結婚したけど逃げ出したい 15
革のトランクの中は、こっくりとした紺色のビロードの内張りだった。そこに、ポットが一つ、ティーカップ、ソーサーが五客収められている。
「わ…可愛い」
思わず口に出てしまった。
カップの内側は白。外側は淡いミントグリーン、そこに白一色で花の模様が描かれている。
「ケイシーどうしたの?」
「あ、いえ、すごく可愛かったので…」
「どこのもの?」
私はポットやカップをそっと手に取って見つめた。
「…目録にもティーセットとしか書かれていませんが…これ…」
「うん?」
陶器のつるりとした感触を確かめながら、かすかに高揚してきてしまった。
「これ、ツェリコ・ゴーシュ製かもしれません…!」
「へぇ?」
「もう今は無い窯元なんですけどね、人気があるんですよ。繊細な作りなのに華美ではなく!シンプルで可愛らしく!しかもこれは数少ない初期のものではないでしょうか!?年代と共に徐々に色柄が増えていくのですが、後期の物はやや値段が落ちるものの、すでにアンティークとしてマニアの間では垂涎の…」
「…ケイシーわかったよ。これはいいものなんだね」
「すごくいいものですよ!あぁ可愛いですね…!このポットのフォルムも素敵ではないですか…!」
後ろでくすくすと笑い声が聞こえて振り返ると、エリックさんが口元を押さえていた。
「いや、失礼」
「エリック。いいものは好きにしていいと言ったよね?」
「あぁ」
「このティーセットだけ、僕たちがもらおうかな」
「そうしてくれ」
私は目を見開いた。
「い、いいのですか…!?これ結構しますよ?」
「殿下達からの迷惑料だと思ってくれ。だが、しばらくは売らないでくれるとありがたいな」
エリックさんが申し訳なさそうに言うので、私はぶんぶんと首を振った。
「売りません!!売りませんよ!!幻のツェリコ・ゴーシュですよ!う、売るだなんて…!」
カチリとトランクを閉めてトゥーイ君は顔を上げた。
「…だそうだから、出元が明らかになる心配はしなくていいんじゃないかな」
「そういうことなら安心だ。他の物は?」
「あ…他の物は、確かに出来は良いのですが…やはり処分をお勧めします。出来が良すぎて市場が混乱しそうです…」
「そうか。なら早急に処分するとしよう」
「はい」
「ありがとう。助かったよ」
「いえ。お役に立てて良かったです」
私がそう言うと、エリックさんはふっと口元を緩めた。
「アデルが、またいつでも来て欲しいと言っていたよ」
「まぁ…!!本当ですか!?ご迷惑をおかけしましたのに」
「君たちが帰ってしまって寂しがったくらいだよ。君は義弟の奥方だし、とても面白いからと」
「面白い…?」
憧れの女神様に言われるなら吝かではないが、何故だろう。普通に過ごしていたつもりなのだが。トゥーイ君がぽんぽんと私の肩を叩いた。
「アデル様は良い趣味しているよ」
「誉めてるんですよね?」
「もちろん」
無事に仕事を終えた私達は帰ることにした。
ガラガラと倉庫を閉めながらエリックさんが振り返った。
「そういうことだから、また気軽にダグラス家に来てくれ」
「はい」
「僕もお邪魔するね」
にこりと笑ったトゥーイ君に、エリックさんは眉を寄せてこう言った。
「…まぁ、トゥーイならいいだろう…」
「…君も案外嫉妬深いよねぇ」
「見守る会の奴らは、いまだにしつこくアデルに手紙を寄こしてきたり、夜会で声をかけてくるんだぞ」
「高嶺の花をかっさらったんだから、我慢しなよ」
「俺を選んだのは、アデルなんだけどな?」
「さらっと惚気るのやめてくれる?」
「事実を述べたまでだ」
「はいはい。じゃあ僕達は帰るからね」
「あぁ、またな」
エリックさんに別れを告げて私達は王宮を後にしたが、途中で街に寄ってから帰ることにした。殿下との謁見や美術品の鑑定を終えて興奮状態の私を落ち着かせるために、トゥーイ君がカフェに誘ってくれたのだ。
この噴水広場の見えるカフェテラスは私達のお気に入りだ。
いつもの席に座り少し気分が落ち着いてきたら、またもやもやと違和感が襲ってきた。
素晴らしいティーセットを手に入れた割には、浮かない顔をしている私を気遣ったのだろう、メニューを開きながらトゥーイ君が話しかけてきた。
「なんだか悩んでる?」
「え?いえ、悩んでいるというか、腑に落ちないというか…」
「どういうこと?」
私はこの違和感が何か分からず気持ちが悪かった。
「ええと…目録を見た時に違和感があって…」
「違和感?違法な物ばかりだったことが?」
「何といえばいいのでしょう。品物の種類が…」
「…種類?」
その時、ウェイターが愛想よく盆を運んできた。
「失礼いたします。ウインナーコーヒーとカフェオレ、それにデザート盛り合わせです。こちら、手前から季節のフルーツタルト、ガトーショコラ、焼き菓子に…」
トゥーイ君が驚いて言った。
「待ってくれ、違うテーブルと間違えていないか?僕達はまだ注文していない」
「はい、あちらの方がお出しするようにと」
ウェイターが体をずらすと、私達から少し離れたところに座っていた見慣れない男性が軽く手を上げた。
丁寧に皿を並べると、ウェイターは去って行った。
それを見ると、男性は席を立って近づいてきた。
思いのほか背が高い。私達よりは年上だろう、眼鏡をかけていて知的な雰囲気だ。癖のある黒髪をふんわりと七三にしている。それにスリーピースのスーツがよく似合っていた。
(なんでこの人が私達に…?というか、誰でしょう?)
トゥーイ君の知り合いなのかと伺ったが、心当たりは無さそうだ。
だが、じっとその男性を見つめているとどこかで見たことがありそうな気がした。
(でも…どこで?)
この男性一人と会ったのだろうか、いや、誰かと一緒にいたはず。でも、私は彼らと会話した記憶はない。
(そうだ、私は街で見かけたんだ。あれは確か…)
彼は物腰丁寧に声をかけてきた。
「失礼。ここ、座っても?」
あっけにとられる私達と同じテーブルについた彼とぱちりと目が合って、私は自然と口を開いた。
「…どうしてですか?リシャードさん」
笑みを浮かべたまま、彼は意外そうな顔をして言った。
「おや、その名前を知っているんですか」
そう、彼はハウンド運輸商会の社長に付き添っていた人物だった。
「あなたは、ハウンド運輸商会の方ですね?」
「当たりです」
トゥーイ君は訝し気に眉を顰めた。
「ハウンド運輸商会の…?僕たちに何か用ですか?」
その質問にふっと目を細めると、彼はがらりと口調を変えた。
「はは。『お嬢さん』のほうが、付き合いはあったつもりだけどな」
「お、お嬢さん…!?」
「こうしたほうがわかるか?」
彼は眼鏡を外してくしゃくしゃと髪型を崩した。
「「あ…!」」
黒髪に黒目のその男は、にやりと口の端を上げた。先ほどとは全く印象が変わったその顔は、別の人物の名前を思い出させた。
「「…ラシャド!?」」
名前を呼んだ私達に、彼はおどけたように腕を広げた。
「ご名答。髪型と服装で分からなくなるもんだな。まぁ、親しくなけりゃ気が付かないか」
「お前、よく僕たちの前に顔を出せたな…!」
「だから、これはお詫びだよ。俺のおごりだって」
「安すぎるだろ。僕達は命の危険もあったんだぞ」
彼はちらりとテーブルに目を落とした。
見事に私とトゥーイ君の好みと合致したメニュー。何故知っているのだろう。
「他にも詫びの品はあるさ。あぁ、私に紅茶を」
自分用に紅茶をウェイターに注文し、彼はざっくりと髪型を戻して眼鏡をかけなおした。それだけでまた雰囲気が変わるのだから見事なものだ。
今の様子は、とても闇組織のリーダーだったとは思えない風情だ。まるで有能なビジネスマン。それを見て、ふと私は閃いた。
「…あなたは、組織を無くすためにあんなことを?」
「ん?…あんたはお嬢さんの奥方だな」
私はため息をついて彼を見た。彼は面白そうに私を見ている。
「…何とお呼びすればいいですか?」
「そうだな。今はラシャドと」
「ラシャドさん、あなたはあの倉庫街から闇組織を一掃するために私達を利用したのではないですか?」
「半分当たり」
それを聞いてトゥーイ君が厳しい目を向けた。
「なんだと…!?」
「落ち着いてくれよ。誘拐を実行したのは俺じゃない。赤蛇だろう?」
紅茶を運んできたウェイターにラシャドは愛想よく笑った。
「そうするように誘導したのは貴方でしょう?」
「…どこまでわかってる?」
「わかってなどいません。ただ、思いついただけです。顔を出した以上、答え合わせをしていただけるのでしょう」
「まぁ、世話になったしな」
ラシャドさんは紅茶に砂糖を入れて機嫌良さそうに口を付けたが、トゥーイ君は憮然としてカフェオレを飲んでいた。
私は、頭を整理してから口を開いた。