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【Vol.10】

 泣きすぎたせいか。

 朝から蓮が熱を出している。

 破れた日本家屋の奥座敷。カビくさくてたまらないが、とにかく身を隠さねばならない。どこまでが畳でどこまでが土かもわからないほど自然に還っている床に、ビニールシートを敷き、蓮を寝かせている。

 雨が降っている。

 しとしとと小降りで、いつ止むかもわからない。

 まいったな、と武洋は頭をかく。

 蓮が熱にうかされた濡れた目で、天井を見ている。

 ときどき辛そうに武洋を見て、ごめんなさいといいたげに口をへの字にする。

 腹が減っている。

 スズメも捕れず、朝からオートミールしか食べていない。

 蓮のそばにあぐらをかいて、窓の外を見る。

 かつて日本庭園だったらしい庭は、灯篭も池もただ朽ちて濡れている。

「何か楽しいことでも考えようか。おまえ小さい頃からあの河川敷にいたのか?」

 蓮がちいさくうなづく。

「友達とか、いたか?」

 蓮は首をかしげる。友達の概念が曖昧かもしれない。

「あの河川敷、他にも暮らしてる家族がいたか?」

 蓮、ちいさくうなづく。

「子供のいる家族はいたか?」

 蓮、首を横にふる。

「河川敷の外には子供がいたか?」

 蓮、首を横にふる。

「いつも一人で遊んでたのか?」

 蓮、首を横にふる。

「誰か、いたか?」

「外から遊びにきてくれる人がいた。釣りする人。お魚を分けてくれた。ぼくは鳥を分けてあげた」

 さすが商売人の子。友達はいなくても社会性は育ったらしい。

 同世代との本音を隠して馴れ合う話術より、大人相手の取引交渉術のほうが、人生の役に立ちそうだとも思う。

 十年後二十年後にどんな大人になっているのか、見てみたかったなと苦笑する。

 蓮の腹が鳴る。

 食べなければ熱も下がらないだろう。

「何か食べたいものあるか?」

「あ…」

「アメ以外で。栄養あるやつ」

 蓮、がっかりした顔。

 熱のある赤い顔で、ぷーっと頬をふくらませる。

 はははと笑って武洋が立ちあがろうとする。

 と、蓮がよろけながら体を起こして、武洋のシャツのすそをつかむ。

 必死な顔。

 武洋は困った顔で笑って蓮の頭をなでる。

「置いてかねぇから。おまえ一人にするほうが危険だよ」




 線路沿いの道を歩く。

 蓮を背負って、ビニールシートを背中にかけて蓮が濡れないようにして。

 蓮が苦しくないよう、静かにゆっくりと歩く。

 下北沢の方角へ。

 あそこなら平日でも市が立っているとラジオが言っていた。

 ここ数日あまりにもたくさんのことがあって、小さな心が決壊しそうなのだろう。体の乱れは心の乱れだと、むかし空手を教えてくれた難民キャンプの爺さんが言っていた気がする。

 寒くないか、しんどくないか、背中にきこえる吐息に気を配る。

 呼吸は荒くなっていない。咳もない。ただ熱だけがあり、心がダウンしているのだと伝えてきている。


 下北沢、かつて駅の南西口だったあたりを中心に、北東から西南へ流れる道沿いに、市がひらけている。

 武洋はすこし困惑の顔である。かつて御苑にいた頃は、このあたりは歩いて一時間とかからない。ときどき遊びにきていた見慣れた界隈のはずだった。けれど、あれから十四年が経ったのか。崩れるにまかせて放置された街並みは、まるで見覚えのないものに様変わりしている。

 蓮を背負って、武洋はゆっくりと市を見て歩く。野菜、魚、わずかだが肉もある。だが病人に精をつけるようなものはないらしい。

「食べるか?」

 背中の蓮に聞いても、あまり色よい返事はない。あれば食べるがそれほど嬉しくもないような表情。猫は本能で、今の自分に必要な栄養素を含む食べ物を見分けるらしい。それが食欲わかないのであれば、むりに食べさせても無意味だろう。ついでに持ち金もほとんどない。

 まいったな、と歩きつづける。

 ひとつのテントに、卵がある。

 蓮の食指が動いたのを気配で感じる。

 店番の太った中年女に聞いてみる。

「いくらだ?」

「ドルなら3でいいよ」

「高ぇな」

「円はいらないよ。わかってるだろうけど」

「どっちも持ってねぇよ」

 中年女はじろじろと武洋を見る。

 背中の蓮が熱をだしていることに気づく。

 武洋が屈強な大男であることも。

「うち、ここから近いのよ。庭の木を切ってくれるんなら卵と交換するよ」

 背中で蓮がにっこりするのを感じる。

 渡りに船である。


 しかし。

「謀ったな…」

 朽ちかけた無人の住宅街で、その家だけが生きている。水も何もないからさぞ不便だろうに、なんとか家屋を手入れをして暮らしているらしい。屋根にも床にも灰色の、工事現場用の防水シートがかけられている。そして雨のかからない窓辺に蓮が寝ている。カビてない平らなところに横にならせてもらえるのは有難いのだが。しかし。

 武洋は庭の木とやらの前で、呆れている。

 直径は五十センチを越えている。庭の木という表現で収まる代物ではない。

「これをたったの卵三個で伐採しろと?」

「いやなら出てってくれてもいいよ?」

「…」

 やってやろうじゃないかと武洋、もうヤケクソ。

 力まかせに斧をふりあげる。

 空手には瓦割りなど物を粉砕する技術があるが、あれは六段以上の超人のすることで。万物には目がありこれを突けば粉砕できると超人たちは言う。その目がどこにあるかが視えるようになれば超人の仲間入りなのだろうが、あいにく武洋は人類である。

 ガッ、ガッ、と幹の根元に斧を振りおろす。

 中年女はへらへら笑い、奥へ引っ込む。なにやら物音がしたと思ったら、コップに入ったものを持ってくる。

 蓮へコップを渡して、武洋へ。

「卵酒だよ。みりんはサービスしてやるよ。あんたも終わったらこっちで飲んだらいい」

 蓮は体を起こして、両手で大切そうにコップを持つ。

 すこし縁の欠けてる、子供用の絵のついたコップ。

 この家には昔、コップの持ち主の、子供がいたのだろう。

 頬を赤くして卵酒をちびちび飲む蓮を、中年女が目を細めて見ている。

「かわいい子だねぇ。お父さんにそっくりだねぇ」

 種族が違うのに似てるわけがないが、後天的に獣人になったなら顔の見分けはつかないだろう。お世辞とわかっていても褒められれば嬉しい。

 えへ、と蓮が笑う。

 鼻の頭に卵がついているのを、ピンクの舌でぺろりと舐める。

 蓮が卵酒に気をとられている隙にと、中年女が、そばに置いていた武洋のナップザックへこっそり手をのばす。

 とたん武洋がふりかえる。鬼の顔で。

 中年女はあわてて手を引っこめる。

「金目のものなんか入ってねぇぞ。見りゃわかるだろ」

「そんなのわかるもんかい。ちゃんと確認してみなきゃね」

 油断も隙もねぇなと武洋、ナップザックをとり肩にひっかけて伐採をつづける。

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