【Vol.09】
祖師ヶ谷大蔵のあたりで線路をおりて、舗道を歩きはじめる。
闇が薄れつつある。
かつて商店街のビルがひしめいていた駅前界隈もすっかり崩れ、土と雑草をかぶって静かに眠っている。
崩れたビルのむこうに朝日が射しはじめる。
もうじき朝がくる。
眠っていいぞ。
ずり落ちそうになる蓮を腕の中に抱えなおして武洋が耳元で言い、頭をなでる。
大きな優しい手が蓮の頭をすっぽり包み、規則的な歩く振動が蓮を満たしていく。
ゆらゆらと。
蓮が眠りに落ちていく。
「なぁ…」
朝方の、無人の商店街の、昔は経堂駅の高架下だったあたりの崩れた大柱の陰。
ぽつんと露天商のテントがある。
闇市の日でもないのに店があるのは珍しい。よほどセキュリティに自信があるのかもしれない。しかも。たいていは食料など緊急性の高いものを売るのに、その店の看板には花火の絵が描いてある。手で持って楽しむ小さな花火だ。
武洋と蓮、顔を見合わせる。なんだあれは、と。
ふらっと引き寄せられて、店先をのぞく。
花火の束が地面に並べられている。
魔女みたいに痩せた老婆が店番をしている。
「ばあちゃん、売れるのかい?」
武洋が聞くと、老婆はカラカラと笑う。
「いいや売れないねぇ」
「こんな目立つところに店なんか出して、襲われないのかい?」
「売れてないから奪うもんもないよ」
「なんで、花火?」
「納戸にこれしか売るもんがない。売れた日はごはんが食べられる。安くしとくよ」
ああ、なるほど、と。
あっけらかんとした話しぶりと、となりの青い瞳が強い強いご要望を訴えてくるので。
なんとなく、一束の花火を買ってしまう。
貴重な紙幣と交換で。
もとは公園だったのかもしれない空地には小高い丘ができている。
この非常事態に、おれは何をしてるんだろう。
腑に落ちない顔で、武洋が丘の枯草をかたづける。
せめて山火事が起きないように気を遣い。水気の多そうな雑草もたっぷりと集めて消火用に備えをする。
澄んだ午後。
嬉しそうに蓮が、言われた通りの雑草を集めてくる。
あんまり遠くに行くなよ、と声をかければコックリするが、浮かれていて耳には入っていないよう。
花火なんて何年ぶりだろう。
容子を失って以来、一緒に何かを楽しみたいと思う相手もいなかった。
「花火、見た事あるか?」
ぼんやりと武洋が言う。
聞いちゃいない蓮、支度が終わったとばかりに武洋の横にきて、ちょこんとしゃがむ。
花火を一本、渡す。
蓮は大切そうに両手で持って、火をつけてもらうのを待っている。
武洋は蓮の様子を見ている。とっさに自分で火を起こしたりしないかを試す目をしている。
蓮は花火をさしだして待っている。
電気を使わないのが習慣化できたことに安心して、武洋はライターで火をつける。
昼間の花火。
なかなか火がつかない。しけている。あの婆さん不良品をつかませたな、と武洋がハニワのような無表情になる。
だがゆっくりと花火は点火し、ふたりとも子供みたいに嬉しそうな顔になる。
シュワッと涼しい音たてて、火花がひろがる。
きらきらと光が落ちていく。
夢のように綺麗だ。
やがて花火は消えて、夏の火薬の匂いが漂う。
なんてすごいんだろう。
蓮はピンクの口がプルプルふるえるほど感動している。
そんな蓮を、武洋が目を細めて見ている。
「むかし、おまえより小っちゃかった頃、親に花火大会に連れてってもらったことがあるんだ。でっかい花火。隅田川のさ」
蓮がふりむく。
「厚木のあたりなら、相模川で開催してなかったかな。鮎祭りとか、行ったことあるかな。お祭り、花火大会、わかるかな」
蓮はまばたきをする。
わかるともわからないとも言わずに、武洋の言葉を聞いている。
「どーん、て、でっかい音がしてさ。まっくらな空いっぱいに光が広がってさ。親父がおれの手を握っててくれてさ。かき氷と焼きもろこしが美味くてさ。迷子になるなよって何度も言われてるのに、つい興奮して親父の手をふりきって走っちゃってさ。浴衣の襟首つかまれて引き戻されて。人がいっぱいで何も見えないから抱っこされて、花火を見たんだ。親父の頭につかまって見てたんだ。あんまりにも真剣に見すぎちゃってて。おれ、親父の髪の毛むしっちゃってた。男の髪だぞ。あとで考えると酷い事してたなぁ」
はははと笑ってから、しまった、の顔。
蓮を傷つけたと思い、武洋はうろたえる。
すまん、とか、そんなつもりじゃ、とか、もごもご言うのだが、言うこと自体がはばかられている気がして、しだいに言葉も出なくなってしまう。
蓮、そんな武洋をみつめて。
何が彼を焦らせているのかをようやく理解する。
困った顔。
何かを伝えたい。だけどどうすればいいのかわからない。
蓮も口をひらくが声が出ない。
懸命に口をぱくぱくさせて、声をしぼりだそうとして。
「あ、う…」
ちいさな声。
武洋、おどろく。
「無理するな。すまん。おれ、無神経だった」
何もしなくていいのだと手をぱたぱたさせて気持ちを伝えようとする。
蓮が、武洋の胸にしがみつく。
髪があったらむしっていそうな勢いで。
「みたの。ぼくも。はなび…」
たしかな、声。
はじめて聞く、細い高い声。何日かぶりで出た、ぎこちない声。
武洋、嬉しくて泣きそうな顔。
「みたの。ぱぱと。ままと…」
そして。
蓮は泣きはじめる。大きな大きな声で。辛かった、悲しかった、怖かった、寂しかった、親を失った気持ちのありったけをこめて。青空まで届きそうな声で。
武洋にしがみついて、泣く。
うん、うん、としか言えなくて。武洋はずっと、蓮の背中をなでている。
猪のような首のうしろには、ゆうべずっと蓮が爪をたてていたのが傷になって、絆創膏が貼ってある。
歩く。
かつて駅前歓楽街だった廃墟を、どこまでも。
ふたり、手をつないで。
「りんごあめ、たべた」
「うん…」
大きな筋肉男のシルエットと、小さな猫型少年のシルエット。
壊れた舗道にのびていく。
「わたあめも」
「うん…」
ぽつり、ぽつりと、蓮が話す。
最初で最後の、鮎祭のこと。
無口なのはもとからのようで、言葉も足りないから情景は何も伝わらないけれど。
「どーん、で、ぱーん、だった」
「うん…」
蕩けるような目で、泣きながら頬を高揚させる。
大切な記憶であることだけは、痛いほど伝わる。
武洋はただ頷いて、断片的にこぼれる単語を聞いている。
「おっきかった。こんなに。こんなに…」
「うん。そうだな。おっきかったなぁ…」
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