突いて、片足を引きずりながら歩いてきた。顔が地面に向くほどに腰が曲がっており、月の光に照らされた白い髪は雪のようにぼんやりしていた。
「・・・・・・遂にやりおったか・・・・・・」
小さいけれど、力強いその声は、はっきりと僕の耳に届いた。
この老人は何か知っているのだろう。できれば僕はこの不安を、答えを、知りたかった。
「すいません、あなたはこの音について何か知っているのですか? 教えていただけないでしょうか?」
老人には僕の言葉が届いていないのか、家の玄関の方に体を向け、歩いて行ってしまう。
途中まで進むと、歩みを止め、背を向けたまま言う。
「・・・・・・何もかも、終わりなんじゃ。そこに善悪はない・・・・・・」
そう言うと、家に入って行ってしまった。
その言葉の意味を理解するのは難しいことのように思えた。
考えるためにも歩いて先に進むことが良いとし、次の道へ進もうとした時、その道から早蕨が姿を現した。
何やら急いでいるらしいことは雰囲気から察せられた。
早蕨は僕の姿を確認して、驚いているようだった。
「其方が何故こんなところにいるでありんすか?」
別に隠すことでも無いので素直に答えることにした。
「えっと・・・・・・暇だったもので・・・・・・ どうかしましたか?」
早蕨は僕の返答を気にする風もなく、辺りを見回していた。恐らく、反射的に出た問いであって、実際にはどうでもいいのだろう。
「ここに玄耳≪げんじ≫さん・・・・・・老いた男の人はいんしたか?」
老いた男の人と言えば、つい先程出会った、杖をついた人のことだろう。
「腰の曲がったお爺さんなら、家にいると思いますよ。あの大きな音について何か知って・・・・・・」
「それはようござりんした」
僕の言葉を最後まで待たずに、家の方へ行ってしまった。
厳密にはわからないが、好奇心から、早蕨の跡を追わずにはいられなかった。
「玄耳さん! 玄耳さん! 大変でありんす!」
早蕨は平静を忘れた声で、玄耳と呼ばれる老人を探している。まだ、早蕨とは短い付き合いだが、ここまで慌てているのは普通でないとわかる。
そんなどうでもいい分析をしていると、不意に、何故か僕は、早蕨を世界を自分さえも、冷めた目で見ることしかできなくなっていた。
僕は恐らく酔っていたのだろう。時間の止まった世界という非日常的存在に興奮していたが、徐々に慣れてきたことに気づく。
非日常だと思われていたものは、すっかり日常へと変わり、時間の止まった世界で唯一変化するものは、心なのだと悟った。
早蕨は老人を見つけ、僕の視界にもそれが映る。老人は暗く、何も見えない窓をじっと見つめており、明けることのない夜で、光を待っているように見えた。
「津漆布≪つうるふ≫の地面が崩れて、消えんした。泰津園≪たいつぇん≫から奥も全て・・・・・・ この賦為愛≪ふぃあ≫も危ないかもしれんせん! 何が起きているのでありんすか?」
早蕨は涙を目に堪えながら、純粋な恐怖を訴えるように、老人に向かっていた。
しばらくの静寂が訪れた後、外に視線を向けたまま、老人はゆっくりと口を開く。
「・・・・・・この世界が終わる、それだけのことじゃ・・・・・・」
その声は淡白であっても、優しさが含まれていた。
「わしらはあいつに感謝せねばならんなぁ・・・・・・」
僕には老人が嬉しそうに笑っているように見えたが、早蕨に真剣に答えてくれていないと感じたようで、怒りに近い声色で言う。
「玄耳さんは、何か知っているんでありんすね? ちゃんと答えておくんなんし」
老人は初めてこちらを向き、真剣な表情で早蕨を見据える。刻まれた皺を更に深くして、低く落ち着いた声で答える。
「お前の待ち人がここに戻る代わりに、わしらを、お前を、解放してくれるのじゃ・・・・・・ 早蕨よ・・・・・・何も考えるでない。人は得てして考えるから不幸になるのじゃ。ただ受け入れなさい」
老人は諭すようでいて、厳しい言葉だったが、それ以上に早蕨は上の空になっていた。その理由を僕はわからなかった・・・・・・
待てども、待てども、待ち人は来ない。
遂に待ち人は来なかった。
待つことしか許されない憂き夜道にさえ、愛想尽かされてしまった。閉ざされた永遠はどこへ向かうのだろう。
その後、僕たちは家に戻ることにした。家路を辿る最中、早蕨は一度も口を開かなかった。その表情は、初めて会った時のような頼もしさは感じられず、触れたら散ってしまう桜のような儚さがあった。
早蕨の雰囲気から、一人にしておいた方が良いと思い、それぞれの部屋に戻ることにした。
別れ際に小さな声で早蕨は言葉を紡いだ。
「見苦しい姿を見せちまい、すみんせんでありんした・・・・・・」
謝る必要はないと思ったが、僕は早蕨の言葉を分かったように頷いてみせた。
僕はあの地響きのような音の正体について聞きたかったが、早蕨が平常心に戻るまで待つほかないだろう。きっと、先の老人に聞きに行っても無駄だろう。
あきちがこの世界に迷い込んだ当初は、あの人と一緒だから何があっても大丈夫だと思っておりんした。
この暗く、何もない世界で、楽しく過ごしていけることを疑わのうござりんした。
けれども、あちきの日常は不意に消え去っちまいんした。あの人がいのうなっちまったのでありんす。
あの人は常々、この世界から抜け出す方法を調べておりんした。玄耳さんからは、この世界を抜け出した人はいないと聞いておりんしたが、調べる手を止めのうござりんした。玄耳さんの所へ何度も会いに行ったり、かなり離れた場所にある津部安知火≪つゔぁんつぃひ≫より奥にも行っていたようでありんした。
いつものように家を出ていったあの人は、別れの挨拶も無いままに、帰ってくることはのうござりんした。
玄耳さんにあの人の行方について尋ねてみんしたが、この世界から抜け出した、ということしか教えてもらえのうござりんした。
悲しゅうござりんした。
あちきを残していった理由を教えてほしゅうござりんした。あちきの心は宙ぶらりんで、振り子のように揺れんした。
それからあちきは何度も、この世界の入り口とされている場所であの人を待ち続けんした。
そんな日々も先程終わり、振り子の動きは止まりんした。
玄耳さんが言った言葉が頭から離りんせん。
『お前の待ち人がここに戻る代わりに、わしらを、お前を、解放してくれるのじゃ・・・・・・』
あの人がこの世界に対して、何かしているということでありんしょうか?
玄耳さんは解放だと言いんした。これが正しいとするならば、あの人はあちきを見捨てた訳ではありんせんということになりんす。
玄耳さんには何も考えるなと言われたが、そんなことはできのうござりんす。
たとえ、帰ってくることがないとしても、二度と会えないのだとしても、あの人があちきを見捨てたのではないという可能性があるだけで、何も怖くなくなりんした。
あの人が創る運命に身を任せんしょう!
元々少なかった気力が更に減り、寝転がりながら天井を眺めることに飽きを感じることさえ無くなった頃、それほど遠くない所から、地響きのような音が聞こえてきた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・・
本能が無理矢理、神経に鞭打ち、体を起こす。
玄関を過ぎて、暗い外の景色が目に映る。いつもと変わらず何もなく、最早見飽きた満月が、全てを見下ろしていた。
後ろから足音が聞こえてきたので振り返ると、早蕨がこちらに向かって来ているのが見えた。
「月はいつでも輝いておりんすねぇ・・・・・・」
「ええ、太陽の光を沢山浴びているのでしょうね」
太陽の光が恋しい僕は、太陽の光を受け続けている月への嫉妬を醜く出してしまう。
早蕨はそれを咎める風もなく、同じ調子で続ける。
「それでも・・・・・・月はあちきたちを照らしてくれておりんす」
早蕨の言葉によって、僕のちっぽけな愚痴は月の光の中に消えていった。
「早蕨さんは、体調というか・・・・・・ もう大丈夫なんですか?」
「心配してくれていたのでありんすか・・・・・・ありがとうござりんす。もう決めんしたから」
早蕨の目は以前よりも凛々しく、迷いがないように思えた。時間の止まった世界でも、人は成長できるのだろうか?それならば退行もしてしまうのではないだろうか?
時間が止まっていても、動いていても、結局は変わらないのではないだろうか。
『我思う、故に我あり』
どんな状況に居たとしても、考える自分がいる限り、同じなのではないだろうか。
世界が終焉の兆しを見せる中、やはり僕は冷めた目で世界を見ることしかできなかった。入院生活が長くなった頃から、抽象的で観念的なことを考えるのが癖になっていた。僕は早蕨のような目の輝きを灯せるようになるのだろうか・・・・・・
この妙な自己嫌悪を終えるため、早蕨に聞きたかったことを聞く。
「ところで、地面が崩れたとおっしゃっていましたけど、あの地響きの原因を早蕨さんは何か知っているのですか?」
早蕨は夜空を見上げ、僕にではなく、月より遥けし誰かに対して伝えるように言う。
「詳しいことは何もわかりんせん。地面が崩れ、世界が終わる最後でも、そのときは笑っていられるような気がしんす」
言い終わると、こちらを向き、期待に応えられず申し訳ないと言いたそうなお辞儀をして、暗い一本道へ歩いていった。
僕は少しの間、夜空を眺めた後、家に戻ることにした。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・・
以前の地響きよりも、近くから聞こえてくる。
この世界がどうなっていくのか、僕にはわからない。しかし、僕はこの世界の住民。もしも、生きていけなくなるならば、その理由を知りたいと思った。
やはり、あの老人に再度尋ねるべきだろうか・・・・・・
今の状況が入院していた時と似ていることに気づいた。できることも、すべきことも無く、ただ死を待つ日々。
自分が辿る運命が何故これなのかと、いるはずのない神様に尋ねていた。
しかし今は尋ねることのできる相手と運命に納得した者がいるではないか!
自分の意思で生きていたい、誰かに決められた運命を、何もわからないままに辿りたくはない。
僕は走った。時間が止まり、疲労を感じないこの世界で、倒れてもおかしくない程に全速力で走った。
途中、早蕨とすれ違った。やはり、月を見上げていた時のような濁りのない表情を浮かべていた。
老人の家に着いた僕は、形式的な挨拶だけ済ませて、玄関をくぐった。
老人は以前と同じ場所で、同じ景色を見ていた。
「どうしても知りたいんです、僕がここにいる理由を。たとえ何もできない無力でも、知らずに終わるのは嫌なんです」
心からの訴え。僕がこのようなことをしている厳密な理由はわからないが、きっと早蕨のせいなのだろう。冷めた目しかできない、可愛げのない僕でも、最後には笑っていたい、納得していたい。
「先程、早蕨がここに来たのじゃが、ええ表情をしておった。あいつなりの真実を見つけたんじゃろな・・・・・・」
早蕨にとっての真実・・・・・・ 人それぞれ真実は違っていて良い。その真実に納得できるかどうかが大切なんだと思う。
「早蕨には待ち人がいた、ということは知っておるな? 奴こそがこの世界から抜け出した唯一の人間じゃ。わしは奴の行動の一端を知っておる。それを話してやろう」
「お願いします」
老人は静かに、僕に体を向けた。
「ただし、早蕨に伝えてはならない。この理屈がわかるな?」
「はい」
きっと早蕨の信じる真実に具体性を持たせてはいけないからだろう。早蕨は詳しいことは知らない、と言った。真実を得て、納得した者を揺さぶらせる様な真似はすべきではない。
「奴は常々、この世界から抜け出す方法を調べておった。長い間この世界にいるわしのことを頼りにしておって、調査して得た結果や疑問などをわしに伝えとった。脱出方法については聞いておらんが、興味深いことを聞くことができたのじゃ」
何故その人は、脱出方法を伝えずに去っていったのか不思議に思ったが、話の腰を折らずに聞くことにした。
「奴によれば、この世界に来てしまう人は皆、心が病んでいるというのじゃ。また、元いた世界に自分という存在はいるということ。つまりは分身じゃ。あっちが分身なのか、こちらが分身なのかは考えずとも分かるじゃろう?」
考えたこともない事態を告げられ、鼓動が早まる。
「僕は僕の分身・・・・・・?」
「ああ、しかし、どうということもなかろう。互いに会うこともないのじゃからな。」
もう一人の自分が、どこかで動いていると考えると、気持ちが悪くて仕方がなかった。それでも僕は、話の続きを聞きたいと思った。
「・・・・・・すいません、続けてください」
「ここからは奴の推測じゃが、わしら分身は病を背負って、この世界に来る代わりに、元の現実の自分は病が無かったことになるそうじゃ。酷い話だと思うじゃろ?」
ーーああ、全く酷い話だ。
「だからこの世界は時間が止まっているのですね?捨てられた分身を悠久にこの世界に閉じ込めるために」
老人は考える様に目を瞑る。
「それはお前の真実じゃ。わしには答えられん。だが、奴の考えもお前のと近いのだろう。だからこそ奴は、この世界を壊しているのじゃろうな」
段々と疑問が解消されていく。しかし、今はそんなことはどうでもいいような気がした。
「たしかに僕もこんな世界に永遠に閉じ込められるなんて嫌です。死んだ方がましだと思う時が来るかもしれません。けれども、わかったことがあります。時間の止まった世界でも、心だけは動いていると。だから、ここに来たときは病んでいたとしても、絶望する必要はないのだと。だからこそ僕は生きていたい、そう思うのです」
時間の止まった世界なのに、僕は変わることができるかもしれないと思えた。
この世界を壊そうとしている者の考えは理解できる。ここにいる限り、僕たちの空は晴れない。いずれ僕たちは、空の色と同じく、心が絶望に浸るのだろう。
僕はここで死ぬ理由を、真実を見つけなければならない。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・・
残る時間は少ないように思えた。
「さあ、帰りなさい。後はお前だけで考えることじゃ」
僕の真実は、僕にしか見つけられない。
「お話、ありがとうございました。さようなら」
最後にお辞儀をして、僕は立ち去った。
家へ向かいながら、本来の現実にいる自分に思いを馳せていた。心の病は僕が引き継いだが、体の病は変わらず持っているのだろう。心だけでも健康になって、幸せに暮らしているだろうか。もう一人の自分に気持ち悪さを感じてはいるものの、僕であることに変わりないので、幸せであってほしいと思う。
しかし、ここは時間の止まった世界。向こうの世界と一緒に時間が進んでいる訳ではない。僕は僕が捨てられた瞬間から、時間が進んでいないのだ。
そんなことを考えていると、いつの間にか家に着いた。すっかり見慣れたこの家も、もう少しで、なくなってしまうと思うと、悲しかった。
玄関に入ると、廊下に立っている早蕨の姿が見えた。
早蕨はある部屋の前に立っていた。僕はその部屋について少しだけ知っていた。殆ど会うことはなかった、この家の住人の部屋だ。浴衣を着た男性だったと思う。
「その部屋の方を最近見かけないのですが、どうしているのでしょう?」
何となく浮かんできた疑問を投げかける。
「あの御仁は、先に行ってしまいんした。あちきよりも前からこの世界におりんしたから、そろそろ休みたかったのでありんしょう・・・・・・」
関わりがなかったとはいえ、同じ家の住人。何も思わない訳にはいかなかった。
「そういえば、以前早蕨さんはこの家に三人で住んでいると言ってましたけど、最後の一人に会ったことがないのですが、その方は?」
早蕨は申し訳なさそうな顔をしながら、その人の部屋と思われる前の扉を見て言う。
「・・・・・・その方はもうおりんせん」
「それは・・・・・・その部屋の方と同じ、ということですか?」
「そうではござりんせん。その方があちきの待ち人であり、恩人でありんす。其方に説明したときのあちきは弱うござりんした。嘘をついちまい、申し訳ありんせん・・・・・・」
唯一脱出したというその人は、かつてこの家に住んでいた。本来なら驚くべきことなのだが、何故か何も思うことはなかった。
「謝らなくても大丈夫です。あなたの気持ちを考えると、仕方がないことです」
それでも早蕨は申し訳なさそうに頷いた。
「他の家の住人達にも地響きの件を伝えんした。死という現実に達観している者、それを装う者、様々おりんした。皆これまで苦しんできんした。嬉しくもあり、悲しくもあるのでありんす。其方はどうでありんしょう?」
僕はまだ覚悟を決められていない。僕のような年齢の人間が、覚悟を決めることなどできるのだろうか?
「わかりません。正直僕は、ここに来た時点で既に死んでいるものだと思っていました。しかし、恐らく僕は生きていて、これから本当に死ななくちゃいけない。知らない間に死ぬことができたら、どれだけ楽なんだろうって、思うこともありました。でも、それではいけないのだとわかりました。人は目の前に死が無いと、生を思うことができないのだと。生を実感して、初めて死を受け入れられるのではないでしょうか」
入院、退院、通院を繰り返していた時代には、よぎる程度だった死の存在が、はっきりとした存在感を持つことで、はからずも僕を変えてくれた。
僕は、自分の考えを口にしていると、なんとなく真実が見えてきたような気がした。
僕がこの世界で死ぬ意味は一つしかなかった。
僕は心の病の具現化と言ってもいいだろう。この世界に来てから僕は、自分について真剣に考えるようになった。時間の止まった世界だけど、心の時計だけは動き続けていて、いつでも僕は成長できるのだと知った。
病は消滅したのだ!
僕がこの世界にいる理由はもう無い。
かつての弱い僕が作った僕は、僕よりも先へ進んでいく。
「あちきもそう思いんす。人は無条件に死を受け入れることはできんせん。だからこそ、死の前に生を感じる必要があるのでありんしょう」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・・
終わりが近づいてくる。
あの老人はきっと、もういない。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・・
地響きの轟音は、耳を突き抜け、頭を揺らす。
僕と早蕨は、最後に月が見たくて外に出る。
綺麗に輝く丸い月は、相変わらず僕たちを見下ろしている。動くことのできない月は、最初からそこにいて、全てを知っているかのようだった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・・
音は真下から聞こえてくる。段々と揺れが激しくなると、後ろの方から家が軋む音を鳴らす。地響きと軋む音は鳴り止むことはなく、むしろ大きくなる一方であり、遂に懸命に耐えてきた住処は、その役割を果たし終える。
地面が割れ始めると、死に直面する時の、生物としての本能が頭を支配しようとする。震える足を押さえながら僕は、それに抗いたいと思った。
早蕨はいつも以上に穏やかな表情を浮かべていた。最後には笑っていたい、と言っていた早蕨は、それを実行しようとしているように見える。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・・
体の力が抜け始め、揺れている地面に立っているのがしんどくなってきた。
次々と辺りの地面が落ちていく。落ちる先には底がないように見え、僕もそこに行くのだと考えると、悍ましかった。
底の抜けた地面からは風が吹き上がり、沙石が舞い上がる。月の光を浴びて、燦然と輝いている様は満天の星空にも勝っていた。
月の光と風の音
地面は崩れ始め、足元を照らす程度の光すら欲しくなかった。轟音と共に地面がせり上がると、体が宙に浮き、仰向けになると、僕の目にはいつもと変わらぬ夜空が映る。
投げ上げられた体を支えるものは、もういない。早蕨を探し、目を遣ると・・・・・・何よりも透き通った涙を浮かべながら、最後の月夜に相応しい笑顔を携えていた。
体は浮き上がることを止め、自由落下を始める。風の抵抗を受けつつも、体は加速し続ける。地上から離れても、月の大きさだけは変わることはなく、僕と月には決して交わることのできない距離があるのだと思わされた。
終端速度に達したころには、月の光さえ届かない闇に吸い込まれていた。妙に気持ちの良い浮遊感が、僕に久しく忘れていた眠気を思い出させる。休みたがっている体を労わるために、ゆっくりと目を閉じる・・・・・・
もう一人の自分に思いを馳せながら、真実だけを持って眠りに就いた。
浮世語り『夜道』を読んでいただき、ありがとうございます! 幻想小説に寄せたこともあって、淡い物語になったと思います。主人公と早蕨の変化を感じ取っていただけていれば、嬉しく思います。