結婚したけど逃げ出したい 7
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たぷたぷと船べりに水の当たる音が聞こえる。
小型の船は、静かにゆっくりと川の流れに沿って進んでいた。
ソヴェト国を流れるこの大きな川は、朝早くから多くの船が行き交っている。
荷を積んだ船があるかと思えば、観光船も多い。だが、王都を抜けるととたんに観光船はいなくなる。船の多くは、ソヴェトの各地に荷を運ぶために船を走らせているのだ。
この船には、何人かの若い漕ぎ手が乗っていた。
そのうちの一人の男が、川の流れのその先をじっと見つめていた。
そろそろこの辺で、検問があるのだ。
進んでいくと、教会の旗をはためかせた船がすでに何艘もの船を止めており、教会の騎士がうろうろと船の上を歩き回っていた。
(まったくご苦労なことだ…)
騎士達は荷を確認すると、次々と船を通している。
ここだけではない。今やこの国の王都に出入りするためには陸路であってもこのように厳しい検問があるのだ。
教会のお偉方は、何かを探しているらしい。
男は、自分が乗っている船に積まれている荷物をちらりと見た。
いくつか積まれた木箱。これも全部見せなければならないのだろう。
教会にとって都合の悪い物や人が出入りしないよう、厳しく制限しているのだから。
船室の中から、男の雇い主が出てきた。
「あ、バチェクさん、そろそろ船が止められます」
「あぁ、わかってる」
「大丈夫でしょうか」
「なに、心配いらんよ」
雇い主である優し気なこの老人は、口髭のある口元に笑みを湛えて、近づいてくる教会騎士達を見つめた。
男は気が気ではなかった。今日積んでいる荷物の中に、騎士団が見つけ出そうと躍起になっているものがあるらしいのだから。荷物が何なのかは、男は知らなかった。バチェクだけが知っており、男達は船に積んだだけなのだ。
(もし見つかってしまったら…)
この船の船員もろとも教会騎士団の私刑に合うに違いない。
どくどくと緊張で心臓が高鳴っているのがわかった。
そうしている間に船が近づいてきて、教会騎士の一人が、乱暴に船に乗り込んできた。
バチェクは誰何を問われた後、船の目的地などを聞かれていた。
「では、荷を開けろ」
「えぇ、少しお待ちを」
釘で止められた蓋を、わざわざ開けろというのだから横暴だ。
しかも全て見せろと言う。
男はバチェクに言われて次々と木箱の蓋を開けた。騎士の一人が覗き込むと、中には干した果物がたくさん入っていた。そして、おもむろにその中に手を突っ込むと、木箱の中をまさぐった。
男はヒヤリとした。
「あぁ!品物が傷んじまう!」
思わず口にすると、騎士はぎろりと睨んできた。
「なんだ、反抗的だな」
「すみません。後で言っておきますから…」
バチェクが申し訳なさそうに頭を下げたが、騎士はじろじろと船を目で探っていた。
「あの船室も見せてもらおう」
「…どうぞ」
バチェクが船室の扉を開けると、そこにも大きめの木箱が置いてあった。
だが、それには蓋がしておらず毛布や汚れた衣服が乱雑にはみ出していた。
「あれはなんだ」
「あぁ、あれは我々の汚れもの入れです」
「…っち」
どうやらそこに手を突っ込むことはためらわれたらしい。騎士は木箱を一度乱暴に蹴ると、耳を澄ませた。特に何も怪しい音がしなかったからか、騎士はそのまま船を下りて行った。
バチェクはそれを静かに見送ると、「急げ」とだけ命令して船室に入っていった。
男の心臓はまだ早鐘を打っていた。
いつの間にか、冷たい汗が脇を濡らしている。
(良かった、見つからなかった…!ここを抜ければ、後はパライアまで行くだけだ)
どうやったか知らないが、バチェクは上手く品物を偽装したらしい。あの人は、そういうふうにしていろんなものを隠して運んできたのだ。
ぐずぐずしていてまた騎士団に目をつけられては叶わない。
この船に乗っている者達は、皆腕に覚えはあるが、さすがに教会騎士団相手に品物を守りながら逃げ切るのは難しいだろう。男は他の漕ぎ手に声をかけて、急いでこの場を離れることにした。
バチェクは船室に入ると、安堵の息を吐いた。
コツコツコツと木箱を叩くと、もぞっと毛布が動いた。
毛布が盛り上がってきて、汚れものがばさばさと木箱から溢れてくる。
中から現れたのは、人間だ。
「…もういいのか?」
「えぇ、奴らの検問は抜けました」
「そうか…」
その人物を見て、バチェクは目を細めた。
「よく声をあげませんでしたね」
「あれは蹴られたのか?さすがに驚いたぞ」
「そうです」
「無事通り抜けられたのならいいさ」
「まぁ、まだまだその木箱に入っていてもらいますがね」
そう言うと、木箱の中の人物は露骨に顔を顰めた。
「…もう汚れものは入れないでくれよ」
「わかってますよ」
再びその人物が毛布にくるまると、バチェクはそっと蓋をした。
〇〇〇
一体、あれからどれだけ進んだのだろう、ここから外は見えない。
私は木箱の中にいて、船の人間にも見えないように隠されているのだ。
(もうソヴェトを出たのだろうか…)
生まれ育ったソヴェト国から離れて行くことに、不安と安堵がないまぜになる。
本音を言えば、母国を離れたくはなかったが、命の危険があったのだから離れざるを得なかった。
(亡命か…まさか自分がすることになるとは…)
ごそりと寝返りを打つと、薄い毛布が体からずり落ちた。
私は顔を顰めた。節々が痛むのだ。
ずっと狭い木箱の中に入れられているのだから当たり前だ。
その時、コツコツコツと木箱が叩かれた。
「もうじき、パライアへはいります」
「…わかった」
私は細く息を吐いた。船に乗った後、何度か荷を改められ、その度に身を縮めていたのだ。どうやら無事に国外に出ることができるらしい。
(さすがバチェクだな…)
亡命を決めた時、一番に頼ったのがこの男だった。物腰柔らかで、ぱっと見は気弱そうな老人に見えるこの男は、長年ソヴェトで荷運びの仕事をしていた。
依頼する場合、通常よりかなり高額な金額をふっかけられる。だが、その金を払えば、なんでも運んでくれる。そして、その荷は確実に目的地に届けられる。この男とその仲間は、荷を安全に運ぶことにかけては一流だ。
荷物は古い本であったり、宝石であったり、違法な薬物だったりした。金さえ払えば、それが違法な物だろうが何だろうがお構いなしだ。そう、例え荷が人であっても。
私はゆっくりと目を瞑った。
あまりよく眠れていなかったからか、眠気がきていた。それから少し眠ってしまったらしい。再びコツコツコツと音がして、はっと目が覚めた。
「一度、陸に上がりますよ」
「え…?」
驚いているうちに、ごとごとと船が何かにぶつかる音がした。船着き場に船をつけたらしい。
そして、足音がいくつか聞こえるとぐらっと木箱が大きく揺れた。どうやら、私が入った木箱は持ち上げられて、どこかに運ばれているのだ。
(…どういうことだ?このまま船で一気にコーウェンへ抜けると思っていたのに…)
誰もしゃべらないため、どういうことなのか全くわからない。
やがて、ゆっくりと木箱が床に置かれる感覚がした後、不意に木箱が開かれた。
「もう、出てきても大丈夫ですよ」
顔を覗かせたのは白髪頭のバチェクだ。私はそろりと体を起こした。そこは見慣れぬ部屋だった。ずっと暗闇にいたため、灯された明かりが目に眩しい。
「…ここはどこだ?」
「パライアの河川沿いです」
「何故船を下りた?」
「…さすがに国外となると私らも通りにくいのでね。少し手伝いをお願いしてあったんですよ。休憩もとりたかったですし」
「手伝い…!?一体誰に…情報が洩れたらどうするつもりだ!?」
「ご心配なく。そんな阿呆には頼んでおりません」
「バチェク…!」
「うかつに名を呼ばないように」
「す、すまない」
部屋の中には、バチェクと私しかいなかった。
一緒に船を操っていた者の姿も見えない。別の部屋にいるのだろうか。
私は、その者たちにも会っていない。バチェクは徹底して私の姿を隠している。きっと、運んでいる者達も、私が何者かは聞かされていないに違いない。知らなければ伝えられないからだ。
もう夜なのだろう。窓の外は真っ暗だった。ぽつりぽつりと遠くに街灯が見える。ぼんやりとそれを見ていると、バチェクはカーテンを引いてしまった。
「少し休憩したら、船と漕ぎ手を変えてコーウェンまで進みます」
「なぜわざわざそんなことを…」
「船一つでも国ごとに特徴がありましてね。目立たないように変えていくんですよ」
「そうなのか」
「ソヴェトを抜ければ、そう気を張らなくてもいいのですが、念には念を入れてと思いましてね。これが最後の仕事ですし」
「すまないな…」
「何、最後の荷物があなたとは、面白いものです」
ゆったりと微笑んだ老人が、善人でないことはよく分かっている。
この荷運び業が、誰の手も汚れないはずがない。事実、商売敵や返り討ちにした悪漢をどうのこうのしたという話も聞いたことがある。
それでも、私はこのバチェクが嫌いではなかった。偶然、お互いの身分を隠して友人となってから、そしてお互いが何者であるかわかってからも、私はこの年の離れた友人と縁を切らなかった。引退すると聞いていたが、無理を承知でこの亡命の手引きを頼んだのだ。
彼は、私の財産を報酬にして、ソヴェトからコーウェンまでの旅路を共にしている。まさか、誰かに手伝いを頼んでいるとは思わなかった。しかも、パライアの人間に頼んでいるようだ。
「パライアの協力者は何者なんだ?」
「…お聞きにならない方がいいでしょう。お互い必要以上のことは知らない方がいいのです」
「さすがに、私の事情は知っているんだろう?」
「話したのは一人だけです。彼は口が堅いですからね」
「他の者は知らないのか?」
「そう。知らなければ伝わりません」
「お前がよく言っていたな…」
「まぁ、私もそれなりの報酬を相手に用意しましたからね。取引は上手くいきますよ」
「ならいいんだが」
小一時間ほどで部屋の扉がノックされた。だが誰も入ってこない。
「さぁ、用意が出来たようです。またここにはいってください」
「…わかった」
私は、再びこの使い込まれた木箱に潜り込んだ。
蓋が閉められると、部屋の扉が開く音がして、私は再び持ち上げられた。またしばらく移動したようだ。
静かに木箱が置かれると、もう何の音もしなかった。
(…次の船に運び込まれたのだろうか…?)
それにしてはやけに静かだ。バチェクの声もしない。
私は不安になりながら、それでもただ静かにしていることしかできなかった。
私がここにいることが誰かにバレたら、大変なことになるのだから。