【Vol.01】
血生臭さで吐き気がしてくる。
ここで暮らしていたのだろう中年男女の死体が無造作に転がっている。
厚木の米軍基地からすこし離れた、中津川の河川敷。
ダンボールにブルーシートのかかった住居の、庭にあたるのか砂利と雑草の中で。
何度も刺されて苦しげな表情で絶命し、ちぎれた手足が散らばっている。
昔なら浮浪者とよばれる暮らしなのだろう。だが今は、二〇五〇年。世界が崩壊してどこもかしこも廃墟になった時代である。まともな屋根の下で暮らす庶民は少ない。おそらくはこの男女は夫婦で、ほんの数時間前までは普通の幸せな暮らしをしていたのだろう。このダンボールハウスとともに。
男のほうは足がなくなり中津川の流れに首をつっこんだまま動かない。
女のほうは腕が河原に落ちている。あおむけに横たわり、苦しげに目を見開いて、ゆっくりと冷たくなっていく。
そんな光景を、瀬谷武洋はぼんやりと眺めている。苦々しさが顔に出ないよう抑えつけながら。
男の死体の顔には見覚えがある。米軍基地の敷地内にしつらえられた難民キャンプの住民たちへ、古着を売りにくる行商人だった。どこかから安く仕入れた、もしかしたらどこかの死体から脱がせたかもしれない、古着を繕って商いにしていた。世間話をしたことはないので、こんなところに住んでいたことも、家族がいたことも、武洋は今日初めて知った。
南無、と心の中でそっと手を合わせる。
河川敷をうろつく米兵たちには知られないように。
米兵のひとりが死体の男の背中から、肉切りナイフを引き抜く。
ぬらぬらと人肉の白い脂がこびりつく刃から血が滴る。慣れてる武洋も鼻をふさぎたくなる臭さが濃くなるが、米兵たちは気にならないらしい。
いまいましげに舌打ちをする。
子供がどこかにいるから探せ、と、武洋に命じる。
米兵たちは武洋を、殴られ屋、と呼ぶ。人間性には興味がないのだろう、名前を聞かれたことは一度もない。米軍基地の中にある難民キャンプで暮らしている。格闘技の心得があり、殴られ屋というゲームで生計を立てている。地面に三メートルほどの輪を描いて、そこから出てはいけないのが唯一のルール。客は一分間、腕組みをして逃げ回る武洋を殴る。フットワークのいい武洋には滅多には拳が当たらないので悔しがって課金する客も多い。彼らを煽って楽しませる大道芸である。今朝は米兵五人組につかまり、片付けをするからついてこいと言われた。片付けるものが同胞の日本人の死体とは聞かされていなかったが、報酬があるなら何でもする。ブツの中身に文句はない。
とはいえ、気分のいいものではない。
河川敷にはダンボールハウスがいくつもあり、狭いが四LDKのような間取りになっている。武洋は一番奥のハウスを探すよう命じられる。
子供、ねぇ、と武洋がそちらへ向かおうとすると米兵が背中へ声をかけてくる。
獣人だ。半分猫だから注意しろ、と。
わかったよ、と武洋は片手をあげて返事する。
米兵たちも、他のハウス、周辺の探索へと散らばっている。
彼らに背を向けてから武洋は、汚れたタオルで自分の鼻を覆う。
ヤンキーゴーホーム、リメンバーヒロシマ、と呟いて。
ダンボールハウスに入ればそこも惨状である。
おそらくは河川敷の夫婦が暴れて逃げ惑ったのだろう。
もとから壊れて塗装の剥げたタンス、プラケース、これから繕うはずだったらしい古着が置いてある。
地面は、竹のすのこか。その上に風呂場のすべりどめのようなものが敷かれている。
武洋はひとつひとつ丹念に片づけていく。
せめて御霊に失礼がないように。
これだけ荒らした後に何かが残っているとは思えない。ここに獣人の子とやらはいないだろう。
ある朝いきなり電気が使えなくなるという世界規模の異変があったのが二〇三〇年。世界がゆっくりと崩れていくのと同時に、稀に、人から獣の子が生まれることがあるようになった。人の子として生まれたのが獣化することもあった。見た目や体質が獣っぽくなるだけで言葉は通じるから、それほどは困らないらしい。猫の子は静電気体質で、ときどき火花を散らすという。米軍はそれを研究して軍事利用しようとしているとの噂を聞いたことがある。静電気ぐらい人でも起こせるだろう、そんな馬鹿な、と、武洋は思っていたのだが。この惨状を見て、あるいは噂は本当だったかもしれないと考えを改める。雑貨や服をたたみながら思う。どの品も、どこかから拾ってきたものを丁寧に洗って大切に使っていた品々だ。ここの住民がささやかに幸せに暮らしていたのが伝わって、痛い。
ひとつずつ、武洋が品々を片付ける。
きれいに磨かれた姿見に、そんな武洋の姿が映っている。悪役レスラーのような巨大な体に隆々の筋肉。左の二の腕には蝶のタトゥーが彫ってある。整った顔だが、どこか物事を斜めに見るような目をしている。ぼさぼさの長髪は癖毛がひどくてソバージュのよう。古くてすり切れた黒無地のタンクトップに、穴だらけの黒デニム。デザインで穴があいているのではなく繕うこともできないほど膝が抜けているだけである。投げやりな笑みをうかべていて無口で無気力。何を言っても軽口でしか返さないから、誰も本気で彼に関わろうとしない。周囲から距離を置かれることが心地いいと感じている雰囲気が、全身に漂っている。
時折ダンボールハウスを米兵がのぞく。何をさせても大雑把なやつらには、武洋の丁寧な片付けが気に入らないらしい。オー、ジャパニズム、と馬鹿にした口ぶりで揶揄し、何も見つかっていないのを目で確認して去っていく。
武洋は聞こえないふりで作業を続ける。
床のブルーシートを剥ぐ。
土をかぶった木の板があらわれる。
ただ床に嵌まっていただけだろうと思いつつも、出来心、好奇心で、板をはがす。
すると。
そこに少年がいる。
冷蔵庫より狭い空間で、膝をかかえて、青い顔をして震えている。よく見ればそのスペースには外へ空気を逃がす塩ビ管がついていて、おそらくはダンボールハウスの隅あたりに繋がっているのだろう。
少年は、ふわふわの猫毛に覆われている。全体的に白いが、顔の真ん中、耳、手足の先がチョコレート色。シャム系の猫らしい。生きた心地もしないのだろう青い目をめいっぱい見開いて、泣くこともできないほど怯えて凍えている。
武洋は、迷う。
だが、そうとしか動けなくて。
自分の口に指をあて、静かに、の仕草をする。
ハラ、ヘッタダロ。ナニカ、モッテキテヤル。
口の形だけで伝える。
少年の青い目が、さらに驚愕で大きくなる。
そして、小さく頷く。
彼もまた、そうするしかなかったのだろう。
武洋はそれを受けて小さく頷き返す。
小さく小さく微笑んでみせてから、木の板を元へ戻して少年を隠す。
あの夫婦が自分の命と引き換えに守った少年を、見捨てることができなくて。
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