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巡査 沖田総一

巡査 沖田総一 ~ 愚直 ~

作者: 柴崎貴士

「こんちわぁ。」

「あら、沖田さん。ランチですか。」

「午前中、交通課と一緒に交通安全のイベントがあったんで、昼食べてから帰ろうと思って。」

 そう言って沖田がカウンターに腰かけると

「カツ丼セットですよね。たぬき蕎麦で。」

と、若い女性店員が手馴れたように注文を取る。

 沖田総一、24歳。

 赤森警察署山富駐在所に勤務する警察官。

 駐在所は交番と違い一住民として住み込む勤務であるため、家族で赴任することが多いが、近年、若くして家を建て単身赴任する警察官が増えたことに加え、何かと家庭の事情を並べ立てプライバシーのない駐在所勤務を避けようとする年配者が増え、沖田のような若い独身者が駐在所に赴任することも少なくなくなった。

 駐在所での食事は、住民から野菜を差し入れされることもあり基本自炊だが、沖田は、料理のハードルが高いカツ丼や好きな蕎麦を食べに、時々、警察署の近所にあるそば処「吉宗」にやってくる。

 丼ものと蕎麦のランチセットは吉宗の看板メニューで、沖田は昼に来ると必ずカツ丼とたぬきそばのセットを注文する。

 女性店員は小野小町、21歳。

 ここ、そば処「吉宗」の娘で、電車で二駅先にある秋畑中央大学の3年生。

 夕食時や講義のない日の昼、アルバイトがてらに店を手伝っている。

 沖田が最近吉宗によく顔を出すようになったのには小町の存在がある。

 度々店に通ううち、愛想がよく誰に対しても気さくに接する小町を意識するようになった。

 最近、二人で話す機会も増えてきたが、果たして小町は沖田のことをどう思っているのか・・・。

 注文したカツ丼セットを待っていると、テレビが正午を知らせ、ニュースが始まった。

「警視庁は、今日、アイドル歌手の “あゆゆ“ こと、清川あゆさんを脅迫し現金を脅し取ったとして32歳の男を逮捕しました。

 男は、デビュー前の清川さんと交際していたことがあり、清川さんに入浴中の写真を送り付け、これをインターネットにアップされたくなかったら金を持って来いなどと脅し、現金300万円を恐喝したもので・・・」

 有名になったアイドル歌手を妬んだ元交際相手が交際していたときの姿態をネタに恐喝する、芸能界ではよくある話だ。

「こんな男、最低。元カノが有名になったからって恐喝するなんて、あり得ない。男として恥ずかしくないのかしら。」

 カツ丼セットを持ってきた小町が毒づいた。

 沖田は芸能界の話と覚めた見方をしているが、まだ大学生の小町には、まるで身近な事件とでも映ったのか、怒り心頭だ。

「確かに。最低だね。」

「芸能界に縁のない私には関係ないかぁ。その前に脅されるような彼氏も元カレもいないけどね。」

(え、彼氏いないんだ。よっしゃぁ。)

 他愛もない小町の言葉から貴重な情報を得た沖田は、つい、にやけてしまった。

「沖田さん、そこ、笑うとこじゃないから。」

と突っ込むと、小町は沖田にくるっと背を向けた。

 厨房に戻る小町を目で追いながら、沖田が丼の中のとんかつを箸で摘まみ口の中に放り込んだそのとき、天敵が現れた。

「よう、沖田。お前、またカツ丼セットか。ほかに食べるものないのかよ。」

 今川賢四郎巡査部長、24歳。

 沖田と同期生で、警察学校を首席で卒業し、巡査部長試験を一発で合格した出世頭だ。

 赤森警察署の自動車警ら隊に所属し、エリート意識丸出しで、なにかと鼻にかけた物言いをする嫌な奴だ。

 今日は、夜勤明けの非番。どうやら、吉宗で昼食をとってから帰るつもりらしい。

「小町ちゃぁん。親子丼と天ぷら蕎麦のセットね。」

(何が「小町ちゃぁん」だ。まったく。)

「沖田、お前も小町ちゃん目当てか。ま、俺がゲットしちゃうけどね。最近、話も弾んでいい感じなんだよねぇ。」

(ちぇ。今川だけには負けたくない。)

 沖田は心の中で毒づき、蕎麦をすすった。

 

 ― 数日後 ―

 大学の講義を終え自宅に帰った小町は、玄関で母に声を掛けられた。

「小町。はい、ラブレター。」

「何言ってんの、今どきラブレターだなんて。差出人も書いてないじゃない。」

 二階の自分の部屋に行き封書を開けると、中には、彼女がなにげに振り向いた写真が入っていた。

 小町の清廉さと愛想の良さが伝わってくる、なかなかよく撮れた写真だ。

 写真には四つ折りされた1枚の手紙が添えられていた。

 写真を見て思わず顔が緩んだ小町であったが、その手紙を広げると一瞬にしてその笑みは消え伏せた。

“ あなたが露天風呂で露な姿を出している写真を持っている。インターネットにアップされたくなかったら、次の土曜日午前11時、紺色のトートバッグに10万円を入れて赤森駅まで来い。その後のことは電話で指示する。警察には言うな。言えばその時点で交渉は決裂する。“

「え、何これ。あゆゆじゃあるまいし。」

と吐き捨てようとしたが・・・。

 小町の自宅は蕎麦屋との店舗併用住宅だから住所は分かるとしても、差出人は、小町が紺色のトートバッグを愛用していることを知っている。携帯の電話番号も。

(だれ、大学の関係者?)

 2週間ほど前、小町は、友人3人と隣県の秘境温泉に行った。

 解放感から、露天風呂では、何ら警戒せず露な姿ではしゃいだ。

 女風呂とはいえ、山の中の露天風呂、隠し撮りされた可能性は否定できない。

 顔から血の気が引くと同時に、とてつもない不安が襲ってきた。

(どうしよう。土曜日まであと3日しかない。

 沖田さんに相談しようか。

 でも、警察に相談したことがバレたらインターネットに画像をアップされてしまう。

 仮に上手くいって犯人を逮捕できたとしても写真を証拠品として赤森署に押収されたら・・・。

 恥ずかしくて、二度と店には出れない。あぁぁん、もう。)

 いろいろな思いが一瞬のうちに頭の中を駆け巡り、小町は机に座ると頭を抱えてしまった。

 考えれば考えるほど解決策から遠退いていく。

 あゆゆの事件のニュースを見たときのように、こんな卑劣な奴は許せないと憤りを感じつつも、「店の手伝いで貯めたお金がある。決して安くはないが、10万円で済むなら・・・。」

清純な彼女は、そんな考えに徐々に支配されていった。


 小町に脅迫文が届いた次の日の木曜日午後8時頃、沖田は夕食を食べに吉宗を訪れた。

「いらっしゃいませ。」

 いつもどおり小町が出迎えると、沖田はカウンター近くのテーブルに座った。

 昼どきは客が多いのでカウンターに座ることが多いが、閉店まで1時間となったこの時間は客も少ないから、あえてテーブルに座る。

 手が空いた小町とテーブルを挟んで他愛もない話をすることが恒例となっている。

 沖田はテーブルに座ると厨房に向かってカレー蕎麦の大盛を注文した。

 ここのカレー蕎麦は、ルーと出汁の相性が抜群だ。

 蕎麦通の人に言わせると、蕎麦にカレーをかけるなんて論外と怒られそうだが、蕎麦にこだわる大将があえてメニューに加えただけのことはある。逸品だ。

 沖田だけでなく、赤森警察署の署員をはじめ、若い客を中心にファンは多い。

「はい、カレー蕎麦大盛です。」

 小町はカレー蕎麦をテーブルに置くと、沖田の向かいに座った。

「昼はカツ丼セット、夜はカレー蕎麦。好きだよねぇ、沖田さんは。」

「ここのカツ丼とカレー蕎麦は出汁がいいからかなぁ、ほんと美味しいんだよねぇ。ほかの店では味わえない逸品だよ。」

「そう、私はうどんの方が好きだなぁ。お父さんは、お前は何も分かってないって言うけど。」

「確かにうどんも美味しいけど、僕はやっぱり蕎麦かなぁ。」

「それはそうと、この間のあゆゆみたいな事件、芸能界じゃなくてもあるのかなぁ。」

「うぅん、写真週刊誌に芸能界の話として載ってるのを何回か見たことあるけど、一般的にはどうかなぁ。彼女に一方的にフラれた男が交際中に撮った写真をネタに、寄りを戻そうと迫ったっていう事件は聞いたことあるけど。」

「でも、それって、元交際相手同士の話でしょ。付き合ったこともない場合、あるのかなぁ、そんな話。」

「付き合ったこともないのに、公開されたら恥ずかしい写真を持ってるってことないんじゃない。トイレや更衣室の写真を盗撮すれば話は別だけど。」

「やっぱり盗撮かぁ。」

「ん、どうかした?」

「ううん、芸能界だけの話かなぁと思っただけ。あゆゆの事件の話で大学の友達と盛り上がっちゃって。

 やだぁ、沖田さん、真面目な顔しちゃってぇ。私にそんな元カレなんていないですよ。フラれたことはあっても、フッたことなんてないし。」と、小町は明るく笑って見せた。

 いつのも小町であれば、沖田が食べ終わるまでテーブルに座って話をするのだが、この日は、そう言うと直ぐに席を立ち厨房の奥に消えてしまった。

 そんな小町に寂しさを感じながら沖田はまったりとルーが絡んだ蕎麦をすすった。

 

 翌金曜日、沖田が駐在所で警戒していると、パトロール中の今川がトイレを借りにやって来た。

「沖田、昨日の夕方、日勤勤務のあと、吉宗に飯食いに行ったんだけど、小町ちゃん元気なかったんだよな。

 いつもなら、今川さぁんって声かけてくれるのに、なんかボーとしてるっていうか、愛想がないっていうか。なにか知ってる?」

「いやぁ、俺も昨日の夜、飯食いに行ったけど、特に変わった様子はなかったけどなぁ。」

 二人でテーブルを挟んで話をしたことは、面倒なことになりそうだから、あえて言わなかった。

「なんだ、お前も行ったのか。ま、小町ちゃんはお前なんか相手にしてないから、いつもと変わりようもないか。」

(どこまでも嫌みな奴だ。)

「今度、ケーキでも買って飯食いに行くかぁ。俺の優しさにコロッといくかもね。」

 そう言うと、今川はパトカーに乗り込みパトロールに戻っていった。

 今川が帰ったあと、沖田は、昨晩の小町の様子を思い出した。

 あゆゆの事件の話をしたあと、いつもとは違い、小町はそそくさと席を立った。

 やはり、何かあったのか?

 盗撮のことを気にしていたようにも思える。

 いや、何か用事があって話をしてる暇がなかったのかもしれない。

 そんなことを思いながら、沖田は、しばらくボーッとしていた。

(あれこれ考えても仕方ない。夜勤明けの明日から3連休。実家に帰る前に食事がてら吉宗に寄ってみよう。)

 そう、考え直し、沖田は管内の警らに出発した。

 

 土曜日の朝、沖田は、私服で登署し拳銃と無線機を保管庫に納めた。

 吉宗が開店する11時に合わせ店に向かおうとしたそのとき、女将が血相を変えて警察署に駆け込んで来た。

「どうかしました。」

 沖田が声をかけると、女将は「小町がいないの。小町の机の上にこんなものが・・・。」と、声を震わせながら紙を差し出した。

 女将が見せたのは

“ あなたが露天風呂で露な姿を出している写真を持っている。・・・・土曜日午前11時、紺色のトートバッグに10万円を入れて赤森駅まで来い。・・・・“

と書かれた紙と小町が写った写真。

 午前11時まで、あと10分しかない。

 女将を当直長の交通課長に案内すると、交通課長は、当直員と沖田に赤森駅に急行するよう指示した。

 沖田は、一旦保管庫にしまった無線機を取り出すと、駐車場に停めてあった捜査用の覆面パトカーに乗り込み、当直員と一緒に赤森駅に向かった。

 別の当直員が女将から話を聞いたところによると、今日の昼、店を手伝うことになっていた小町が店に降りてこないので、女将が2階の小町の部屋に呼びに上がったが、小町の姿がなかった。

 部屋の片隅にある机の上を見ると、小町が写った写真と一緒に先ほどの紙が置いてあった。

 女将は、紙に警察に言うなと書かれていたため迷ったが、小町は、要求された10万円を持って既に赤森駅に向かったと思い、警察署に駆け込んだ。

 

 赤森駅に急行中、沖田は自分の不甲斐なさを悔やまずにはいられなかった。

 小町は、あの手紙を受け取って以来、脅されていることを誰にも言えず、一人で悩んでいたにちがいない。

 木曜日の夜、小町があゆゆの事件の話をしたのは沖田に気づいて欲しかったからではないのか。

 あのとき、小町は盗撮という言葉に反応した。

 盗撮されたことに覚えがあったのか。

 とすれば、警察に相談したと犯人に知られた時点で、写真がインターネットにアップされる。警察には言えない。沖田にも。

 あぁ、なんで、気づいてやれなかったんだ。

 いつもの小町とはなにか違うと思っていながら・・・。

 

 小町は、恥ずかしさのあまり、両親にさえも相談できなかった。

 木曜日の夜、店に来た沖田に相談しようとも思った。でも、できなかった。

 悩みに悩んだ末、悔しいが、犯人に10万円を渡し、盗撮された写真を返してもらうことを選んだ。

 小町は、金曜日のうちに、預金口座から下ろし現金10万円を用意した。

 大学に進学して以降、アルバイトがてら店の手伝いをして貯めたお金だった。

 金曜日の夜は一睡もできなかった。

 いや、あの手紙が届いてからずっと、眠れない日が続いた。

 土曜日の朝を迎え、小町は意を決するように、秋畑信用金庫の封筒に入れた10万円を犯人の指示どおり、紺色のトートバッグに納めた。

 そして、午前10時30分になるのを待って、赤森駅に向かって家を出た。

 普段あまり着ることのないピンク色のブラウスを着た。

 左肩にトートバッグを掛け、右手にはいつ犯人から電話が掛かってきてもいいようにスマートフォンを握りしめている。

 普段から通学で歩いている赤森駅まで15分程度。

 通いなれたはずの道が、今日はやけに遠い。

 歩いている途中、すれ違う者全てが犯人ではないかと疑心暗鬼になる。

 また、犯人に監視されていると思うと、どこからともない視線で裸にされているような恐怖さえ感じる。

 赤森駅には、時間を調整しながら、指示された11時より5分ほど早く着いた。

 赤森駅は、南側に出入口がある。

 出入口の前に差し掛かろうとしたとき、後方から近づいてきた男が小町の横をすり抜けた。

 男はすれ違い様に、あろうことか小町が肩から提げていたトートバッグを引っ張って奪い取ると、走って逃げた。

「え、犯人?」

 スマホを確認するが、何の着信もない。

 小町は、予想外の展開に、何をどうしてよいか分からず、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 そんなとき、一台のセダンが目の前に止まった。

 車から降りてきたのは、沖田だった。

「小町ちゃん。」

「え。な、なんで。沖田さん。」

 沖田と一緒に急行した当直員は、走り去った男を追いかける。

 しかし、その方向は、古い店や住宅が建ち並び細い路地が交錯する地区。すぐに見失ってしまった。

「至急至急、赤森51から赤森。」

「至急至急、赤森です。どうぞ。」

「恐喝事件の犯人と思われる男が、赤森駅前において、被害者から紺色トートバッグををひったくり、西方向に走って逃走。緊急配備の発令をお願いする。犯人の特徴は・・・・。」

 沖田と一緒に急行した当直員が事件手配の無線を飛ばす。

 この無線を受けて、直ちに緊急配備が発せられた。

 

「小町ちゃん、大丈夫? 怪我はない? 脅迫文を見た女将さんから届出があって。」

 沖田から声を掛けられた小町は、ほっとしたのか、脱け殻のような表情の顔に一筋の涙を伝わせると、声を発することもなく顔を沖田の胸に埋めた。

 小町はしばらくの間、沖田の胸を借りて泣いていが、思い立ったように顔を上げ

「写真!写真はどうなるの?」

と狼狽した。

 犯人にいきなりバッグを奪い取られ、写真と現金を交換する場面もないまま、犯人は逃走した。

 犯人と交渉する手段がない今、写真を回収する術がない。つまり、写真を公開されるかもしれない恐怖は解消されていないのだ。

 沖田は何も言ってやることができなかった。

  

 休日で休んでいる赤森署員も呼び出され、管内の検索が大々的に実施された。

 犯人は、年齢20歳くらいの男性、身長175センチくらい、やせ形。服装は、白地に黒色ストライプの半袖シャツとジーンズ。

 一瞬のことで、小町が犯人の詳細な特徴を把握することはできなかった。

 情報が乏しいなか、懸命の捜索が展開された。

 沖田は、小町を近くの駐在所に案内し、呼び出しを受け駆けつけた刑事課員に引き継いだ。

 まもなくして、刑事課長の上杉健太警部から、捜索中の警察官に捜索エリアの割り当てが行われた。

 沖田は徒歩で駅前周辺を、パトカーでパトロール中の今川巡査部長は沖田とは逆の線路から北側のエリアを、それぞれ捜索するよう指示が出された。

 今川は、沖田の姿を見つけ

「俺が犯人を捕まえてやる。小町ちゃんのハートは俺が絶対にもらうぞぉ。」

と息巻いて走り去っていった。

 今川はパトカーでの捜索だから任されたエリアは沖田に比べてずっと広範囲だ。

(くそぉ、俺もパトカーで捜索したい。)

と沖田は思いながらも、割り当てられたエリアの捜索を全うするしかなかった。

 

 昼前といえば、土曜日で最も駅の利用者が多い時間帯だ。

 少ない情報で、どうやって犯人を見つけ出すか、沖田は思案した。

 とにかく、犯人の人着に似た男を職務質問するしかない。

 駅周辺を歩いている白地に黒色ストライプのシャツとジーンズを着た男を何人か職務質問して住所、氏名、年齢を確認し、無線で前歴等を確認するが、犯人の確証を得るような者はいなかった。

 いなかったというより、ありふれた特徴の男を職務質問し会話しただけで何が分かるのか。

 被質問者の住所や氏名を控えても、後日の捜査資料になることこそあれ、直ぐに犯人を捕まえることなどできない。

 小町のためにも、早く犯人を捕まえて写真を回収しないと・・・。

 沖田は今一度、思案した。

 幸い、唯一間近で犯人の姿を見ている小町は近くの駐在所にいる。

 犯人に似た人着の男を駐在所に連れていき、面割りすればいい。

 沖田は、駅前を歩いている白地に黒色ストライプのシャツ、ジーンズを着た20歳くらいの男に声を掛けると、協力を求め小町がいる駐在所に連れていった。

 そして、事務所の奥から小町にこっそりと顔や姿を確認してもらったが、小町が首を縦に振ることはなかった。

(そうそう、簡単にいく分けない。)

 沖田は、そう自分に言い聞かせ、また外に出ていく。

 沖田はその後、3人の男を小町の元に連れて行ったが、小町はいずれも悩む素振りすら見せず首を横に振った。

 無情に時間だけが過ぎていった。

 

 事件発生から2時間経った。

 犯人がいつまでも犯行現場の駅周辺をうろうろしてるはずがない。

 今頃、現場から離れたところで、奪い取った10万円を数えながらニヤニヤしているにちがいない。

 無線を聞いていると、時間が経つにつれ担当エリアの外を捜索している者が増えていくように見える。

 そんなことを考えていた矢先、無線から今川の声が流れた。

「赤森1から、赤森。」

「赤森です。どうぞ。」

「現在、コンビニ『ポパイ』から出てきた不審な男を発見。男は20歳代で、服装は、白地に黒色ストライプのシャツ、ジーンズ。」

「身柄は確保しているか?」

「現在、パトカー内にて職質中。」

(今川が捕まえた。)

 無線のやり取りから、沖田は直感した。

 

 今川は、事件発生直後から、相勤の年配巡査長とともに、パトカーで指示された赤森駅北側の捜索に当たっていた。

 犯人が逃げた駅の西方向には線路の北側に通じる踏み切りがある。

 今川は思わずニヤリと微笑んだ。

 このエリアは、住宅、アパート、マンション、スーパー、コンビニが建ち並ぶ新興住宅地だ。

 犯人がこのエリアに逃げ込んだ可能性は高い。

 今川たちは道路をパトカーで流しながら、犯人の特徴に合致する男を捜すとともに、スーパーやコンビニに犯人の特徴に似た男が来なかったか聞き込んだ。来店したら通報するよう依頼もしておいた。

 しかし、事件発生から1時間半経っても一向に犯人を見つけることができない。

 業を煮やした今川たちは担当エリア外にも足を伸ばそうと考えた。

 もちろん本署に伺いを立てれば却下されるに決まっている。独断の行動だ。

 犯人は現場から走って逃走したが、自転車や車に乗り換えていると踏んだ今川たちは、国道沿いのコンビニや道の駅を捜して回った。

 3軒目に立ち寄ろうとしたポパイというコンビニだった。

 店から出て来た若い男が、パトカーを見るや急に方向を変えた。

 今川はこれを見逃さなかった。運転していた相勤者にパトカーを停めさせると、助手席から飛び降り男を追いかけた。

 警察官が追ってくるのに気づいた男は、脱兎の如く走り出したが、警察学校で来る日も来る日も走らされた今川にとって男に追いつくのは造作もないことだった。

 男の服装は、手配されている白地に黒色ストライプのシャツにジーンズ。

(やったぁ、見つけた。)

 心の中で今川は叫んだ。

「なぜ逃げた?」

 男は黙して語らない。

 今川は、追従してきたパトカーの後部座席に男を押し込むと、自身もその横に座り職務質問を開始した。

 しかし、男は今川から顔を背けたまま、何ら語ろうとしない。

 このままここで職質を続けても埒が明かない。

 本署の取調室に場所を移し、徹底的に追及するのが得策と踏んだ今川たちは、無線連絡した後、本署に向けハンドルを切った。


 無線で一部始終を聞いていた沖田は悔しがらずにはいられなかった。

(俺も担当エリアの外に足を伸ばすべきだったか。)

 そんな思いが頭をよぎったが、本来、そんな勝手なことは許されない。

 割り当てられたエリアに犯人が潜伏している可能性が高かろうが低かろうが、与えられたエリアを愚直に捜索しなければならない。

 それは単なる消化試合かもしれない。

 例えそうであっても、漏れなく完璧な捜索を成し遂げるには、最後まで、各々が与えられた任務を全うしなけらばならない。

 それが組織捜査の基本だ。

 勝手に担当エリアを離れることは、組織人としてあるまじき行為だ。

 このことは、警察学校で捜査の授業を担当していた上杉健太教官、現赤森警察署刑事課長から徹底して叩き込まれた。

 沖田にとって、指示に背き担当エリア外を勝手に捜すなんてことはあり得ない。

 だが、警察官は捕まえてなんぼ。

 今川を責めてみたところで、負け惜しみでしかないのも事実。

 今川の得意気な顔が目に浮かぶ。

(くそぉ、今川の奴。)

 沖田は、やり場のない憤りを感じると同時に全身から力が抜け落ちたように落胆した。

 このまま捜索を続けるのか。

 本当の消化試合になってしまった。

 だが、指示があるまで持ち場を離れるわけにもいかない。

 だいいち、今川の職質した男が犯人と決まったわけでもない。警察官の姿を見ただけで逃げるような奴はたくさんいる。

 沖田はそう自分に言い聞かせるしかなかった。

(とはいえ、どうしたものか。)

 この消化試合をどう戦うか、思案したが自らを奮い立たせるような策は思いつかなかった。

 気がつくと、沖田は、小町が現金入りのトートバッグをひったくられた現場に立っていた。

 辺りを見渡してみるが、赤森駅は田舎だから人混みと呼べるほどの人は行き来していない。

 今しがた到着した電車の利用客だろうか、駅を出て待っていた車に乗り込む若い女性。次の電車に乗るのか足早に駅に向かって歩いていく男性。そんな日常的な風景の中、沖田の目に留まったのは、線路に沿って駅前を東西に走る県道の歩道に立って、こちらを見ている若い男。

 現場から20メートルくらい離れているだろうか。

 男はジーンズを履いているが、着ているのは真っ白な半袖シャツ。

(違うか。)

 そう思ったが、「声だけでも掛けてみるか。」と思い直し、沖田はその男の方に足を進めた。

 沖田が歩いてくるのを認識した男は、ゆっくりと西の方向に歩き出した。犯人が逃走したのと同じ方向だ。

 男に追いつくと、男のシャツは真っ白ではなく、細いが縦縞が入っているのが分かった。

(ストライプのシャツだ!)

「すいません。」

と声を掛け、右手で男の左肩に手を掛け呼び止めた。

 その刹那、一瞬、男が体を強ばらせた。

(怪しい。)

 沖田は、警察手帳を呈示すると「赤森警察署です。先ほど、事件があって、逃げた犯人を捜してるんですが、ちょっと、話を聞かせてもらえませんか。」と男に協力を求めた。

「は、はい。」

「どちらから来られました?」

「駅の北側の団地ですけど。」

「こちらにはどんな用事で?」

「友達が電車で来るので迎えに。」

「友達は?」

「・・・・。」

「駅に行かないんですか?」

「行きますよ。」

「今、帰ろうとしてませんでした?」

「・・・・。」

「お名前と住所教えてもらっていいですか。」

「なんで言わなくちゃいけないんですか?」

「今、事件があって犯人を捜してるんです。協力していただけませんか。」

「言いたくありません。」

「言えない理由が何かあるんですか?」

「・・・・。」

 しばらく沖田と男の間で押し問答が続いた。

 男の身長は沖田と同じ175センチくらい。年齢も20歳くらいで学生風。犯人の人着に似ている上、名前や住所を言おうとしない。駅に来た目的も定かでない。

 明らかに怪しいが、一旦逃走した犯人が一番危険な犯行現場に戻ってくるだろうか。

 放火事件では、火を着けた後、燃え盛る建物や集まってくる野次馬を見て悦楽に浸るため、犯人が現場に戻ってくることがあると習った。

 果たして恐喝事件やひったくり事件でもそのようなことがあるのだろうか。

 犯人には犯人にしか分からない事情がある、頭で仕事するな。上杉教官の口癖だった。

 このままこの男を放還するわけにはいかない。

「こんな所で話していても人目があるので、そこにある駐在所まで行きましょう。」

「なんで駐在所に行かなくちゃいけないんですか。何も悪いことなんかしてないのに。」

「名前や住所を尋ねても答えないし、待ち合わせてるはずの友達も来ない。警察官としては、納得できるまでお話を伺いたいんです。」

「何も悪いことなんかしてません。」

「人通りのあるこんな所で話すの嫌でしょ。何も悪いことしてないなら、なおさら。」

「・・・・。」

 その後も沖田の説得は続いた。

 男は、頑なに抵抗を示したが、行き交う人の目もあり、渋々、駐在所への任意同行に応じた。

 駐在所に連れて行けば、そこには事件の被害者である小町がいる。

 沖田の頭から消化試合という意識は、もう消え失せていた。

 

 沖田が男を任意同行したとき、駐在所に小町はいなかった。

 今川が職質した男の面割りをするため、本署に向かったらしい。

 沖田は、事務室横の取調室に男を案内すると電話で刑事課に現場付近で犯人像に似た不審な男を職質し駐在所に任意同行したことを報告した。

 電話を受けた刑事課員を介して上杉課長から本署での面割りが終わり次第小町を駐在所に向かわせると返事があった。

 時を同じくして、犯人に似た不審な男が二人、沖田と今川に職務質問された。

 果たして、小町から金を奪い取ったのはどちらか。

 本署で、小町が「この人です。」と言えば、その時点でゲームオーバー。

 同点で迎えたバスケットボールの試合、終了間際に、相手の選手がゴールに向かって放ったロングシュートの行方を見守るような気分だ。運を天に任せるしかない。

 男は、駐在所に来てからも、相変わらず、沖田の質問に歯切れが悪い。都合が悪くなると黙りだ。

 駅に来た理由、電車で来るはずの友達、名前や住所、なに一つ進展しない。

 しかし、「お巡りさんが納得しないと返してもらえませんよねぇ。」と話すなど、駐在所に来る前と比べ、男が少しずつ弱気になってきているのが感じられた。

 そんなとき、駐在所の電話が鳴った。

 上杉刑事課長からだ。

「今川が連れてきた男は犯人じゃなかった。直ぐに被害者をそちらに行かせる。」

 ゴールに向かって放たれたシュートは外れた。天は、沖田に味方した。

 あとワンプレー。沖田はシュートを決めることができるのか。

 

 ほどなく、捜査用車両に送られて小町がやって来た。

 小町が事務室の扉の隙間から取調室を覗くと、部屋の中央に置かれた机の向こう側に、こちらに向かって男が座っていた。

 机の手前側には、見慣れた沖田の背中があった。

 男は俯いたまま動かない。顔が見えない。

 沈黙の時間が流れた。

 しばらくして、「俺の目を見ろ。何も悪いことをしてなかったら、真っ直ぐ見て堂々と話せ。」と沖田がいう。

 この言葉に、仕方なさそうに男が顔を上げた。

 その顔を見た小町は、付き添いの刑事に向かって小さく頷き呟いた。

「この人です。私からトートバッグを奪い取ったのは、この人に間違いありません。」

 試合終了直前のワンプレーで放たれたボールは見事にリンクに吸い込まれた。

 その後、男が沖田の軍門に下るのに、そう時間は掛からなかった。

 小町から奪い取った10万円とトートバッグは、赤森駅北側にある団地の自宅に置いているという。

 刑事と一緒に、男を連れて自宅のワンルームマンションに赴き、居間のテーブルの上に置いてあった秋畑信用金庫の封筒に入った現金10万円とテーブルの脇にあった紺色トートバッグを押収すると、男は恐喝の被疑者として、その場で緊急逮捕された。

 緊急逮捕とは、予め裁判官から発付された逮捕状を示し逮捕するのではなく、逮捕を先行して行い、その後、速やかに逮捕状を請求し裁判官の審判を受ける手続きである。

 刑の重い犯罪を犯した被疑者に対して行うことができる手続きで、逃走や証拠を隠滅される可能性がある場合にのみ許される。

 居間のテーブルの上には、脅迫文に添えられていた写真と同じ小町が振り向いている写真があった。

 しかし、どこを捜しても、露天風呂の写真はない。

「写真はどこだ。露天風呂の写真はどこだぁ!」

 沖田が激しく詰め寄ると被疑者は

「ありません。」

と静かに答えた。

「露天風呂の写真を持っていると書いてたじゃぁないか!」

「あれは嘘です。そんな写真持ってません。」

 それを聞いて、沖田はほっとすると同時に、持ってもいない写真をネタに小町を脅したのかと、この男に対する怒りがピークに達した。

「なにぃ。」

 思わず殴り掛かりそうになったが、一緒にいた刑事に制止された。

 男は、刑事たちによって本署に連行され、事件の動機、犯行計画、犯行後の足取りなど、厳しい取り調べを受けた。


 被疑者の男は、小町と同じ秋畑中央大学に通う21歳の大学生だった。

 男は、母子家庭で育った。

 経済的に決して豊かな暮らしではなかったが、女手ひとつで懸命に生きる母親の背中を見ながら育った真面目て大人しい子だった。

 県外の大学に進学した男は、マンションで独り暮らしを謳歌する周りの学生をよそに、大学の寮で暮らしながらアルバイトをこなす日々が続いた。

 大学生活を自由気ままに満喫する余裕などなかった。

 そんな男にも心を休めることのできるオアシスができた。

 それは、学部は違うが、大学校内で時折見かける小町の存在。

 内気な男には、男女問わずいつも楽しそうに愛想よく振る舞う清廉で気取らない小町の姿がいとおしく映った。

 大学の校内を歩いている小町を見ると、それとなく後を追っていた。スマホでこっそり写真を撮ったこともあった。

 しかし、内気な男に、彼女に話しかける勇気などなく、無情に日々は流れていった。

 大学生活にも慣れ余裕ができた3年生の春、男は意を決し、寮を出てマンション暮らしを始めた。

 大学周辺のマンションは家賃が高い。

 男は、比較的家賃が安い赤森駅北側にある団地のワンルームマンションを選んだ。

 ここなら、電車で二駅、自転車で十分に通える距離だ。

 転居後のある日、偶然、赤森駅で小町の姿を見つけ、彼女が近くの蕎麦屋の娘だと知ったとき、彼女との運命すら感じた。

 しかし、この転居が仇となった。

 3年生になると、就職活動や単位が取れていない講義に時間を取られ、思うようにアルバイトができなくなった。

 家賃を払うと、自由気ままに暮らすどころか、食うにも困る生活を送るようになった。

 経済的に追い込まれた男は、ある日、アイドル歌手あゆゆこと清川あゆの元カレが、交際中に撮ったあゆゆの露な写真をネタに金を脅し取った事件を知る。

 この事件は、元カレという顔見知りの犯行だったから捕まったが、相手が誰だか分からなければ捕まらないのではないか。

 貧しくとも真面目に生きてきた男が、21年目にして、初めて、人の道をはずすことを思いついた瞬間であった。

 そして、こともあろうか、その相手に小町を選んだ。というより、小町以外に選ぶ女性がいなかった。

 声を掛けることさえできない片想い。そんな小町に対するもどかしさが、そうさせたのかもしれない。

 数日前、大学の食堂で、小町が友達と人里離れた露天風呂に行くと話していた。

 露天風呂での露な姿を撮った写真をインターネットにアップすると言えば、きっと上手くいく。

 そう踏んだ男は、真実味を持たせるため、脅迫文に、以前大学の校内でこっそり撮った小町の写真を同封した。

 指定した土曜日の午前11時前、小町は赤森駅にやって来た。

 辺りに警察やボディーガードのような姿も見当たらない。

 男は、そっと小町に近づき、小町が肩から下げていたトートバッグを奪うと、脱兎の如く走って逃げた。

 男は、駅から西方向に走ると、旧来の住宅街をジグザグに走り抜けながら追っ手を確認した後、踏み切りを渡って自宅のワンルームマンションに真っ直ぐ帰った。

 自宅に帰えってトートバッグの中を確認し、10万円が入った封筒を見つけると、座ったまま天井を見上げ大きく息を吐いた。

 犯行を思いついてからは、いかに上手くやるか、それだけが頭を巡り、一所懸命だった。

 練りに練った犯行が成功し安堵すると、全身の力が抜けていった。

 しばらくの間、ボーとしていると、次第に自分が犯したことに対する嫌悪、愚かさが身体を支配していった。

 そしてその気持ちは、犯罪者として追われることへの恐怖、極度の不安に変わっていった。

 成功したのに、逆に心が締め付けられていく。

 男は、気づくと、マンションを出て夢遊病者のように犯行現場である赤森駅に向かって、ゆっくりと歩いていた。

 そして、現場まで20メートルまで来たところで、ふと我に返る。

 何気に、小町からバッグを奪い取った現場の方を見ると、そこからこちらをじっと見ている者がいた。

 男は、くるっと振り返り平静を装って歩き出した。

 しかし、その直後、呼び止められた。

 呼び止めたのは警察官。

 男が「終わった。」と感じた瞬間だった。

 

 沖田が犯人を捕まえたと知った今川は、地団駄を踏んだ。

 今川が職質し連行したのは、コンビニで携帯電話の充電器を万引きした男だった。

 店の外に出たとたん、パトカーが近づいて来るのを見て、思わず走って逃げたのだ。

 さらに、今川は、被疑者の自宅が自分の担当エリアである赤森駅北側の団地だと知った。

 しかも、被疑者は、自分たちがこのエリアを離れた後、ゆっくり歩いて犯行現場である赤森駅に帰って来たと聞き、手で顔を覆いながら悔しがった。

 そんな今川の姿を尻目に、逮捕手続書を書き終えた沖田は上杉刑事課長に呼ばれた。

「沖田、ご苦労さん。よくやったなぁ。

 あの時間、担当エリアを離れず捜索していた者は少なかった。しかも、犯行現場周辺という通常では犯人がいそうにないエリアを。」

「いえ。犯人を捜索する際は、指示されたエリアを責任もって捜せ。自分の任務を全うしろと教えられたのは、上杉教官です。」

「そうかぁ。同じことを教えているのに、担当エリアを離れた奴もいたがなぁ。」

「課長、被疑者はなぜ、現場に舞い戻ったんでしょうか。」

「自分でも分からないそうだ。気がついたら、あそこに立っていたらしい。

 何せ、この事件を起こすまでは、人一倍真面目に生きてきた人間だからな。」

「私も、犯人が現場に舞い戻って来るなんて、放火事件じゃあるまいし、あり得ないと思ってました。」

「なのに、よく声を掛けたなぁ。最初、真っ白なシャツに見えたんだろ。」

「犯人には犯人にしか分からない事情がある、頭で行動するな。と教えられたのも上杉教官です。時間が経って迷いが出てきたとき、上杉教官の言葉を思い出して頑張りました。」

「そうかぁ。そりゃぁ光栄だなぁ。

 ところで、小町ちゃんの調書作成も今終わった。送ってやってくれないか。」

「えっ、私がですか。」

 上杉課長は、ご褒美だと言わんばかり、にこりと笑って見せた。

 

 相談室から出て来た小町は、担当の刑事から現金は全額回収できたこと、露天風呂での写真は存在しなかったことを聞き、平静を取り戻していた。

 しかし、部屋の外で待つ沖田の姿を見たとたん、いろいろな思いが込み上げてきたのか、両目に涙を浮かべながら立ち尽くした。

「沖田さん。ありがとう。

 沖田さんが捕まえてくれたんでしょ。

 木曜日、沖田さんが店に来てくれたとき、相談すればよかった。ごめんなさい。」

「謝ることじゃぁないよ。

 帰ろうか。」

 小町は涙でいっぱいになった顔で頷くと、沖田と一緒にゆっくりと歩き出した。

 

 ―1か月後 ―

 夜勤明けに残務処理を終えた今川は、昼にそば処「吉宗」の暖簾をくぐった。

「いらっしゃいませ。

 あら、今川さん、夜勤明け?」

 女将が出迎えると、今川は、カウンターに座り、親子丼とたぬき蕎麦のセットを注文した。

 10分も経たないうちに女将が注文したランチを持ってきた。

「はい、親子丼とたぬき蕎麦のセットです。」

「今日、小町ちゃんは?」

「ちょっとねぇ。こんなに忙しいのにねぇ。」

 女将は意味深な笑みを浮かべながら一言言うと厨房に消えた。

 その頃、沖田は、私服で本署に登署し、急いで拳銃と無線機を保管庫に納めると、車に飛び乗り、秋畑中央大学前駅に向かって車を走らせた。

 駅に着くと、ピンク色のブラウスを着てトートバッグを肩から提げた小町の姿があった。

 

 ― 完 ―

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― 新着の感想 ―
[良い点] うさぎとかめの童話を思い出すような、その愚直なまでに真面目な性格が功を奏した、一連の事件の顛末にほっとしてしまった程沖田の人柄に好感を覚える作品だと思いました。 しかし、上手くやり込められ…
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