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貧乏神とハンスの話  作者: adalwolf
1/3

ハンス編

寝る前に思いついた話を書き殴っただけですので各クオリティに関してはあまり期待しないで下さい。


絵本のような文体を目指してみましたが、なんだか全然違う物になった気がします。


舞台設定としては中世ヨーロッパ辺りをイメージしております。


 決めた。


 ある日、橋の下で貧乏神の女の子は呟きました。


 わたし、あの人を貧乏にする。





 ある貴族の家にハンスという男の子が生まれました。


 彼の家は召し使いを何人も雇うような裕福な貴族の家系で、両親も一人息子を溺愛していたので、ハンスは生まれてからずっと欲しい物は何でも手に入る生活をしていました。


 贅沢な暮らしの中、ハンスは大人になりました。その頃にはもうハンスの両親は亡くなっていましたが、受け継いだ資産のおかげでハンスの暮らし振りは変わりませんでした。


 ハンスの屋敷は町から大きな河を隔てた少し離れた土地に建っていました。彼は屋敷のベランダからいつも町の様子を眺めていました。自分よりずっとみすぼらしい服を着て、自分が朝食で口に運ぶ物よりずっと固いパンを食べ、自分が眠る前に嗜む物よりずっと安いお酒を飲んでいる人々を眺めては、心の中でいつも見下して馬鹿にしていました。


 ある時のことです。番犬の間に生まれた仔犬と遊んでいたハンスに、とても意地悪な考えが浮かびました。今自分が持つ干し肉めがけて跳びついていくる仔犬達を見ながら、

 

 同じことをあの町の奴らでやったらどうなるだろう?


 そんなことを考えてしまったのでした。


 ハンスはさっそく執事に命令して馬車を用意させて町へと繰り出しました。河に架かる石造りの大きな橋を渡り、薄汚れていた服を着た子供達の集団の前で馬車を降りました。


ハンスは遊んでいた子供の一人を手招きしてお菓子をあげました。屋敷の料理人が作った焼き菓子で、町の貧しい子供達が一度も食べたことのないような、とても柔らかくて甘いお菓子です。


 受け取ったお菓子を一口齧った女の子は感動で目を輝かせていました。そして残りを一気に食べてハンスにお礼を言いました。


 その様子を見ていた子供達が一人また一人と集まってきました。女の子が美味しいお菓子を貰ったと言うと、みんな一斉にぼくもわたしもと騒ぎ始めました。


 ハンスは馬車の中のバスケットから同じお菓子を取り出して、次々に手を伸ばす子供達に、餌の入ったボウルを持っていった時の仔犬達の姿を思い浮かべながら手渡していきました。汚い手に触れるのが嫌だからと白い手袋をしていました。


 子供達は一人また一人とお菓子を受け取り、最初の女の子のように目を輝かせていきます。花の蕾が一斉に開いていくようでした。


 そんな子供達の数があと二人となったところでハンスは言いました。


 どうしよう? お菓子はあと一つしかないよ。キミ達のどちらかしか食べられないね。


 残りの二人の男の子達は互いに顔を見合わせました。そんな二人の前にハンスはお菓子を、本当はまだいくらか残っているうちの一つをチラつかせます。


 どうする? どっちが食べる?


 男の子達はどちらも自分が食べると言いました。お互いに怒った顔を向け合って、そっちが我慢しろうるさいお前が食べるなと怒鳴り合いを始めました。


 そのうち怒鳴り合いは掴み合いに変わりました。周りの子供達が止めようとしましたが、


 おまえたちはみんないっこたべたくせに!


 そう言われて引っ込みました。


 そうしているうちに掴み合いは殴り合いになりました。片方がもう片方の胸倉を掴んで地面に押し倒し、馬乗りになって殴りました。倒れた方はやり返せずに顔をかばっていました。


 すると殴られている方の男の子と仲の良かった別の男の子が殴っていた男の子に掴みかかりました。力いっぱいに引っぺがされて蹴り飛ばされました。


 蹴飛ばされた男の子がますます怒った顔をして、たまたま近くにいた、蹴飛ばした男の子の妹の頭を殴りました。女の子は泣きだしました。


 蹴飛ばした男の子がそれはそれは顔を真っ赤にして、足元に落ちていた石を拾って妹を殴った男の子に投げつけました。石は男の子のおでこに当たりました。当たった場所からは血が出て流れていきました。


 石を投げられた男の子はしばらく呆然としていて、すぐそばに落ちたほんの少しの血の付いた石ころを見つけて、我に返ってその石を投げ返しました。一個では気が晴れなかったので、辺りの石を見つけては投げつけました。


 先に石を投げた男の子の顔に石が飛んできて、男の子は両手で顔を覆いました。石は腕に当たりました。彼に当たった石はその一個だけで、残りは周りにいた子供達に当たりました。


 そこからは大騒ぎになりました。石を投げ返した男の子に飛びかかる男の子がいれば、顔に石を食らって血を流しながら泣き喚く女の子もいました。喧嘩する男の子達をどうにか止めようとして、振りかぶった腕の肘に鼻を潰されて怒り狂う子もいれば、他の子と震えながら抱き合って動けない子もいました。


 そんな乱闘騒ぎをハンスは静かに眺めていました。とても穏やかで、とても満足気な顔つきでしたが、心の中では目の前の騒ぎをせせら笑っていました。


 やがて心の中の笑いは顔へと出てきました。始めは声を押し殺していましたが、その内それも叶わなくなって大声を上げて笑いだしました。


 生まれてから今までで一番の笑い声を上げるハンスに、騒いでいた子供達はきょとんとして固まりました。殴りかけていた手を止めて、流れていた涙を止めて、狂ったように笑うハンスに目を向けました。


 ひとしきり笑い続けたハンスがオイルの切れたランプの様にすっと笑うのを止めて、手袋をした手を叩いてパンッ、といい音を立てました。馬車の方へと戻ってバスケットを手に子供に近づいて、


 ごめんよぅ。まだ残ってたよ。


 バスケットをひっくり返して、残っていたお菓子を地面に落としました。ボトボトと零れてくるたくさんのお菓子に子供達はますますきょとんとして、


 全部あげるから好きに食べていいよ?


 ハンスはそう言って馬車に戻りました。馬車はすぐに動き出し、後には土に汚れたお菓子と何が起こったのか分からないままの子供達だけが残されました。


 屋敷へと戻る馬車の中で、ハンスはまた声を上げて笑いました。


 『貧すれば鈍する』って、本当だったんだね! ウチの犬だってあんな奪い合いなんてしないのに!


 とても楽しそうに、とても満足そうに言ったハンスに、御者のおじさんは何か言いたそうにしながら何も言えずに手綱を捌いて馬車を屋敷への向かわせました。



 それから何日か経ったある日のことです。


 ハンスは屋敷に飾る花を届けに来た花屋のおばさんから、町にいる双子の姉妹の話を聞きました。


 年頃の二人はまるで貴族の娘のように美しく、そして仲の良い姉妹だそうです。双子なのでとてもよく似ていて二人の親でもたまに間違えてしまうほどなので、姉はまとめた髪を向かって右側に、妹は左側に垂らすようにしているそうです。


 話を聞いたハンスは綺麗な蝶々を見つけた子供のような顔をして町へと出かけました。


 町中の大通りで、ハンスは噂の姉妹の片割れを見つけて大急ぎで駆け寄りました。


 他の人よりいくらか裕福な家庭なのか、彼女は周りより綺麗な服やアクセサリーで着飾っていました。黄色いシュシュでまとめた髪を向かい合ったハンスから見て右側の胸に垂らしていました。


 ハンスは彼女の前で止まり、息も整わない内に話しかけました。


 曰く、以前町を散策中に貴女達姉妹を見かけた。


 曰く、その時妹である貴女に一目惚れをした。


 曰く、それからというもの貴女のことばかり考えていた。


 曰く、そしてとうとう今日、気持ちを押さえられなくなりこうして参上した。


 曰く、私の気持ちとしてひとまずこの宝石を受け取って欲しい。


 言い終えるとハンスは小さな箱の蓋を開いて中に入った大きな宝石を差し出しました。透明でカットされた面がキラキラと輝く宝石で、それはこの町の誰かが一生働き続けても手に入れられないような値段がつく物でした。


 女性はだいぶ驚いていましたが、少し考えた後答えました。


 曰く、貴族であるハンスに見初められたことを光栄に思います。


 曰く、私は姉ほど美しくはないが、それでも貴方のお気持ちに応えたいと思います。


 曰く、その証としてその宝石はありがたく頂戴し、大切にしたいと思います。


 女性はスカートの裾を両手で摘まんでお辞儀をしてからハンスに歩み寄り、宝石を受け取るため手を伸ばしました。


 その背中に声がかかります。


 姉さん、そちらにいたんですか。


 目を丸くした女性が大慌てで振り返りました。ハンスも不思議そうにそちらを覗き込みました。


 今し方話をした女性と瓜二つの女性がそこに居ました。


 顔つきも体つきも背丈も、服装や装飾までそっくりでした。たった一つ違いがあるとすれば、それは彼女の髪は彼女の右肩から垂れていることくらいでした。


 姉さん、そろそろ家の手伝いの時間ですよ? あら? そちらは?


 鏡写しのように二人は向き合いましたが、その顔色はどこまでも対照的でした。きょとんとしている妹と、顔を真っ赤にしている自称妹。ハンスははて? と小首を傾げていました。


 怒っているからなのか恥ずかしいからなのか顔を赤くする妹を名乗った姉と本物の妹に交互に目を向けたハンスは訊ねます。


 失礼ながら、貴女は?


 妹は答えます。


 この人の妹ですが?


 ハンスは目を見開き、慌てながらも務めて冷静に、している風を装って言います。


 これはとんだ失礼を。私はお姉様を貴女と間違えてしまったようです。非礼をお許し下さい。


 姉と違い、妹は笑って言いました。


 お気になさらないで下さい。両親ですらたまに間違えることもあるくらいですから。


 それでもハンスは謝罪を続けました。


 そうはいきません。私は貴女に会うために参ったのです。それを双子とはいえ人違いをするとは、お恥ずかしい限りです。


 とても丁寧な言い回しに、却って恐縮してしまった妹が気にしないようにと重ねて言いました。


 ハンスは姉の方を向いて言います。


 しかしお姉様もお人が悪い。ここまで似た姉妹を相手に、『自分が妹』などと申されては私のような純朴な若輩は簡単に騙されてしまいますよ。


 ビクッと震えた姉に、妹は少し不思議そうにしました。そしてハンスに訊ねます。


 ところで、私に会いに来たと言うことでしたが、いったいどういうご用向きで?


 ハンスは少し照れた様子を見せながらも、姉にしたのと同じ話をしました。


 妹は少し驚いた様子を見せながらも、姉がしたのとは違う反応を返しました。


 お気持ちは嬉しく光栄に思うのですが、出会ったばかりですし何より身分違いがありますので今すぐお返事と言うわけには……。


 そこまで言って、妹はハンスの手の宝石に気がつきました。


 妹の視線を察したハンスが誰にも悟られない程度に口角を上げて言います。


 ああ、これですか? 貴女への気持ちを伝えるために持参したのです。美しい貴女に似合いの品を選んできたつもりでしたが、無駄になってしまいましたね。


 妹の表情が変わりました。姉を向いて、さっきまでとはまるで違う口調で言います。


 姉さん! 宝石に目が眩んで私を名乗ったのですか!


 豹変した妹の声色に、姉も声を荒げました。


 うるさい! あんただって今目の色変えたじゃない!


 なんてことを! この方の私に対する気持ちを盗み取ろうとしたのは姉さんでしょう!


 彼は一目惚れをしたのが私だと思ったのよ! なら気持ちも宝石も私の物じゃない!


 我が姉ながらなんて浅ましいことを! そこまで欲深だとは思いませんでした!


 あんたこそ! 宝石見た途端話を呑もうとするなんてなんて卑しい女なの!


 女同士が口汚く罵り合う様に、何事かと周りの人達の視線が集まりました。そんな中、口喧嘩では収まらなくなった二人はとうとう取っ組み合いになりました。凄まじい形相で思いつく限りの罵詈雑言を至近距離で浴びせ合い、ついには姉の方が手を上げてしまいました。


 頬をはたいたつもりでしたが、その爪の先が妹の目の少し下の辺りを切ってしまったようでした。じりりと焼けつくような痛みとわずかに滲んだ血に指で触れた妹が、指先の赤い色にしばし唖然として、


 よくもやったわねこの阿婆擦れ!


 悪鬼の表情で姉を殴りました。平手打ちではなく握った拳を鼻に叩き込んでいました。


 思わず倒れた姉が痛む箇所に触れて、そして鼻の形が歪んでいることに気づきました。


 ……何てことしてくれんのよこの売女が! 


 先にやったのはあんたでしょうが! あたしの顔に傷をつけて!


 あんただって! この鼻どうしてくれんのよ!


 不細工なあんたに似合いの鼻になったじゃない!


 あんたはいつもそうね! 妹だからってぶりっ子で通してるつもりだろうけどお生憎様! あんたは顔も中身も不細工だってこと、私だけじゃなくてみんな知ってることよ!


 だったらなんで前の恋人はあんたからあたしになびいたのかしらねぇ!


 っ! あいつがいきなり別れ話切り出したの、まさか……。


 気づいてなかったの? 町を出たのもあたしがねだった指輪を買う金のために出稼ぎに出たのよ? あんたと違ってあたしには貢いでくれるみたいね!


 ……こんのクサレ女ぁ!


 ますますヒートアップしていく二人の争いに、見物人は或いは呆気にとられ、或いはいい気味だと言わんばかりの顔をしていました。


 そんな乱痴気騒ぎをまるで他人事のように眺めていたハンスでしたが、いつかのように堪えきれなくなって笑い声を漏らし始めました。誰にも気づかれなかった声はだんだん大きくなっていって、そしてとうとう爆発しました。


 見物客も髪を振り乱して殴り合っていた姉妹も、みんながそちらを見ました。


 たくさんの目に見つめられながら、ハンスは涙が出るほど笑って嗤って、そして言いました。


 なんだか気持ちが覚めてしまったので先ほどの話はなかったことにします。


 突然そう言われて、見物客はともかく姉妹はたいそう慌てた顔を見せました。


 ハンスはまた見下した笑みを浮かべ、


 安心して下さい。話は流れてもこれは差し上げますから。


 持っていた箱から取り出した宝石を二人へ放りました。


 宝石は二人よりもだいぶ手前に落ち始め、姉妹は互いを押しのけ合って、最後は服や体が汚れるのも厭わずに地面に跳び込みました。


 必死な姉妹でしたが宝石は二人の指をすり抜け地面に落ちて、そこにあった石に当たってあっさりと二つに割れてしまいました。


 それが世界でももっとも硬い宝石だと思っていた姉妹が訳が分からず固まってしまいました。


 あー、紛い物のガラス玉だけに簡単に割れてしまいましたね。まあちょうど二つになったことですし、仲良く分け合って下さいね。貴女達にはお似合いの石ころでしょう?


 ハンスはそう言って馬車に戻りました。馬車はすぐに動き出し、後にはすでに汚れていた上にさらに泥と土埃を被った姉妹と見物客だけが残されました。


 屋敷へと戻る馬車の中で、ハンスはまた声を上げて笑いました。


 お互いそっくりだって分かってる顔をああも罵り合うなんて! そっくりそのまま自分に返ってくるって分からないのかなぁ!


 とても楽しそうに、とても満足そうに言ったハンスに、御者のおじさんはやっぱり何か言いたそうにしながらやっぱり何も言えずに手綱を捌いて馬車を屋敷への向かわせました。



 それからもハンスは町の人達へと悪ふざけを続けました。


 お金持ちである自分にしかできないやり方で、町の人達をからかいました。嘲りました。見下し続けました。


 もちろん町の人達は怒りましたが、悪ふざけ以外に町に行くことのないハンスは困りませんでした。もっとも買い物やその他の用事で出かける召し使い達はその度に嫌味を言われましたが、それをハンスが気にすることはありませんでした。


 ハンスは町の人達が怒りながらも、ほとんどのお店で一番お金を使うから商売を拒むことができないことを知っていました。知っていたから、町の人が嫌々でも物を売る様やその心中を察しては、やっぱり見下して笑っていました。


 そんなことが続いて、ハンスは町中のみんなからすっかり嫌われてしまいました。


 それでもハンスは気にしませんでしたし、行いを改めることもありませんでした。


 争いを起こす種が思いつかなくなると特に用事もなく町へと出かけました。


 みんなハンスの姿を見ただけで、乗っている馬車を見ただけで眉を顰めるようになりました。


 ハンスはそんな人達を眺めるのが好きでした。


 買い物に行って嫌そうな顔をしながらも生活のために物を売る店主の表情が好きでした。


 自分に物を売った人が町の他の人から顰蹙を買う様が狂おしいほどに大好きでした。



 そんなある日、暇を持て余したハンスはいつものように夕暮れの町へと繰り出しました。しばらくするうちに御者のおじさんが視線に耐え切れずに辞めてしまったので、その日は一人馬に乗って出かけました。


 そしてそのことが彼の運命を永遠に変えてしまうことになるのでした。



 町のギスギスした雰囲気を堪能したハンスは、日が落ちてすっかり暗くなった帰り道を馬の背に揺られながら進んでいました。


 そして河に架かる石橋へとさしかかった時でした。ハンスの前に一人の男が立ちはだかったのです。


 ローブを着てフードで顔を隠していましたが、月明かりでどうにか見えるその目はとてもぎらついていました。


 はた目にも穏やかでないその男にハンスの馬は足を止めてしまい、男は駆け寄ってきました。そして怯えるハンスを馬から引きずり下ろしてしまいました。


 な、なんだお前!


 ハンスは精一杯凄んだつもりでしたがその声は震えていました。


 男は何も言わないままハンスを掴み上げて思いきり放り投げました。飛ばされた先は端の縁、そこを超えた先でした。欄干のない橋でしたのでそのまま遥か下の河に落ちそうになったハンスでしたが、ひぃっ、と悲鳴を上げながらもどうにか縁に掴まる事ができました。


 必死にしがみついているハンスを見た男が舌打ちをしながらやって来て、ハンスは慌ててやめろと叫びます。


 それでも男は止まりません。相変わらずぎらついた目で睨みながらハンスの所へ寄ってきて、しゃがみ込んで縁を掴むハンスの両手を無理矢理引っぺがしました。


 支えがなくなれば、もちろんハンスは落っこちます。


 自分の身に起こったことが絶対に信じられない、といった顔をして暗闇に落ちていくハンスに男は目元を歪めました。ハンスにはきっと悪魔か何かに見えていたでしょう。


 水面を激しく叩く音が聞こえて、男はフードを外して満足気な顔を月明かりに照らされながら去っていきました。



 どこだ? ここ……。


 ぺち


 僕は、死んだ……? とても、寒い……。


 ぺちぺち


 あんなことで……。あんな死に方……


 ぺちぺちぺち


 さっきから誰だ? 誰が僕を叩いている……?


 ぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺち!


 ハッ!


 バッと目を開いたハンスがしばらくそのまま固まって、石造りの天井みたいな端の裏側を見つめていました。その間にも誰かさんにほっぺたをずっと叩かれていて、


 もういい! もう目が覚めた。


 そう叫んでようやくぺちぺちは止みました。


 叩いていたのは一人の女の子でした。十代半ばくらいで、長くぼさぼさなのをそのまま垂らす髪は栗色でしたが薄汚れていて、服装はもっとボロボロでした。顔も街の中で一番貧しい家の者よりもずっと薄汚れていましたが、その目だけはどこまでも透き通っていて、どこまでも真っ直ぐにハンスを見つめていました。


 起きた。


 女の子が口を開いて、何か言おうとしたハンスが遅れてやってきた頭痛に顔をしかめました。たとえでなく本当に頭が割れてしまいそうな、とても酷い痛みに声まで上げてしまったハンスが、続いて襲い掛かってきた凍えに身を震わせます。


 まるで吹雪の中裸で放り出されたような寒さに、自分が冬も間近の河に落とされたことを嫌でも思い出していました。


 それでもハンスは女の子に問います。


 君が、助けてくれたのか?


 女の子はこくっと頷きました。


 見たことないな? 町の連中、じゃない……? どっかから流れてきた物乞いか?


 色々と疑問を持ったハンスが女の子に名を訊ねました。


 返ってきた答えは、ハンスをもっと怪訝とさせるものでした。


 わたしは、……貧乏神。


 はあっ?


 思わず大声を上げてしまったハンスがまた奔った痛みにこめかみを押さえました。頭痛に耐えながら、だいぶ冷静になった頭で考えを巡らせます。


 この子、頭をどうにかしたのか? おかしくなった物乞いが、橋の下に住んでたってのか? 


 女の子の外見からそうとしか思えなかったハンスが自嘲気味に笑います。


 僕はそんなのに助けられたわけか……。こんなのが、僕の命の恩人というわけか……。


 頭を痛ませながら、寒さに震えながら、ハンスはその顔に憎しみを滲ませていきました。


 そんなハンスの横で、女の子もまた顔つきを変化させていました。なにかとても驚くようなモノでも見たかのように元から大きな目をさらに見開いて、悔しそうに歯を軋ませているハンスを見つめていました。


 そしてとうとう我慢できなくなったとばかりにハンスに飛びつきました。びっくりして振り返ったハンスに、


 な、なんだっ?


 ……じゃう。


 は?


 ……死んじゃう。死んじゃう! 死んじゃうの!


 気でも触れたのか、ああそれは元からかとハンスは勝手に決めつけて、女の子を振り解いて立ち上がりました。


 それでも女の子は必死に叫びます。


 死んじゃう! あなた死んじゃうよ!


 分かってる! このままじゃ凍え死にだ。さっさと屋敷に戻って火に当たらないと。


 ハンスは土手を登って帰り道に戻ろうとしましたが、女の子はまたハンスに縋りついてきました。


 ダメ! 待って!


 なんだ? 礼か? なら後で取りに来い。僕はハンス、道の向こうの一番大きな屋敷の主だ! 来ればすぐ分かる!


 もう一度乱暴に振りほどいたハンスでしたが、女の子は川辺に倒れたままで叫びます。


 待って! 本当に、本当に死んじゃうの!


 もうまともに取り合うつもりのないハンスは命の恩人に鬱陶しそうな顔を向けました。そしてつけていた指輪をおもむろに外して、女の子に投げつけました。


 それを売れば四、五年は食べていけるだろ! お前達なら。まだ足りないって言うなら屋敷に来い!


 そう吐き捨てて、ハンスは屋敷へと戻っていきました。凍えてまともに走れはしませんでしたが、それでも足早に去っていきました。


 くそう! なんでこんな目に遭うんだ! あの男は町の奴だ。そうに決まってる! このままにはしておかないぞ! 絶対にだ!


 男への、いいえ町の人達への仕返ししか頭にないハンスは一度も振り返ることなく進みました。


 ハンスがその女の子に会えたのはそれが最後でした。引き剥がされて地面に転がった姿が、ハンスが見た女の子の最後の姿でした。


 女の子の最後の言葉は聞こえてすらいませんでした。


 ハンスの姿が暗闇に紛れていくのを見送りながら、女の子は小さく呟いていました。


 決めた。わたし、あの人を貧乏にする。


 そう呟いていました。



 ひと月ほどが経って、町は大騒ぎになりました。


 町中のお店から安い食べ物が全部消えてしまったのです。


 穀物を扱うお店では二級品の麦が姿を消しました。安い大麦もなくなっていて、あるのはよくふるいに掛けられて厳選された、細かく挽かれた一級品の小麦の粉だけでした。それはとても値段の張るものでした。


 八百屋さんからはじゃがいもやニンジンがなくなっていました。とても安く手に入るのでどの家庭でもよく食べられていたのですが、お店の棚のそこだけがすっぽりと抜けてからになっていました。


 酒場からは安酒の類の一切が消えていました。とても安価で仕事終わりの人達が水の様に呷っていたエールやビール、二番絞りのワインなどがそろって姿を消していて、残っているのはリザーブと呼ばれる出来もいいですが値段も高いボトルや、ひと月に一本なくなるかどうかの高級酒だけでした。


 どれもこれも決して裕福ではない、もっとはっきり言ってしまえば貧しい生活を強いられている町の人達にとっては日々の糧となる大切な食糧でした。それがないからと言って残った高級品に手が届くはずもありません。


 当然町の人達は怒ってお店の人に訊ねました。どうしてこんなことになったのだ、と。


 お店の人達は皆口を揃えて答えました。商品が入ってこないのだ、と。


 町の人達がもっと怒ります。そんなハズがあるか、と。


 確かに不作が起こって品薄になることはたまにありました。ですが町の人達の誰もそんな話は聞いていません。それもいくつもの種類が一緒に、それもいっぺんに無くなるなんて初めてのことでした。


 町の人達がもっともっと怒ってお店の人達に問い詰めました。本当のことを話せ、と。


 正直に答えないと殴ると脅されて、お店の人達はばつが悪そうにしながらも答えました。全部買われてしまったのだ、と。


 騒ぎが起こる少し前、ハンスの屋敷の召し使い達がこっそりお店を訪れて、今なくなっている商品をすべて買い上げていったのだそうです。いつも注文している高級品には目もくれず、安い商品ばかりをあるだけ全部、と。


 ハンスのことは知らない人がいないほど広まっていましたから、お店の人達も初めは渋りました。ですが普段の二倍三倍の額を払うと言われて、仕方なく売ったのだ、と。


 お店の人達は、顔と口調だけは申し訳なさそうでしたが、町の人達が納得するはずもなく、結局みんな殴られてしまいました。もちろんそれで終わるはずもなく、


 なくなったんなら早いとこ卸しの連中に持ってこさせろよ!


 町の人達の怒号は続きました。


 それが、ウチに卸しに来てた奴らも買い占められたって言うんだ。次はいつ商品が入るか分からないんだ。


 お店の人達がそう答えて、町の人達はこれ以上ないくらい顔を真っ赤にして、津波のような勢いでハンスの屋敷に殺到しました。土の道は昨日からの雨でぬかるんでいてみんな跳ねた泥で服を汚していますが誰も気にしていませんでした。


 町の役場よりも大きなお屋敷でした。どうやっても乗り越えられそうにない高い壁に囲まれていて、頑丈そうな門は今はしっかり閉まっていました。先頭にいた誰かが無理矢理開けようとしましたが、人の腕より太い閂がされた、やっぱり太い鉄棒でできた門はびくともしませんでした。


 仕方がないので先頭の誰かが叫びます。


 どういうつもりだ! なんであんなことしやがった!


 声は屋敷の中まで届いていましたが、すぐには返事はありませんでした。


 聞こえてるだろう成金ヤロウ! 出てきやがれ!


 叫んだ誰かはますます苛立って、もう一度叫びます。けれどやっぱり返事はありません。


 叫んだ誰か以外の人達もおでこに血管が浮き出るくらい怒った顔で口々に屋敷に罵詈雑言を飛ばします。たまにとても子供には聞かせられないような言葉もありましたが、そして実際についてきた子供達の耳にも聞こえてしまっていたのですが、そんなことはお構いなしにみんな鬱憤を発散していました。


 そんな中、一人の子供があるものに気がついて、母親の袖を引いて言いました。


 おっかあ、アレ。


 子供が指さした先にあったのは、パンでした。店先や食卓の上でよく見かけるパンが庭に転がっていました。だいたい半分に千切られてはいますが口をつけた形跡はありません。


 よく見ればパンの残骸は無数に転がっていました。どれもこれも雨に濡れてぐしゃぐしゃになっていました。


 他にも馬車の車輪で踏んだような潰れたじゃがいもも転がっていました。ずっと日の当たる場所に置いてあったみたいに、もう絶対食べられないほど青くなって芽をを出した物もありました。


 ニンジンはバケツに入れられて綺麗なままでしたが、それらは馬の餌になっていました。本当は屋敷の裏手にある厩舎からわざわざ前庭へと移された馬達が、馬草の代わりにニンジンをばりぼりと貪っていました。


 誰かがふと気づきました。何か、その場の空気が匂うことを。雨のせいでだいぶ紛れていましたが、それはお酒の匂いでした。晴れた日の庭の水撒きのように辺り一面にこぼされていたようでした。よく見れば壁の傍に空き瓶が積んでありました。


 それと同時にもう一つ、茶色い土の道が妙に白っぽいことにも気づきました。こちらは匂いはしませんが、傍に落ちていた汚れた麻袋でそれが小麦の粉であることが分かりました。一見砂利のように見えたつぶつぶは、実は大麦の実でした。元から泥塗れだったのが、町の人達に踏まれてもう滅茶苦茶になっていました。


 食べれることなく棄てられたそれらを見て町の人達は理解しました。ハンスは食料を買い漁ったのではなく、自分達から奪い取ったのだと。


 みんな悪魔のような恐ろしい顔をして、石を投げつけてやろうとしましたが辺りには見当たらなかったので、積まれていた空き瓶をわざわざ取りに行きました。


 主に男の人が力いっぱい投げつけましたが、ほとんどが門に当たって砕けました。


どうにか隙間を縫った瓶も屋敷まで届くはずもなく、手前の土や芝生の上に落ちて虚しい音を立てました。


 誰かさんは関係ない馬に投げようとしましたが上手くいきませんでした。ちょっとだけ驚かせはしました。


 女の人の半分くらいは何かを投げたりはしませんでしたが、かといって他にできることもなく泣き崩れていました。


 後ろの方の誰かが投げた瓶が門に当たって割れて、破片で前にいた人が怪我をしました。他の誰かが投げようとした瓶が手からすっぽ抜けて、先頭の誰かの頭に当たりました。


 誰がやった! 


 何しやがる!


 ぶつかった人達が怒鳴って、今度は町の人達同士で罵り合いました。誰かが誰かを殴って、その誰かも殴り返しました。誰かが誰かに投げた瓶が他の誰かに当たって、そっちも巻き込んで乱闘になりました。


 小さな子供はそんな集団からそっと、泣きそうになりながら離れました。もう泣いている子もいました。


 そんな子供達の中で、一人の子供がある物に気がつきました。


 酒瓶が積んであった壁とは門を挟んだ反対側の壁、そのそばに布を被せられた何かが山になっていました。


 子供がその何かに近づいて、覆っていた布をどかしました。


 あっ!


 一人の子供は思わず声を上げました。それは辺りに捨てられているのと同じ麻袋が積み重なった山でした。もちろん中身はパンパンに詰まっていて、全部で十袋ほどありました。


 その手前にはお酒の瓶もありました。こちらも空ではなく、茶色かったり赤かったりする中身が入っていました。


 みんな見て―!


 子供が大声で呼んで、呼ばれた〝みんな〟が振り返りました。そして次々に目の色を変えてそちらに駆け寄りました。


 ご飯があったらみんなケンカしない。あんなに怒鳴ったりしないですむんだ。


 見つけた子供はだいたいそんなことを思っていました。近づいてくる大人達に、自然と口元を綻ばせました。


 そんな希望を抱いていた子供は、先頭を走ってきた男に突き飛ばされてしまいました。小さくて細い体が面白いように飛んで、だいぶ離れたところに落ちました。


 大した怪我はありませんが呆けている子供の前で、大人達は見つけた食べ物の取り合いを始めました。


 俺が先に見つけた、とか、初めに手が触れた私の物、とか、これは俺のお気に入りなんだ。だから俺の酒だ、とか言い合いながら、重たい袋や酒瓶を奪い合っていました。


 それらは、例えば全部を焼いてパンにしたら、食べ物に困っている人達の何日か分にはなりそうでした。お酒も少しずつならみんなで飲める量がありました。


 けれど誰も分け合おうとはしませんでした。みんながみんな、我先にと殺到して、先に取った人から奪い取ろうとしています。


 一人のお爺さんが小麦の袋を担いで逃げようとして、腰を痛めて倒れてしまいました。もちろん誰も助けようとはせずに、これ幸いと袋を奪おうとして、同じことを考えた誰か達と睨み合いになりました。


 すぐそばでは小麦を抱えた男の人が女の人に突き飛ばされて倒れました。その際女の子を巻き添えにしてしまって、その女の子も倒れて下敷きになりました。落ちていた瓶の破片で顔を大きく切ってしまって、初めに突き飛ばした女の人が娘の大怪我に悲鳴を上げましたが、誰も気に留めることもなく奪い合いを続けました。



 屋敷の中、召し使いさん達は町の人達の怒号に皆耳を塞いでいましたが、ハンスだけは実に心地良さそうにくつろいでいました。その一杯に使った茶葉の値段で町の一家族の一日分の食べ物が買える紅茶を飲みながら、飛び交う罵詈雑言を聞いていました。


 町の人達が食料を巡って争い始めると、我慢できずにバルコニーに出てその様子を眺めていました。


 ハンスはとてもとても満足そうでしたが、まだ何か楽しみがあると言わんばかりの、笑うのを堪えるような顔をしていて、


 まだだ。まだ笑っちゃダメだ……。


 実際、込み上げる笑いを必死に堪えていました。



 ある瞬間、山の一番下にあった小麦の袋を誰かが持ち上げた時でした。それを奪い取った誰かが思いきり振り回して、袋からビリリと音がしました。


 奪い取った誰かが慌てて振り向きましたが、いやな予感は的中、初めから浅く切り込みを入れてあった袋は綺麗に破けてしまいました。中身がザラザラとこぼれ落ちました。


 溢れ出た白い粉に町の人達が一斉に注目しました。そして次の瞬間には大勢が飛びついてきました。袋を持ち上げられない力のない女の人達がこぼれた小麦粉を掻き集め始めました。


 そして誰かが気づきます。


 これ、違うじゃない……!


 そんな人達とは別の場所で、酒瓶を奪い合っていた男の人達もヒートアップしていました。


 一人の男の人が一人で酒瓶を三つも四つも抱えて逃げようとしていて、大勢に囲まれて壁際に追い詰められています。


 追い詰められた男の人がどうにかして逃げられないかと辺りを見渡しましたが、相変わらずの取り合い奪い合いの光景しか見えませんでした。


 争っていないのは小さな子供達と、誰かに殴られて蹴られて突き飛ばされて引っかかれてぐったりしている何人かだけでした。


 追い詰められた男の人はじりじりと近づいてくる他の人達に顔を青くして、素早く彼らに背中を向けてしゃがみました。


 何をしているのかと別の誰かが覗き込んで、そして声を上げます。


 こいつ取られる前に飲もうとしてやがる!


 そう、追い詰められた男の人は瓶の飲めなくなる前に飲んでしまおうと、蓋を外していました。追い詰めていた人達が飛びかかりましたが、追い詰められた男の人はかまわず瓶を傾けて、中身の茶色い液体を口に含みました。


 瓶はすぐに奪われて、もぎ取った人が同じようにラッパ飲みにしました。


 それを見ていた他のお酒を持っていた人達も逃げだすより飲むことを優先して、みんな蓋を開いて呷っていきました。


 そして誰からともなく吐き出して、それから叫びます。


 ……違う! これ酒じゃねぇぞ!


 そう、違ったのです。袋の中身は小麦粉ではありませんでしたし、瓶の中身もお酒ではありませんでした。


 小麦粉に見えた白い粉は、暖炉の灰と砂を混ぜた物でした。とてもじゃありませんが食べられる物ではありません。


 お酒に見えた茶色い液体は、土の色を染みださせたただの汚れた水でした。ワインのような赤い液体は動物の血を薄めた物でした。


 握った灰と砂を叩きつける人達を見て、袋を担いでいた人達は慌てて自分の袋を開けてみて、そしてやはり中身が灰と砂の混ぜ物であることを知って愕然としました。


 呷ったお酒やそれ以上に胃の中身まで吐き出す人達を見て、酒瓶を抱えていた人達は慌てて自分の瓶の中身を確かめて、そしてやはり中身が汚水であることを知って膝から崩れ落ちました。


 誰も何も言いませんでしたが、誰も何も言えませんでしたが、皆一様に思っていました。


 俺達はこんなものを奪い合っていたのか、と。


 分け合うなんてことは頭になく、文字通り腹の足しにもならい物を醜く奪い合い、挙句子供まで巻き込んでの流血沙汰です。馬鹿馬鹿しいという言葉では足りないほどの醜態でした。


 ……はは、……はぁ……は……。


 誰もが悔んだり自嘲したり脱力したり嘆いたり落ち込んでいたりする中、それは響いてきました。始めは掠れたように小さく、やがて段々と大きく聞こえてきたそれは、


 っははははは! あははははははは! かぁっはっはっはっは!


 笑い声でした。今までで一番面白い物を見つけた時に上げるような、これ以上ないほどの悦びに震えるような声でした。人生で一度あるかないかというような笑い方でした。


 或いは項垂れたまま、或いは膝をついた姿勢のまま、町の人達が声のする方、屋敷へと顔を向けます。


 見えない人もいましたが、声の主ハンスは、バルコニーでお腹を抱えて笑っていました。笑い過ぎて時折咽ながら、壊れた蛇口から溢れる水の様に笑い声を吐き出していました。


 きっと殺到してすぐであればみんな怒って物を投げつけたことでしょう。ですが町の人達は自分で自分が馬鹿馬鹿しく思えて、誰もやり返せませんでした。何も言い返せませんでした。そんな気力もありませんでした。


 そのうちへたり込んでいた誰かが幽霊みたいにゆらゆらと立ち上がって、ふらふらと去っていきました。それを見ていた他のみんなも、来た時とは逆のお葬式にでも行くような顔をして、ぞろぞろと帰っていきました。


 町の人達が屋敷の前を去って石橋を越えて町へと戻ってからも、ハンスはずっと笑っていました。


 さて町へと戻った人達ですが、我に返ったからと言って状況が解決したわけではありません。時間が経てば結局はお腹が空いていきますし、それを放っておくわけにもいきません。


 町の人達はハンスに食べ物やお酒を売ったお店へと駆け込みました。


 小麦や大麦の穀物を売っていたお店では、


 残ってる食料を俺達に寄越せ。


 だ、だから全部売っちまったって。


 そこの棚にあるだろう!


 け、けどアレはあんた達が買えるようなモンじゃ、


 俺達を飢えさせておいて値は据え置きってか?


 無茶な要求にお店の人達はもちろん断ろうとしましたが、そうすると今度は殴られるだけでは済みそうにありません。


 わ、分かった。あんたらがいつも買ってるのと同じくらいの値段で、


 ふざけんな! 俺らが飢えるのはかまわないでてめぇだけ儲けて終いにするってか!


 おーいみんな! 今日はこの店全品十割引きだとよ!


 ちょ、ちょっと待ってくれ! それじゃあんまりだ。それを持って行かれたら、


 誰が棚にあるので終いだって言ったよ? 倉庫にもまだいくらかあるんだろ?


 か、勘弁してくれ! 店が潰れちまう!


 町の人達をどうにか宥めようとしたお店の人でしたが、町の人はお店の人の腰に巻きつけられた鍵の束を見つけてしまいました。すぐにそれを奪い取って仲間に渡しました。


 お店の人はもちろん止めようとしましたが、鍵を奪った人に蹴飛ばされて商品棚に頭から突っ込んでしまいました。


 鼻血をダラダラと流すお店の人にかまうことなく、町の人達は普段は手を出せない商品を根こそぎ持って行ってしまいました。



 八百屋さんでは、


 だから食べられる物をちょうだいと言ってるの! 何か食べないとうちの子達が、


 だぁから、そこにあるだけしかないって言ってるだろ。売れるのはそれだけだ。


 それじゃとてもじゃないがお金が足りなんだよ! あんた達は十分儲けただろう! 残りは恵んでおくれよ!


 そうはいかねぇよ! こっちだって商売だ。物を恵んでなんていたら干上がっちまう!


 殺到した誰かのお母さん達を相手にお店の人は強い口調で追い払おうとしていました。


 そのうち店先から覗き込んでいた子供の一人が棚のリンゴを一つ掴んで、そのまま走り去ろうとしました。


 あっ! 待ちやがれクソガキ!


 お店の人は追いかけようとして、通路でお母さん達につっかえてしまい、


 邪魔だババァ!


 その人を突き飛ばしてしまいました。それを見た他の人がお店の人の足を引っかけて転ばせて、


 この守銭奴が!


 そう言って棚にあったかぼちゃをお店の人の頭めがけて投げつけました。他のお母さん達も手近でできるだけ重くて硬い野菜を投げつけました。引き剥がした棚板や窓のつっかえ棒なんかで殴りつける人もいました。


 お店の人が動かなくなるまでそれは続いて、


 ほら! 持てるだけ持って家に帰りな!


 いいの? おっかぁ。


 いいから! さっさとしな!



 町の酒場では、


 来やがったか……。


 まだ入り口をくぐってさえいない男の人を遠目に見つけたお店の人達が手にした長い棒や短い刃物を握り直しました。


 お店の人達の後ろにある、普段はお客さんが使うテーブルには空だったり半分だけ残っていたりするお酒の瓶があります。それは、


 取られるくらいならやってやるさ!


 お店の人達が飲んだ跡でした。


 マスター、今日は、


 両開きのドアをギィ、と音を立ててやってきた男の人が、ドアの脇に立っていた男の人に棍棒で殴られました。殴られた男の人は何が起こったのか分からないままふらふらとお店の外に出て、そして倒れました。通行人の悲鳴が聞こえます。


 てめぇら何しやがる!


 なぐられてぐったりしている男の人を見つけた別の男の人が怒鳴り込んできて、


 どうせウチの酒奪いに来たってんだろう! 盗まれてたまるもんか!


 んだと! てめぇらあの貴族に買い占められてぼろ儲けしといてそんなことぬかすのか! ふざけんな!


 ふざけてんのはてめぇらだろが! んなこたぁ貯まったツケ払ってから言いやがれ!


 喚きながら普段は自分でも飲まないような高いお酒をグビグビと呷るお店の人に、怒鳴り込んできた男の人が額に青筋を浮かべて掴みかかろうとしました。


 お店の人はお酒の瓶を投げつけて、掴みかかってきた男の人が怯んだ隙に頭に棍棒を叩き込みました。掴みかかってきた男の人は最初に殴られた人と同じく倒れ込んで動かなくなりました。

 

 その男の人の家族か知り合いでしょうか。通りがかった人達が男の人の名前を叫んで、お店の人達を睨みます。いつしかお店の人達と同じく斧だったり包丁だったりと手近な武器を手にした男の人達が集まってきて、


 取れるもんなら取ってみやがれ!


 お店の人達と殺し合いを始めてしまいました。



 町の騒ぎは、怒鳴り合いや罵り合いや殴り合いや奪い合いや殺し合いの様子は夜まで続きました。


 風に乗って届いてくるそんな狂騒を、


 まだやってるのか。頑張るんだなぁ。


 ハンスはバルコニーに置いた椅子に腰かけて、ワインのグラスを傾けながら静かに笑って聞いていました。


 昼間にあんな馬鹿馬鹿しいことをしといて今またこれだ。少しでも恥ってモノを知っていたら死にたくなるくらいのことをしているって思わないのかな?


 クスクス笑いながらおつまみのチーズを頬張るハンスを、部屋の外から執事のお爺さんが見ていました。


 おっ? 火の手だ! とうとう火まで着けちゃったか! ああはなりたくないなぁ。あっははは。


 とても悲しそうな顔をして見ていました。



 それからしばらくのことでした。ハンスの元に報せが届き始めたのは。


 ハンスの家は代々遠くにたくさんの土地を持っていて、そこで人を雇って家畜や作物を育てさせて、それを売ってお金を稼いでいました。


 そんな各地から一斉に手紙が届いたのです。どれもこれも、ハンスにとってはよくない報せでした。


 農家からは収穫間近だった作物のほとんどが枯れてしまったという手紙が届きました。別の農家からは病気になって大半がダメになってしまったと知らされました。どんなに肥料をやっても石灰を撒いても良くならないそうです。


 牧場からは牛や羊や鶏が次々と倒れてしまったと手紙が来ました。別の牧場からは牛や山羊がやせ細ってお乳を出さなくなってしまったと知らされました。どんなに餌を変えても水を変えても良くならないそうです。


 作物や家畜が売れなくなれば当然お金は入ってきません。それどころか雇っている人達の手当も出せません。


 雇われている人達もそれなりには待ちましたが、いつまで経ってもお金が払われません。お金がなければ冬を越せないので、そのうち怒って勝手に仕事を辞めてしまいました。その際まだ無事な作物を盗んだり、家畜を殺してお肉にして食べてしまったりしました。


 さてお金が無くなればハンスは贅沢な暮らしを続けられなくなります。それだと困るのでハンスはどうにかするよう執事のお爺さんに命令しようとしました。


 けれどできませんでした。ハンスのお爺さんの代から屋敷に仕えていた執事のお爺さんですが、ハンスの町の人への嫌がらせにとうとう我慢ができなくなってお屋敷を去っていたのでした。


 ちなみに他の召し使いの人達はもっと早くに逃げ出していました。心を病んで医者にかかってしまった人もいました。


 ハンスは困りました。ハンスはとってもお金持ちで欲しい物は何でも手に入れられましたし、食べたい物は何だって食べられましたが、自分で何かを買ったことは一度もありませんでしたし、自分で何かを料理したことも一度もありませんでした。


 お屋敷にはほとんど食べ物は残っていませんでした。町の人達への嫌がらせで使ってしまってお金もあまり残っていません。


 絵だったりアクセサリーだったりドレスだったり、売れそうな物はありましたが、それを買ってくれそうな人は町にはいませんでしたし、お金があっても食べ物を売ってくれそうな人もいませんでした。町へ顔を出そうものなら、きっとみんな怒って石を投げてきたでしょう。


 しばらくの間はお屋敷に残った物を食べていました。


 貯蔵庫にあった吊るされたハムや干し肉は、料理の仕方を知らなかったのでそのまま食べました。


 樽や麻の袋に詰まっていた果物は皮をむいて食べました。甘くて美味しかったのでたくさん食べましたが、そのせいですぐになくなってしまいました。ニンジンや玉ネギもあって、やっぱりそれもそのまま食べましたがあんまり美味しくありませんでした。


じゃがいもは生で食べてはいけないと知っていたので皮の付いたままフライパンに乗せて焼いて食べました。中が生だったのでシャリシャリ音がしてお腹を壊しました。二度目は生焼けにはなりませんでしたが、焼き過ぎて真っ黒こげになってしまってやっぱりお腹を壊しました。


 お酒の瓶はたくさんありましたが、コルクの抜き方を知らなかったので瓶を割って飲みました。半分くらいこぼれたり、瓶の欠片を口に入れて怪我をしたりしました。


 袋に入った小麦粉も見つけましたが、どうすればパンになるのか分からず手をつけませんでした。それでも他の食べ物を食べ尽くしてしまったので、試しにそのまま口に入れてみました。咽て吐き出してしまいました。

 試しに水と混ぜてこねてみました。部屋の暖炉を扱っていた執事のお爺さんの見様見真似でどうにか火を起こしたオーブンに入れてみましたが、薪と一緒にいれてしまったので炭になってしまいました。仕方なくフライパンで焼いてみましたが、焦げた味のするなんだか分からない物になってしまいました。


 そうしているうちに食べられる物もなくなり、ハンスはどうすればいいのか分からなくなりました。


 町の人に助けを求めてもきっと、というより間違いなく助けてはくれないでしょう。自分が知らないことばかりだと分かったハンスでもそれくらいは知っていました。


 お屋敷を訪ねてきた少し前のハンスの家と同じくらいお金持ちの貴族に助けを求めてみましたが断られてしまいました。ハンスのしたことが知れ渡っていたからでしたが、ハンスは自分がお金持ちの貴族でなくなってしまったから冷たくされるのだと思い込みました。


 それからまたしばらくして、ハンスは屋敷の部屋の中で毛布にくるまってじっとしていました。べつに死んでしまったわけではありませんが、他にすることもありませんでしたし、何より動くとお腹が空いてしまうのです。


 じっとしながら、ハンスはずっと考えていました。


 どうしてこんなことになったのだろう?


 ハンスは考え続けます。そして思い出しました。


 橋の下で出会った女の子が口にした言葉を。


 わたしは、……貧乏神。


 ハッとしたハンスは弱々しく閉じかけだった目を見開いて、三日ぶりに体を起こしました。


 ……あいつが? あいつが僕をこんな目に遭わせたのか?


 貧乏神というくらいですから、人を貧乏にすることができるのだろう。そう思ったハンスは握った拳を震わせました。暖炉にくべる薪も底をつき部屋はとても寒かったのですが、震えているのはもちろん寒さのせいではありません。


 あいつが、あいつのせいで僕はこんな目に遭っているのか? こんなにお腹を空かせて、こんなに震えて、いったいなんの恨みがあってこんなことを……!


 その謎は解けませんでしたが、ハンスはすることを見つけました。子鹿のような足取りでどうにか立ち上がって、調理場でナイフを手にして屋敷を出たのでした。本当はもう動くのもやっとなほど弱っていたのですが、


 絶対に、許すものか……!


 ハンスの目はぎらついて、ふらつきながらも歩き続けました。


 目指す場所はあの女の子と出会った、あの女の子に助けられた橋の下です。


 普段馬車で行くよりも、歩いていくよりもずっと時間をかけてやってきたその場所で、ハンスは女の子を見つけられませんでした。


 あの時女の子がいた場所には誰もおらず、何もありませんでした。寒々しい川辺のあちこちに目を向けましたが、やっぱり誰もいませんでした。


 仕返しをするつもりでいたハンスでしたが、相手がいなくなったことを知るとその場に崩れてしまいました。何のためにここまで来たのかと落胆もしましたが、もう声さえ出せませんでした。


 ? なんだ?


 倒れ込んだハンスの目にキラキラ光る何かが映りました。手を伸ばしてそれを拾って、顔の前まで持ってきてようやく分かりました。


 あの日、助けてくれた女の子にお礼として投げつけた指輪でした。土と埃で汚れていましたが、間違いなくあの指輪でした。


 それを握りしめていたハンスの目に涙が滲んできました。それはすぐに溢れて、滝のように流れていきます。


 ああ、あああ……!


 指輪を握りしめながら、握った手を胸に抱きしめながら、ハンスは声を上げられないまま泣きました。泣き続けました。


 夜になっても朝が来ても、ハンスは橋の下でうずくまったまま泣き続け、そしてもう二度と動くことはありませんでした。





・リエール編に続きます。

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