三国志 別伝 周瑜の手紙 と 魯粛の深謀 ~ どうして虎狼の如き男を処分せずにいられよう 遠雷は今は亡き友の怒り 亡友の手紙は竜となって天を舞い 魯粛 謀をもってその芽を摘む
風雨で窓がきしむ音で、彼は、目を覚ました。
夜明けには、まだ早い。
雨が窓を叩く音が、暗闇に響く。
寝具から体を起こすと、雨の匂いの間に、かすかな煙の臭いが漂っていることを感じた。
ゴロゴロという遠雷が、下腹に響く。
響くこの雷鳴が、亡き友の怒りの声にも聞こえる。
巴丘の地で散っていったあの男の・・・。
※ ※ ※ ※ ※
前日のことであった。
パチパチと燃える焚火の前に座る男。
その名は、魯粛。字は子敬。
彼は、1週間前に刎頚の友を亡くしたばかりであった。
姿質風流、眉目秀麗の美男子で、知略・武略に優れ、音楽にさえ精通する、周瑜 公瑾。
彼は、華北を制し、劉表亡き荊州を押さえ、江東へと迫る曹操軍を、かの赤壁の戦いで一蹴した。
その勝利の勢いをかって、曹操軍に反撃を喰らわす。
曹仁の守る荊州の地・・・江陵、そして、夷陵を一気に占拠する。
なんと、攻め込んできた曹操を撃退したばかりでなく、逆に荊州のほとんどをその手におさめたのだ。
魯粛は、彼の最後の手紙をパラリとひろげた。
>子敬(魯粛)よ。
>かつて居巣県長になった私に、魯家の蔵の1つをこともなげに提供してくれた、あの時のあなたの姿を、今 思い出している。
魯粛の実家は、資産に恵まれていた。
まだ頭角を現したばかりの頃の周瑜が、軍糧提供を求め、魯粛の元を訪れたのだ。
魯粛は、2つある蔵の1方を無造作に指差すと、「お使いなさい。」と応じた。
三千斛の米の供与。
この事がきっかけで、2人は、親しく交わり合い、僑札・縞紵の契りを結ぶこととなったのだ。
手紙は続ける。
>曹賊(曹操)は、しばらく動けぬであろう。
>その間に、私は益州の地を得るつもりであった。
>曹賊は、司隷・幽・冀・并・青・兗・徐・豫の天下八州をすでに制している。
>我が東呉の揚州、そして新たに得た荊州と益州を合わせれば三州。
>数には劣るものの、私が率いるならば、都を落とすこともできる。
>あぁ、劉備は梟雄で人の下にいつまでもいる者ではない。
>私は、劉備を呉に留め、宮殿を建て美女をあてがおうと考えていた。
>そうして、配下の関羽・張飛らは、都へと攻めのぼる私が率いるのだ。
>揚州、そして荊州と益州の兵をもってすれば、華北へと攻め込むことが可能だ。
>これこそ天下2分の計である。
なるほど、公瑾(周瑜)らしい考えだ。
平地が広がる中原に対し、益州と揚州には越え難き障害物がある。
益州に、山。
蜀の桟道は険しく、守るに易く攻めるに難い。
揚州に、川。
長江が、曹操の軍を防ぐ障壁となる事は、赤壁にて証明された。
どちらも守ることに徹するならば、最小限の兵さえあればよく、文化こそ中央に劣るものの、独立した経済圏を作ることが出来るだけの地力をもった地域である。
揚州、そして荊州と益州の三州を押さえたならば、北と南で天下を2分することができるだろう。
そうして、揚州の孫家の力、益州の兵と物資を集め、周瑜 率いる軍に集約する。
荊州・・・唯一、平らで中原・・・都へと繋がる土地だ。
荊州最大の都市、襄陽から樊城を突き、その勢いをかって都へと突入する。
なるほど、曹操は泡を喰うに違いない。
周瑜は、曹操が赤壁での疲弊から軍事行動を起こせないと判断した。
そうして、隙をついて、劉璋の支配する益州を攻め取ることを企図していたのだ。
「揚州、荊州、益州の兵をもって、華北を制するっ。」
立ち並ぶ将・・・江東の男たちの前で、そう演説する彼の美しい顔を思い浮かべる。
あぁ、公瑾なら大いに可能性のある策だ。
そうして手紙は、さらに続ける。
>時は満ち、気は地を覆わんばかりにあふれている。
>しかし、私にその時間は残されていない。
>もはや私の身体は、思うように動かないのだ。
そうであろう。
魯粛は、顔に苦笑いを浮かべた。
体が動くようならば、公瑾が、このような手紙をよこすはずがない。
すでに、益州・・・蜀の地へ軍を向けていても、おかしくないのだ。
兵は、拙速を尊ぶ。
華北の人口と南の人口は、比べる間もなく北の人間の数が多いのは分かり切っている。
この差を逆転するには、勢いと果断さが不可欠だ。
山の上から転がり落ちる岩玉の勢いが、途中で止まって緩やかになってしまったならば、いくら赤壁の打撃が大きかったとはいえ、曹操率いる将兵が、周瑜を止めることはそう難しいことではないであろう。
時が満ちているのではなく、今しかなかったのだ。
手紙は言う。
>私の天下2分の計は、ならぬであろう。
>そうであるならば、東呉は、子敬(魯粛)の策が示す道を進むべきである。
>すなわち、劉備を、我々と曹操の領地との間に置き、緩衝地帯として用いるのだ。
>ただ、子敬はあの男・・・劉備を信じすぎている。
>あれは、虎狼の如き男だ。
>彼の元には、関羽・張飛という将がおり、荊州で諸葛亮という智謀の士を手に入れた。
>どこかで除かねば、東呉にとって大きな障害となりかねない。
>心残りが多すぎる。
>手紙ではなく、直接、子敬(魯粛)に会って話をしておきたかった。
>子敬(魯粛)から貰った薬で、矢傷は癒えたものの、患った肺病がこの体を蝕んでいる。
>吐いた血で、服は赤く染まり、少し体を起こして呼吸をするだけで息切れがする。
>あぁ、もはや筆を執るのも苦しくなってきた。
>無念だ。あとを頼んだ。
周瑜の手紙・・・最後の一文は、文字は乱れ、もはや読み取ることが難しいほどであった。
「虎狼の如き男か・・・。」
魯粛は、ちいさく呟くと、耳たぶの長い客将の顔を思い浮かべる。
劉備 玄徳・・・。
前漢の景帝の第9子、中山靖王の末裔というが、まぁ、嘘であろう。
莚売りが、挙兵の際に、詐称したと考える方が自然だ。
渤海の公孫瓚の元へ身を寄せ兵を養い、徐州の陶謙の元でその地位を虎視眈々と狙う。
陶謙が死去したならば、直ちにその座を奪い徐州を乗っ取るも、呂布や曹操に追われ、袁紹の元に奔る。
袁紹の家臣団は、さすがに分厚い。
そこに入り込む隙が無いとみるや、汝南の地へと向かい、袁紹が敗れると見るや、荊州の劉表の元へ。
しかし、荊州を奪えなかったのは、劉備にとって痛恨であったであろう。
劉表の死後、陶謙の時と同じように乗っ取りを企むも失敗。
いや、蒯越、傅巽、蔡瑁といった 故 劉表の家臣団が、その地を良く守ったというべきか。
そうして、今は、我が主である孫権に荊州南部を借りる客将。
あわよくば、これも乗っ取ろうと考えているのであろう。
まさに、虎狼の如き男としか言いようがない。
「大耳野郎(劉備)こそが一番信用できぬ者だ。」とは、処刑された呂布の最後の言葉だが、その通り。
この男を信用してはならない。
そういう意味では、周瑜の指摘は、的を得たものと言えよう。
「しかし、公瑾(周瑜)よ。虎狼は劉備だけではなかろう。」
魯粛は、目の前の焚火を見つめながら、友の顔を思い浮かべる。
荊州を得て、蜀の地を得て・・・都へと攻め入る。
はてさて、それに成功して天子を手中に入れた周瑜が、孫権の下にとどまるのか?
「公瑾よ。私には、もう1匹の獣の方が、危険に見える。」
ゆらめく炎を見つめる魯粛の目には、曹操を北に追いやり、独立を宣言する周瑜の姿が映っていた。
「すまぬな。お主の策には乗れぬ。」
独立をした周瑜の軍は、荊州と益州で徴募した兵と、揚州で孫家が鍛えた精兵と、東呉の将で構成されるだろう。
その軍が南下して来た場合、孫権率いる軍では、撃退は難しい。
赤壁で活躍した将も兵も、その中心となった周瑜と共に敵軍にあるのだから。
その上、孫権軍が混乱する中で、周瑜によって孫権勢力に埋め込まれたであろう種が芽を吹くだろう。
>>私は、劉備を呉に留め、宮殿を建て美女をあてがおうと考えていた。
呉に留めた劉備は、はたして大人しくしているであろうか?
いや、あの信頼できぬ男は、攻め込む 周瑜に呼応して、孫権軍の背後で兵を挙げるに違いない。
アレを虎狼の如き男と見たのは、お前だけではない。
呉に留め置くなどもっての他である。
「公瑾(周瑜)、お前のやろうと思っていた計画は、大耳公(劉備)にやってもらうことにしよう。」
魯粛は、ひとりごちる。
荊州北部を与えても、劉備であれば、益州を合わせるのが精一杯であろう。
公瑾が、軍を率いた場合に引き抜かれる者ども・・我が東呉の将兵は、揚州にとどまるのだから。
領袖となる劉備は、所詮、虎狼でしかない。
諸葛瑾の弟が軍師として就いたというが・・・。
まぁ、南部の地を治める様子を見れば、民を撫治する能力は高いのであろう。
だが、私の見るところ政治的な力は、兄の諸葛瑾に及ばぬ。
そして、果断さも、周瑜に比して格段に劣る。
何事も考え抜かねばならぬ性なのであろう。
彼の指揮する軍では、リスクの高い作戦を即断できず、無難な策に落ち着きそうだ。
兵を率いて何事かを成すことはできぬであろう。
ましてや、関羽・張飛のごとき将を手足のように動かすなど、夢物語というべきだ。
天下を切り分けて、劉備の勢力に一部を与えておけばよい。
「天下2分の計・・・いや、3分の計というべきか。」
魯粛は、手紙の中で周瑜が語った策略を思いながら懐に手を入れる。
そこから取り出したのは、小さな瓶。
江夏郡の山奥で手に入れた薬の素材であった。
>>子敬(魯粛)から貰った薬で、矢傷は癒えたものの、患った肺病がこの体を蝕んでいる。
コウモリの羽根を切り刻み水に漬けた瓶の中のソレは、矢傷の薬などではない。
肺病に似た症状を引き起こす毒薬である。
「公瑾(周瑜)よ。東呉の孫家にとって、最も危険な虎狼の如き男は、処分しておいた。安心して眠れ。」
魯粛は、毒薬を瓶ごと目の前の焚火の中に放り込むと、周瑜の手紙にもう一度 目をやった。
そのまま、目の前の炎に投げいれる。
ボッという音とともに、手紙は、赤く燃え上がった。
そうして、焚火が、パチリという小さな音をたてたその時には、すでに魯粛の姿はそこになく、ただ白い煙だけが天高く流れゆくのであった。
んー。この形態で話を書くのは、思ったより時間がかかりました。難しい。




