感情の無い男
二輪 火月。
三十歳独身。
特徴は、無関心。
美術館に行っても、映画館に行っても、友人が死んでも、彼の表情に変化はない。
「そうか」
その一言で、全てを終わらせてしまう。
そんな男。
「お前ってホント何にも無関心つか、無頓着つか、空っぽだよな」
「心無いんじゃねお前」
「なんでいっつも無表情なんだよ。ロボットか何かかよ」
そんな言葉を投げかけられるようになったのは、高校を卒業するほんの少し前からだった。
それまでの火月は、とても感情豊かな青年だった。
美術館に行けば絵画に感動し、映画館に行けば熱く感想を語り、祖父母が亡くなれば干からびるのではと周囲が心配するほど泣いた。
彼が高校を卒業するほんの少し前に何があったのか。
唐突に起こった彼の変化は、周囲の人間を戸惑わせた。
しかし何が原因でそこまで無関心に、無感動に、無感情になってしまったのかは、本人しか知らなかった。
彼の母が、一体何があったんだと火月に問いつめた際、彼は一言だけ、こう答えた。
「鬼を飼ったんだ」
母は彼の言葉の意味を理解することは出来なかった。
彼の無関心で無感動で無関心な日々は、しかし唐突に終わりを迎える。
人格が百八十度逆を向いてしまったような変化が起こった彼にも、一人だけ親身になってくれる友人がいた。
小学生来の大親友にして幼馴染の、田喜 貞利という男だ。
貞利はある日、酷い暴行を受けた。
貞利を襲ったのは、在日中国人の若者の集団だそうだ。
命に別状こそなかった貞利は、事情聴取に来た警察に、襲われた時のことを話した。
火月と貞利が勤める会社の最寄り駅の裏手の駐車場の隅で、おそらく中国語を話している高校生くらいの集団が居て、彼らの一人と目が合った。そしてその後は問答無用で殴られ蹴られ、気付けば病院に居た、と言うのが彼の話した内容だった。
同じ会社に勤めていたため、彼が二か所ほど骨折し重体で入院したことは、すぐに火月の元へ知れた。
「そうか」
彼の反応は、しかし変わらない。
感想は一言だけだ。
彼に貞利の入院と事件の内容を伝えた同僚は、火月のあまりの無関心さに、怒りを通り越して呆れた。
「お前ら親友で幼馴染じゃなかったのかよ。なんだよそうかって。一言かよ……貞利が可哀そうだわ。友人だと思ってた相手が、こんな心の無いくそ野郎だなんてな」
そう吐き捨てて火月のもとを去った同僚に、火月は一瞥もくれない。
彼の指はパソコンのキーボードを叩き、目はディスプレイを注視している。
同じオフィスに居る者も、火月を驚きや呆れのこもった目線を向けた。
本当に心が無いんだと、信じた。
彼は静かに仕事をこなし続ける。
オフィスのコーヒーメーカーで淹れたカフェオレに手を付けず、タバコも火をつけて咥えただけで、吸い込みはしない。
静かで、静かで、静かで……
そんな彼にも、心はあった。
誰よりも感情豊かで、誰よりも他人に共感し、感情移入する彼の性分は、失われていない。
彼の心の中は、酷く騒がしい。
今も酷く枯れた、耳障りなほど高い声が、延々と騒いでいる。
「哀しいよぉ。哀しいよぉ。貞利は何も悪いこと、してないじゃんかよぉ。なんで殴られなきゃいけないんだよぉ。なんで入院するような怪我、負わされなきゃいけないんだよぉ。哀しいよぉ」
そう言って彼の心の隅っこで体育座りで蹲り、泣いているのは、青い鬼だ。
真ん丸な頭に、案山子のように細長い手足に、肩幅の広く腰の細い体をしたそれを、火月は哀鬼と名付けていた。
哀鬼はいつも心の隅で体育座りをしている。
哀鬼は悲しい出来事があると、こうやって哀しいと泣く。
火月の代わりに泣き叫ぶ。
高校卒業を目前に、クラスメイトとの別れをじわじわと実感し始めた火月は、泣いた。
しかし泣いてばかりもいられない。
でも泣かずにはいられない。
そんなダブルバインドが、哀鬼を生み出した。
火月の代わりに泣く、鬼だ。
「哀しいぃぃぃぃいいいいいいい! こんなの酷すぎるよ! あぁんまりだよおおおおおおおおおおおおお!」
哀鬼は体育座りのまま、顔だけを上に向けて、叫んだ。
真ん丸の顔にはハノ字の眉と雫が他の瞳と、ヘの字の大きな口があった。
眉間と下唇の下は皺が寄るほどひそめられている。
哀鬼の顔はいつもこうだ。
変わらない。
「貞利は、今も、痛くて、狭い病院の一室で、一人で居るんだ。毎朝オフィスで顔を合わせてた、俺や、同僚と、会えないんだ。哀しいよぉ。可哀そう。可哀そう。哀しいぃよぉ」
哀鬼は火月の心の隅っこに居る。
心の中の声は、外には聞こえない。
火月は哀鬼に泣いてもらい、火月自身は仕事を続けている。
それが周りにどう見られていようと、火月は気にしなかった。
仕事を終え、火月は帰路につく。
貞利と同じ地区に住む火月は、帰宅に使う駅や電車も貞利と同じだ。
彼が暴行を受けた駅裏の駐車場が、ふと気になった。
だがわざわざ見に行くことはしない。
火月はこれから帰宅するのではなく、貞利の見舞いに行くのだ。
いつもとは違う電車に乗り、彼が入院している大学付属の病院へ向かう。
病院へ見舞いに行くことは事前に伝えてあり、電車を降りて五分ほど歩けば、大学附属病院に入ることが出来た。
スムーズに受付を済ませ、面会が出来る時間ギリギリに、彼は貞利の病室へ入る。
「貞利」
「火月! 来てくれたのか!」
「病院では静かにした方がいいよ」
ベッドの上で上体を起こしていた貞利は、火月を見て破顔する。
対する火月は相変わらずの無表情だ。
抑揚のない声で窘めれば、貞利はポリポリと頬を掻きながら、
「それ映画やドラマだと、入院してる人の方が言うセリフだよね」
と言って苦笑いした。
「そうかもしれないね」
火月と言えば、言うまでもなく無表情だ。
骨折した二か所は腕と足。それぞれギプスを付けてはいるが、病気を患っているわけでもなく元気そうに見える。
笑顔で火月となんでもない話をし、火月が事件について聞けば、警察に言ったのと同じ内容を、テキパキと話してくれる。
貞利は元気そうだ。
怪我が治れば今まで通りになるだろう。
そう思った火月は、しかし顔にも行動にもその思考は現れない。
静かに貞利の言葉を聞いて、会社の仕事の進捗を軽く伝え、最後に、お大事に、と一言言って病室を後にする。
「相変わらず静かだね、火月は」
そんな言葉を背中に浴びて、火月はそのまま病院を後にした。
静かなのは表面だけだ。
彼の心は今も騒がしい。
彼の心の中全部で、橙色の鬼が踊っているのだ。
「よかったよかったわーいわい! 貞利元気だわーいわい! 会えてよかった話せてよかったわーいわい!」
調子はずれな声色でふざけたテンションの鬼を、火月は喜鬼と名付けていた。
喜鬼は橙色をした鬼で、体格は哀鬼と同じ。
嬉し気な三日月のような上凸の眉と、頬が裂けたような大きな下凸の口に、皺が寄るほど細められた目。
喜鬼はわーいわいと小躍りし、貞利と会って話せたことと、貞利が思っていたより元気そうなことを喜んでいる。
心の隅っこで体育座りしていた哀鬼は、喜鬼のテンションが気に入らないのか、うっすらと頭を上げて、悲しげな声で話し出す。
「でも、貞利の退院は、一か月後だよ。寂しいよ」
喜鬼はと言えば、踊りながら哀鬼の方を振り返り、嬉し気で耳障りなだみ声で反論する。
「でもでも! 思ってたより元気そうだし、きっとすぐよくなるよ。若い子は二週間で骨折が治ったりするしさ! それに、一か月なんて大して長くないよ!」
鬼たちが心の中で何を言っていようが、火月に変化はない。
火月はそのまま電車に乗り、家に帰り、明日の仕事に備えることにした。
次の日の朝、火月は家から駅までの道のりを、スマホに繋いだイヤホンを耳に当てながら歩いていた。
これは貞利の提案だった。
SNSで、暇な時間があったら通話しない? 入院してると暇なんだ。というメッセージが届き、火月はそれを承諾したのだ。
「でさ、大学附属病院なだけあって、学生が先生や教師の人と病室に入ってきて、カルテの書き方とか、チェッカー? 見たいなやつの書き方とか、患者との接し方とか教えてるんだよ。僕の病室には来なかったけど、隣の病室ですごく大変そうだったんだ。隣に入院してるのはお爺さんなんだけど気難しいらしくて、生徒が病室に入って来た時点で怒鳴ってたよ。それで血圧上がって意識を失って大騒ぎさ」
「そうか」
「その後ずっとドタバタするのかと思ったら、十五分くらいで収まったんだ。多分慣れてるんだろうね」
「そうか」
火月は、そうか、以外の返事も、語るべき話も持っていない。
それをわかっている貞利は、入院した後の出来事を面白おかしく語って聞かせていた。
ただ話すだけも楽しいのか、貞利は決して火月の反応の悪さに気を悪くした様子は無かった。
火月も、というか火月の心の中も、楽しそうに騒いでいた。
「ギャハハハハハハ! 貞利の病室スルーされてやがんのクッソウケる! ただの骨折や打撲には興味ないってかぁ!? ギャハハハ! 貞利かわいそー! つか隣のジジイもヤベェな? 学生が入って来ただけでブチギれて怒鳴るとか、短気にもほどがあんだろ! しかもそれで血圧上がってぶっ倒れるとか! 馬鹿じゃん! アヒャヒャヒャヒャヒャ!」
火月の心の床で腹を抱え、そんな馬鹿笑いをしているのは、黄色い鬼だ。
火月はその鬼を楽鬼と名付けていた。
愉しいことがあると、楽鬼は大笑いして転げまわる。
感想を言って、大爆笑し、落ち着くまで止まらない。
楽鬼は火月が電車に乗り、貞利との通話が終わるまで笑い続けた。
彼の心がどんなに騒がしくとも、彼の態度に変化はない。
故に周りの人間は、彼がどんなに感受性豊かで感情の起伏が激しいか知らない。
彼がどんな気持ちで生きているのか理解できない。
共感されることは無い。
いつも通り表面上静かに仕事を終えた火月は、帰路に就く。
貞利と通話しながらの帰り道になるため、今日は見舞いには行かないことにした。
いつも通りの帰り道で、いつも通りの最寄り駅へと足を運ぶ。
駅裏の駐車場が、また気になった。
わざわざ見に行く必要も無い。
そう思った火月の耳に、かすかに、声が届いた。
何を言っているのかは聞き取れなかった。
しかし、日本語ではないとわかる。
イントネーションが日本語とは全く違うと感じたのだ。
「ぁ」
感嘆に近いそれは、随分と久しぶりに発された。
無意識に足が駅の入口からそれた。
そっと、そっと、静かに、駐車場へと向かって行く。
いつの間にか革靴を脱いでいた。
右足と一緒に右手が前に出る。
左も同様に出る。
駐車場入り口のすぐ近くに留まる大きなバンの影にそっとしゃがみこみ、声のする方向に目をやった。
学生と思しき男数人が輪になって、何かを話している。
何を言っているのかはわからない。
タバコの煙ばかりが舞い上がっては消えていく。
中国語と思しき彼らの言葉だけが駐車場の中を静かに反響する。
火月は静かに彼らを観察した。
静かに、静かに、物音一つたてぬように。
静かなのは、表面だけだ。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っクソガキがあああああああああああああああああああああああああああああ! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! ブチ殺してやりてええええええええええええええええええええええええええええええええ! グッちゃぐっちゃになるまで殴って、蹴って、潰してぇ! 刺して、刺して刺して刺して刺して! 親族もろとも……みぃなぁごぉろぉしぃにしてやりてぇっ! クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」
彼の心の中心で叫び怒鳴り呪いを吐き続けるのは、怒鬼だ。
真っ赤な体に、真ん丸な頭には二本の角がズンと生えている。
顔にはそれこそ鬼と呼ぶにふさわしいような、釣り上がった眉と、真円のように見開かれた目と、四角く食いしばった大きな口があった。
そして青筋のように太い筋が何か所もある。
いつもふてくされたようにしゃがみこんでいるこれには、怒鬼と名付けていた。
火月が怒りを覚えるような出来事に遭遇するたび、怒鬼はこうして怒り狂って怒鳴り散らす。
行き過ぎた怒りを喚き散らす。
今回の怒鬼はいつにも増して苛烈だ。
相手は親友にして幼馴染を不当に痛めつけ入院させたクソガキなのだ。
怒鬼はもう怒りを抱えていない。
怒りは殺意に変わり、怒鬼はそれを抱えようと必死だった。
だが、怒鬼がどんなに怒り狂おうと、火月には……
否。
「おい、クソガキ」
「ーー?」
火月の鬼は、火月の喜怒哀楽を担っている。
喜びは喜鬼。
怒りは怒鬼。
哀しみは哀鬼。
楽しみは楽鬼。
しかし、殺意は、誰にも担われていない。
怒鬼が抱えられるのは怒りだけだ。
「この……この……」
「ーーーーーーー」
耳障りだった。
このガキ共が何を言っているのかわからない。
わかりはしないが、腹が立つ。
無表情なんてものは、実は存在しない。
表情筋は動かさなくても、顔には感情が反映される。
火月の顔を見た中国人の少年たちは、その感情を、無表情から読み取った。
読み取ってしまった。
「ーーーー!」
「この糞餓鬼どもが! ブッ殺してやる! 殴って蹴って潰して刺して抉って、貞利の味わった痛みと恐怖を、お前らにも味合わせてやる!」
火月は視界が赤く染まっていくのを感じた。
自分自身と心の中の怒気の境界線が曖昧になるような、取り返しのつかない向こう側へ、無意識に向かっているような、そんな感覚だった。
火月の心の中心で、怒鬼がひょろ長い腕を薙いだ。
火月の手が、薙いだ。
一人の両目がつぶれ、小さく血が舞った。
火月の心の中心で、怒鬼が足を振った。
火月の足が、一人の股間を潰した。
声にならない悲鳴に、火月の殺意は煽られ膨れ、臨界点すら突破する。
火月の心の中心で怒鬼が舞う。
火月の体がそれに引っ張られ、心理的限界を超え、筋肉と骨が軋むほどの膂力を発揮し、学生たちを破壊する。
目を潰し、鼻を折り、舌を抜き、顎を砕き、腕を折り、内臓を破裂させ、股間を潰し、指を千切る。
鬼すら恐れるような所業を、怒鬼が
火月が
鬼が
人が
無表情で
殺意の目で
酷く
凄惨に
鮮血と
吐瀉物と
悲鳴と
涙と
恐怖と
振り切れた感情の元に
延々と
気付けば、日は傾いていた。
自分の周囲に広がる、人がやったとは思えない凄惨な所業の痕を見た火月。
その表情は相変わらず無表情だ。
鬼たちは心の中のそれぞれの場所で佇んでいる。
「静かだ」
火月は澄み切った青空のような、そんな感覚を味わった。
自分の周りも、心の中も、こんなに静かだったことは、今まであっただろうか?
次第に静かさは薄れていく。
駅を電車が通り過ぎれば、電車が走る音が駐車場に響いた。
夕日が走る電車の窓に反射し、チラチラと火月の顔を照らす。
ふと足元に、今しがた*した学生の手帳が落ちていることに気付く。
「……っ。これ、は」
名前は漢字で書かれていて、国籍はやはり中国だ。
問題は、それが学生手帳であること。
学校の名前は、貞利の入院している病院の付属校であること。
「さ、貞利が、あ、危ない!」
火月の顔は、無表情を忘れたかのように、皺をよせ、口角を下げ、心配そうに瞳が揺らぐ。
火月が今感じているのは、貞利が危ないのではないかと言う心配。
もっと言えば、恐怖だ。
恐怖を担う鬼はいない。
四人の鬼どもは今も静かにたたずむばかり。
今までも恐怖を感じることはあった。
その時は、どの鬼が騒いでいた?
思い出せない。
「あ、ああ!」
火月は即座に貞則に電話をかける。
震える手で耳に電話を当てれば、数コールの後貞利の声がした。
「もしもし?」
「貞利!」
「おわぁびっくりした、いきなりどう」
「中国人!」
「ちょ、いきなり」
「中国人の学生に、病院で会ったか!?」
「えぇ……わからないよ。今日は医学部か薬学部の学生さんが何人か来たけど、中国人かどうかはわからないかな。あぁでも、お昼ごはんの時にひとり来たかな。顔立ちからたぶん中国人とか韓国人だと思うよ」
「何をされた!?」
「何も? 病院のまっずいお昼ごはんを持って来てくれたくらいだけど」
「……そうか」
静かにそう言い、まだ何か言っている電話を切る。
とりあえず現在の安否は確認できたことにホッとする火月だったが、心の中の鬼たちの言葉は、火月が得た安心感を吹き飛ばすようなものだった。
「お昼ごはんを持って来てくれたっつうことはよ。毒、盛られてんじゃね?」
「このクソ餓鬼どもの目撃者である貞利には、死んでもらわないと困るもんね」
「医学部とか薬学部の学生なら、持ってきた昼めしに毒を入れるくらいは出来るだろうしな」
「……そんな、あ、あぁ……」
火月は嗚咽に近い声を漏らし、走り出した。
貞利が入院している大学付属病院へ向かうのだ。
駅には入らず、ロータリーに止まっているタクシーに駆け込み、病院名を告げる。
「急いでください!」
たった一言。
切羽詰まった声色。
病院へ向かうように言う、血を浴びたサラリーマンを乗せれば、タクシーの運転手は何らかの事情を察したのか、一つ頷いてエンジンをうならせる。
「任せてください」
ルームミラーで火月を一瞥した、白髪交じりの運転手は、力強くアクセルを踏み込んだ。
「貞利!」
病室に駆け込んできた火月は、心配を声色に乗せて大声で貞利を呼ぶ。
するとびっくりした顔の貞利は、しかし小さく笑った。
「火月、病院では静かにしないと」
「……ぁ、ああ……よかった」
「どうしたんだよ、そんな恰好してさ。血まみれじゃん。僕より重傷なんじゃないの?」
「これは返り血だからいいんだ」
「返り……血って……火月」
さぁっと青ざめる貞利を見た火月の心の中では、喜鬼が騒ぎ立てていた。
「貞利が無事でよかった! ほんとよかった! あぁ、よかったあああああ!」
すると、貞利は怒鳴った。
「何がいいもんか! なにしたんだ火月! 何をした!?」
「え……」
困惑する火月に貞利は問い詰めとうと、ずいとベッドの上でこちらに寄って来る。
しかし、パタリと倒れ込んだ。
「貞利!?」
「あ……れ?」
貞利の顔色は悪い。
悪すぎる。
肌は灰色と言えそうな程に変色し、よく見れば目元には黒ずみ、皺が寄っている。
「貞利!? 貞利!」
「か……づ、き」
貞利はみるみるうちに弱り、看護師や医師が駆けつけるも、すぐに心肺停止し、無くなった。
哀鬼が大声で泣いた。
火月も泣いた。
哀鬼ですら抱えきれない哀しみは、火月にも容赦なく牙をむき、泣いて、泣いて、泣いて泣いて……
ふと、涙が止まった。
嗚咽も止まった。
無表情に戻った火月は、大学附属病院の中を進み、教室棟へと入る。
そして手近に居た教師と思しき男性に掴みかかった。
「こいつらと仲のいい中国人の学生はいるか」
そう言って火月は、駅裏の駐車場で殺害した学生の手帳を全て見せた。
「な、なんだ君は!? それをどうして持っているんだ!?」
「いいから答えろボケカスが! さも無きゃブチ殺すぞクソジジイ!」
その言葉は怒鬼のものか、火月のものか、火月自身にはもうわからなかった。
火月の余りの剣幕に、教師の男は失禁しながら答えた。
「は、ハオラン。ハオランと言う学生が、その手帳の子たちと仲が良かった」
「今どこに居る?」
「い、今は実習が終わった頃だ。お、おそらくこれからこの塔を出て、帰るはず、だ」
聞くべきことを聞いた火月は教師の男を放し、大学附属病院の学生用の出入り口へと向かった。
そしてそこを通る学生に
「お前がハオランか?」
と聞いて回る。
そして、見つけた。
顔立ちも中国人ポイその青年は、火月を見て、ハオランか? と問われ、逃げ出した。
「にげんなコラ!」
怒鬼の命じるまま体を動かせば、三十歳のサラリーマンとは思えない速度で疾走することが出来た。
そしてこの辺りの地理をなんとなくしか知らない火月の代わりに、怒鬼が心の中で指示を出す。
「そこを左に誘導しろ」
右側に回って追えば、ハオランは左に曲がった。
「次は右だ」
左側から手を突き出して捕まえるそぶりを見せれば、ハオランは思惑通り右に折れる。
そうやって怒鬼の命ずるままにハオランを追い立てれば、袋小路へとハオランを追い詰めていた。
建設現場が近く、周囲には騒音が鳴り響き、この袋小路は外からの見通しが非常に悪い。
持って来いの場所だった。
「な、なにアナタ? 私、ナニヨウ?」
わかり切ったことを問うハオランは、袋小路の最奥を背に、火月へと向き直る。
よく見ればガタイがいい。
胸板は厚く、手足は太く引き締まっている。
だが彼の表情は恐怖に塗りつぶされていた。
喜鬼が両手を突きあげ、叫んだ。
「やった! やったよ! 貞利を殺したやつに追いついた! これで殺せる! 敵が討てるよ!」
怒鬼がしゃがむのをやめ、スッと立ち上がり、吠えた。
「ぶっ殺してやる! むごたらしく殺してやる! お前は俺の怒りを、恨みを、殺意を買った! もう止まれない。この殺意は止められねぇ!」
哀鬼が一層小さく縮こまり、泣いた。
「哀しいよぉ。貞利が死んじゃったよぉお。あぁ、ああ、ああああああああああはああああああああああああああああああああああああああ!」
楽鬼が元気に飛び上がり、笑った。
「ギャハハハハハハハハハハ! あぁ楽しい。殺したい奴を殺す瞬間って最っ高! 愉しい楽しい楽しい楽しいタノシイタノシイィイ! アハ、ギャハ、ギャーッハッハッハッハッハッハハハァ!」
それは火月なのか、あるいは鬼どもなのか。
火月は両手を突きあげて喜び、すぐ横の壁に拳を叩きつけて怒り、顔を手で覆って泣き、両手を広げ空を仰ぎ見て笑う。
心の中の鬼の叫びは、火月の口を突いて歓声になり、怒鳴り声になり、悲鳴になり、狂笑となる。
火月の無関心で無感動な人格は、そこには見えない。
ファンファーレとクラッカーと紙吹雪にオーケストラとヘビーメタルが爆音で響き渡る。
強すぎる喜怒哀楽の四つと、そしてその四つを狂わせる溶岩のような殺意が、火月の体の中を渦巻き操っている。
「何、イッテる……あ、あ」
ハオランは火月の異常性をまざまざと見せつけられ、正体不明の恐怖を注がれ、瞳から涙を零れさせる。
見下す火月の目は、黄色く赤く青く橙で、冷たく熱く煮えたぎり凍り付いていた。
膝から崩れ落ちるように蹲ったハオランは、そのまま膝をたたみ三つ指を付く。
「ご、メンなさイ」
土下座したハオランを前に、火月は跳んだ。
一メートル以上高く飛び上がった火月は、そのままの姿勢で落ちていく。
土下座をするハオランの、背中の上へ。
「ィヤッッッタアアアアアアア!」
「ッおぐぅ」
火月の右足がI字バランスのように持ち上げられ、勢い良く振り下ろされる。
土下座のまま踏みつけられた、ハオランの後頭部へ。
「ふっざけんな! 謝ったくらいで許されるとか思ってんじゃねぇぞクソ餓鬼がぁっ!」
「グブッ」
火月はハオランの背中から降りると、今しがた踏みつけたハオランの後頭部の髪を掴み上げ、顔を上げさせ、鼻が潰れ、前歯の折れた酷い顔を覗き込む。
そして
「もう会えないよぉ! 貞利には、もう会えないんだよぉ! 会いたいのに。僕の唯一の友達だったのに!」
もう一度アスファルトへ、ハオランの顔面を叩きつける。
グシャリと地面に広がる赤を見た火月は、笑った。
「アハ、アハハハハハハハハ!」
笑って。
「アヒャヒャヒャヒャヒャァア!」
笑って。
「ぎゃはははははははははははははははは!」
笑って。
「あぁぁぁぁぁぁあああああああああっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはははははぁ!」
笑いながら、何度もハオランの顔を地面へと叩きつける。
アスファルトがへこむほどの力で、ハオランの顔をすり潰す。
ハオランが悲鳴も上げられなくなるまで、狂笑と共に暴虐が続いた。
火月はハオランの髪の毛を掴んだまま持ち上げると、彼の顔を覗き込んだ。
赤い。
皮膚はもうほとんど残っていない。
目は潰れ、鼻の付け根から骨が飛び出し、丸出しの歯茎には歯のかけらがちらほらと見える。
「あぁ、死んだ」
つまらない本を読み、つまらなかったと感想を漏らす。
そんな感じで、火月はそう呟いていた。
火月を突き動かし続けていた鬼は、もう騒いでいない。
また静かに心の中で、それぞれ佇んでいる。
どの鬼も動かないということは、今火月は喜怒哀楽のいずれも感じていないということ……
ではない。
「……な、な、うわぁあああああ!」
火月は今しがた自分が作り出した惨状と、ハオランの酷い顔を見て、怯えた。
「なんで、俺、僕、こんなこと……なんでなんで!? どうしてだ! 殺人じゃないか! それも、一人じゃない! 何人も、殺した。この手で!」
無関心も無感情も、仮初なのだ。
喜怒哀楽以外に感情が無いわけではないのだ。
高校卒業から今日まで貫いてきた、どこまでも静かな火月は、今はいない。
自分がしでかした重罪に怯える、ただの青年だ。
恐怖と言う感情を、ようやく手に入れた、二輪火月というただの男。
彼はこの重罪の責を、背負うだけの心の強さなど持ち合わせていなかった。
喜怒哀楽と言う四大感情を、鬼に担わせ続けてきた、精神的弱者。
それが火月だ。
彼は、彼の体を動かしてきた鬼どもへ意識を向ける。
「お前ら! 俺の体でなんてことを! 僕はこんなことしたくなかったんだ!」
黄色も赤も青も橙も、そんな火月に、呆れたような目を向けた。
「なぁに言ってんのさ」
「お前が望んだんだろうが」
「酷いよ。僕らのせいにするなんて」
「アヒャヒャヒャヒャヒャ。お前馬っ鹿だな~」
恐怖から、罪悪感から、取り返しのつかないという酷く醜い感情から逃げたいだけの火月は、彼らの反応に耐えられない。
人殺しの罪を、彼らに押し付けたくて、仕方がない。
「何笑ってるんだ。何呆れてるんだ。お前らがやったんだろ!? なんでそんな」
しかしそんな火月に、鬼どもは冷徹だ。
いや、優しいのか。
ちょっと考えればわかるような、というか火月自身も頭のどこかでは理解しているはずの、簡単な事実を述べる。
「だぁかぁらぁ」
「黙って聞けやクズ」
「なんでもくそもない」
「俺たちはなぁ、クフフ」
「「「「お前なんだよ」」」」
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」
逃れることは許されない。
「ああ、あぁぁああ、ぁああああああああああああぁ」
誰かに押し付けることは出来ない。
「あああああああああああああああああああああ! アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
それは、二輪火月が自分の意思でやった、殺人なのだ。
「怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い」
殺人を犯したことを知られれば、火月の人生は終わりだ。
「いやだいやだいやだいやだいやだ」
両親にはとんでもない親不孝者と罵られ、会社からは解雇され、元から低い火月の好感度は、取り返しのつかないレベルで下降する。
「無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理」
ニュースに取り上げられ、刑務所に入り、極刑なり終身刑なりを受けることになるだろう。
終わりだ。
もう火月の人生は詰んでいる。
「どう知ればいいか、知りたいか?」
そう問いかけたのは、どの鬼だろうか。
そんなことを考えている余裕は、火月には無い。
藁にもすがる思いで、火月は頷いた。
「どうすればいい!? どうすれば、僕は助かる?」
「わかってんだろ?」
「でも言われなきゃ理解できないんでしょ?」
「お前自身がわかっていることを、僕らがちゃんと理解させてあげる」
「感謝しな」
鬼どもは口々にそう言い、火月を焦らす。
どうしようもなく追い詰められている火月にとって、その焦らしは殺人的なまでに突き刺さる。
「色々やんなきゃならないけど、まずはそのこんがらがってる頭を何とかしないとな」
「ど、どうやって!?」
「鬼を増やせ」
「増やせって、どうやって!?」
「忘れたのか? 十八歳の時にやっただろ?」
「抱えきれない感情を、切り離して、色付けて、丸い頭にでかい体を貼り付けて、名前を付ける」
「それだけさ」
「ど、どんな鬼を作ればいいんだよ!?」
「怖いんだろ? 耐えられないほど怖いからそんなに取り乱してんだろ?」
「じゃあ決まってるじゃん」
「恐怖の感情の鬼。恐鬼を作れ。恐怖の感情を、お前の代わりに抱えさせろ」
「そうすればぁ。お前自身は恐怖を感じなくなるから、落ち着いていろいろ考えられるようになるでしょー?」
「じゃあまずそこから始めようか」
田喜貞利の死因は、昼食に入れられていた毒物であることが判明した。
それを聞いた二輪火月は、今日も無表情のまま、無関心に、パソコンの前に座ってキーボードを叩く。
「あいつさ、親友で幼馴染が死んだって言うのに、何にも変わんないのな」
「友達とも思ってなかったってことだろ。あんなに仲良くしてくれてたやつをさ。しかも幼馴染だぜ? そいつが死んだってのに、あの態度はヤバいわ。人格とか心とか、そう言うのがマジで無いんだろう」
オフィスの中は、火月と貞利の噂や陰口がしばらく続いたが、火月は周りがどんなに火月を否定し蔑んでも、何も気に留めた様子が無い。
同僚たちもいい加減火月についてあれこれ言うのを辞めるようになるのに、そう時間はかからなかった。
何を言っても、どうせ何も変わらないからだ。
火月が本当に感情を失いながら生きていることを、知らないのだ。
火月の中の、何体かの鬼たちがどんなに騒いでいるか、知る由も無いのだから。
オフィスの端に置かれている小さなテレビには、中国からの留学生七人の殺害事件について報じられている。
犯人はまだ特定できていないそうだ。
地味で静かな奴ほど怒ると怖い、なんてよく言いますよね。
でも作者は実際にそう言う人が起こったところを見たことが無いんです。
なのでこれは全て想像の産物で、完全なフィクションです。
中国人が嫌いとか、ヘイトを向けたいとか、そう言うことはないです。
あしからず。