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貧乏神とハンスの話  作者: adalwolf
3/3

死神編


 橋の下に、ハンスがいました。


 冷たい風が横から吹き抜ける湿った土の上に、ハンスはいました。


 眠たくて横になっているようにも見えましたが、その目は開いていました。


 時々息を吸ったり吐いたりしているだけで、この場所にやってきた時よりもずっと痩せ細ってしまった体をピクリとも動かしていません。両目はレンガ造りの橋げたを向いていますが、べつにそこを見ているというわけでもありません。


 もう何時間、何日そうしていたのか、ハンスにも分かりません。


 手にした指輪から伝わってきた貧乏神の、リエールの想いに涙を流したのが昨日のことのようにも思えましたし、遠い昔のようにも感じられました。


 泣いて泣いて泣き腫らしたハンスでしたが、今はもう乾ききってしまったのでしょう。涙の一滴もありません。枯れ木みたいになってしまった顔は、もう泣き顔にさえなりませんでした。


 あ~あ。せっかく助けられた命だってのに。


 いつの間にかそこにいた死神が言いました。ハンスの背中側から前の方に回ってきて、しゃがみ込んで覗き込んできました。


 無駄にしちまったなぁ。


 ハンスの目だけが死神に向きます。


 伝わってたんだろ? あいつの気持ちが。


 ハンスが答えないので死神は一方的に話を続けました。


 いくらでも人を恨める死に方をしていながら、いくらでも人を不幸にできる力を持っていながら、その力で人助けをしようなんて考えた奴はあたしだって初めてだったんだぜ? そりゃあお前さんは財産の全部を失っちまって、金持ちから文無しの貧乏人へ真っ逆様だ。不幸を呪いたくなるのも分かる。


 けどよ? おかげさまで町の連中に一晩中追いかけ回されてぼろきれみたいにされるような死に方は避けられたんだ。絶対的にゃ不幸かもしれねぇが、それでもあんな最期よかマシだろ? それをなんだいお前は。救われた命をほったらかしにして結局死んじまうってのか? まさかと思うがつまらない逆恨みでもしてるのか?


 そもそもあの惨めな死に方はお前の自業自得だろうに。積み上げた業の深さを考えりゃ、あの貧乏神がどれだけ救済を願おうが結局は不幸になるしかなかったのさ。ちなみに町の連中はもうお前のことを憎んだりはしてないぜ? 見事なまでの転落っぷりに心の底から『ざまぁみろ』とせせら笑って気が済んだらしい。あの貧乏神のおかげだな。その指輪越しに〝見た〟んだろう? お前の、本来の悲惨な死に方をよ。感謝しとけよ?


 まっ、その人生も今日で終わりさ。お前は今日死ぬんだ。ようやっとな。とっくに死んでるも同然だったが、肉体が死なないと死神の仕事は始まらねぇんだ。ったく、あの貧乏神ほどじゃないにしても手間取らせやがって。


 死神がそう言った瞬間、もうそんな力なんてあるはずもないハンスはいつの間にか立ち上がっていました。さっきまで横たわっていた橋の下の寒々しい景色は消えて、もっと暗い、もっと何もない真っ黒な空間の中に死神と二人でいました。


 控えめに驚いているハンスに、死神が笑いながら言います。


 おう、ちょうど死んだな。さて、本来なら天国が地獄かを決めて死後の世界に旅立ってもらうんだが、お前の場合すでに地獄行きが確定してるんだ。まあ業が業だからな。地獄は辛いぜぇ? しかも罪を悔やむための旅路もない。滝の水みたいに一息に落ちるんだ。その先にあるのは業火? 毒蛇? それとも腹を空かせたワニかな? 楽しみだなぁ。


 けどまあそんなお前にも慈悲をくれてやらんでもない。こう見えても神の端くれだからなぁ。地獄へ行く奴への、死神の最後の仕事さ。


 どんな慈悲かって? 素晴らしい慈悲さ。


 お前の望む誰か一人を一緒に地獄に落としてやるのさ。辛い日々も誰かと一緒なら少しはマシってモンだろう?


 言っとくが生きてる人間は無理だぞ? 死神の力は死者にしか及ばねぇんだ。


 お前が地獄で苦しむ間、天国でのうのうと暮らしていける魂を一人、地獄への道連れにできるって話だ。相手の同意なんていらねぇ。強制召喚だ。


 憎い誰かを引き摺り落とすもよし、愛しい誰かを慰みにするのもよし、お前の自由だ。


 呆けているようにも見えるハンスに、死神はどこかか嬉しそうな、何か期待しているような顔を見せました。まるで笑いだすのを我慢しているようです。


 長いこと黙っていたハンスが、とても久し振りに口を開きます。


 あの子は、


 その一言にますます笑いだそうとしている死神へと、ハンスは訊ねました。


 あの子は、僕を救ってくれた貧乏神は、天国にいるのか?


 そうさ。まだ向かってる途中だろうが、そういう奴らもちゃんと落とせるぜ?


 ……そうか。あの子は、天国に行くんだな……。


 お前なんかでさえ助けてやりたいと願う、それはそれはお優しい貧乏神様だからな。きっとお前のために地獄行きだって承知してくれるさ。


 だいぶ笑みが漏れ出してもうほとんど笑っているも同然の引きつった顔をする死神が言います。


 呼ぶか? あの貧乏神を。


 幽霊のように青い顔でうつむいていたハンスが顔を上げて、


 いいや。


 はっきりと首を横に振りながら、きっぱりと答えました。


 道連れは要らない。


 死神は、それはそれは驚いた顔をして聞き返します。


 いいのかい? 地獄の苦しみはすごいんだぜ? 正気なんてすぐになくなる。自分がどこの誰なのか、何の罰を受けているのかさえ分からなくなるほど苦しみ抜いて、ズタボロになってもすぐにまた痛めつけられる。そんなのが何千年って続くんだ。お前が味わった貧困だとか本来の死に方なんて生ぬるいと感じてしまうほどだ。そんな場所に一人で、


 そんな場所だから、なおさらあの子を連れて行くわけにはいかない。僕を、僕なんかの救済を願ってくれた優しい子を、地獄に落とすわけにはいかない。


 もう一度きっぱりと言いきったハンスが、しっかりとした目で死神に言います。


 地獄へは、僕一人で堕ちるよ。


 今度は死神が黙ってしまいました。さっきのハンスみたいにうつむいて、やがて顔を上げました。


 そうかい。後悔したって知らないよ。お前さんはもう宣言しちまったからな。


 ああ。


 ハンスは最後にもう一度指輪を胸に抱きました。


 おいおい、そいつは持っていけねぇって。


 分かってる。その光景も〝見えた〟から。


 呆れ気味の死神に、目をつぶっていたハンスは瞼を開きながら呟くように言います。


 そうか。あの子はリエールっていうのか。名前を知れただけで十分だ。あの子がいたことを覚えていられれば大丈夫だ。どんな地獄だって、指輪がなくたって、名前を呟くたびに優しさを思い出せる。


 ……そうかい。じゃあな。


 死神は持ち上げた大鎌をふっと笑ったハンスめがけて勢いよく振り下ろしました。



 橋の下に残された死神が、ついさっきまでそこにあった安らかな顔を思い出しながら大鎌を下ろしました。


 ……つまんねぇの。


 死神は静かに呟きました。鎌を肩に担いで、誰も聞いていないのに、誰にも聞こえないのに大声で繰り返します。


 つっまんねぇな! 引っかからねぇのかよ!


 実は、死神は一つだけハンスに黙っていたことがありました。


 地獄へ落ちる人間への死神の最後の仕事、それは死者に慈悲を与えることではありません。


 本当の仕事は、慈悲を与えるフリをして喜ばせておいて、本当はそんなものは存在しないと突きつけて、死ぬ前の最後の絶望を与えることでした。


 そうやって何度も死者を騙してきました。何度も死者を絶望させてきました。


 でもたまに、本当にたまにでしたが、さっきのハンスのように死の間際、最後の最後に優しさを見せる人が居ました。


 そして、死神はそんな人を見るのが大好きでした。『地獄へは一人で堕ちる』。ハンスにそう言われた死神がうつむいてしまったのは、嬉しくて仕方なくて、微笑んでしまった顔を見られるのが嫌だったからでした。



 橋の下に、今はもう誰もいません。ただ宝石のついた指輪が斜めに差し込む月明かりに小さな輝きを見せているだけでした。


 その指輪を死神は拾い上げて、軽く放り投げました。落ちてきたところに大鎌を振り上げて、指輪は真っ二つになって、地面に落ちる直前で消えてなくなりました。


 あっ。


 これ……。


 死んだ人達が同じ方向へと歩く行列の中で、真下に見える地獄の業火へ逆様に落ちる途中で、リエールとハンスは左手の指にはめられた指輪に気がつきました。橋の下でみた物を半分にしたような、知っているのとは少し違う形をしていましたが、二人にはそれがあの指輪であるとすぐに分かりました。伝わってくる感触から、それを誰が送ってきたのかも。


 ありがとう。


 まったく違う場所で、二人は同じように微笑みながら指輪に触れて、そしてそれぞれの道を進んでいきました。



 礼なんて言うなばぁ~か。


 目を閉じてその光景を見ていた死神が言いました。それから大鎌を軽々と両肩に担いで、


 次はどんな死人に出会うんだろうなぁ。


 その一歩目を踏み出した次の瞬間には、そこにはもう誰もいませんでした。


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