商会の次男は暗躍する 6
どうにか彼女を泣き止ませると、僕は見るともなしにパラパラとノートをめくっていった。
すると、今まで大人しくしていた彼女がばっとノートを奪い取った。
そしてしっかりと腕に抱え込むとこの世の終わりのような顔をして僕を見つめている。
(ありゃ、取られちゃった)
彼女がへたりこんでいるので、僕はずっと片膝立ちだった。少々辛くなってきたし女性を床に座らせておくわけにもいかない。
ひとまず立ち上がって見下ろすと、彼女は驚いた顔をしていた。
だが彼女は立ち上がる気配がないので、ひょいと両腕を持って引き上げるとなんとか壁を背にして立ってくれた。
僕が一歩彼女に近づくと、彼女は壁にへばりつくように体をのけぞらせた。
「ワトソンさん?」
「はぃ…」
「それって観察日記だよね?」
僕が指先でノートに触れると、彼女はぎゅっとノートを抱き締めた。
「え…と…」
「女神って誰?」
「うっ」
「皆にばらしてもいいのかな?」
にっこりと微笑んでやると、彼女が負けたといった様子で口を開いた。
「女神は…あ…アデル・ハワード様ですぅ」
「なんでアデル様を観察してるの?」
「え!?」
「何か、企んでるの?」
僕がすっと目を眇めると、彼女は慌てたように首を振った。
「ち…違います!私…私、そんなことしません!だって、私はアデル・ハワード様を崇めているんです―――!!」
「はぁ…?」
彼女はぐっと口を引き締めると、一気に説明をしてくれた。
「まずあの方の容姿です!金の巻き毛はふわふわでいつも綺麗に結ってありますし、睫毛も金です。それに瞳は琥珀色ですよ!?薔薇色の頬につんとした鼻!艶めかしい唇!華奢な体!公爵家という身分にもかかわらずお優しく聡明で、おまけに才媛です!!こんなに完璧な女性いらっしゃいますか!?崇めずにはいられないではないですか!!」
「え?う、うん?」
どうやら、彼女はアデル様の信奉者らしい。入学してアデル様を一目見て落ちてしまったのだそうだ。それで、このような観察日記をつけるに至ったらしい。
「私、あの方の魅力を、そして一挙手一投足を記録したくって――。これは、ワトソン家の業と言いますか…」
ワトソン子爵家は細々と美術商を営んでおり、代々美しいモノを好む者が多いのだそうだ。
だが、ハマるものは一族でも人によって違うらしく、あるものは絵画、あるものは宝石などバラバラなため、それぞれがその審美眼を磨き商売に役立てているそうだ。だが、気に入った物は採算度外視で購入してしまったりするので、あまり資金繰りは良くないらしい。
ケイシーはそれまでこれといって気に入るものがなかったらしく、今までは満遍なく美術品の鑑定を学んでいたのだとか。しかし、この学園でアデル様に会って分かったらしい。
「私、美しい方を見るのにハマってしまったんです…」
それで、学園に入学してからは見目の麗しい子息・令嬢を観察するのが趣味になったのだそう。そして、その彼女の中でトップに君臨しているのがアデル様なのだ。
「今まで出会えていなかっただけで、女神はいたのです…」
彼女は、いつの間にかうっとりと語る姿勢になっている。
そして、『見るのが好き』が向上して読唇術まで会得したというのだから驚きだ。だから離れていても口元が見えれば大体の会話内容がわかるらしい。
そして、地味な外見を利用してどこにでもさりげなく身をおけるので、十分に観察をできるのだと言っていた。うん、怖い。
ちょっと引いてしまったが、まだ知りたいことはある。
「…あと、見守る会って書いてあったけど、なにそれ?」
「あ、見守る会はアデル様を見守っているだけですので害はないです…」
「え?」
「ええっと、非公式ですがアデル様のファンクラブです」
「公式のファンクラブがあるの…?」
「ゴールドスタイン君の『親衛隊』がそうじゃないんですか?」
「あ、一応あれは公式なのか…」
「ご本人が了解されているのであれば…」
「あー僕のことはどうでもいいんだけど、アデル様に不利益なことは無いんだね?」
「ええ。皆さん恋い焦がれておいでですけど。暴走すると危険なので男子生徒は抜け駆けしないよう会員規定を作っていますね。まぁそもそもハワード様は殿下の婚約者なのですが…」
「会員規定…」
「はい。破ると袋叩きです」
「…えーっと、エリックは大丈夫なのかな?けっこうアデル様の近くにいるけど」
「あぁ、ダグラス様は別枠です。『騎士』の称号を得ていますので大丈夫です」
「『騎士』ね…」
「はい。あの方はハワード様の幼馴染で王子殿下のご友人ということですし、ハワード様をお守りするには一番ふさわしい方です。それに、今のところ手を出す様子もみられないので…。ですが、もし様子が変われば闇討ちされるかもしれません…」
彼女はそう言うと悲しそうに眉根を寄せた。
エリックはエリックでお気に入りの部類らしい。
「そ、そうなんだ…」
僕は『見守る会』とやらの厳しさに慄いた。
彼女は趣味と実益を兼ねて見守る会の書記を担っているらしい。
「アデル・ハワード様…本当に最高の女性です…!!」
ケイシーは、もはやさっきまで怯えていたとは思えないほど恍惚としている。
「あー、うん。そうなんだ。うん。僕はてっきり何か企んでいるのかと思ったよ…」
ポエムじゃなくて観察日記だったが、アデル様に害が無いのであればそれでいい。
なんとなくワトソン家の闇を見た気がするが、これ以上つっこむのはやめようと気を取り直した。そしていずれ、ワトソン家との商売を検討しようと心に決めた。それぞれがケイシーのように入れ込んで美術品を収集しているのなら、きっとそれは価値があるものだろう。その情報を両親に伝えるだけでも次の商売のヒントになる。
「君は、アデル様の害にはならないね?」
「はい。私は決してハワード様を裏切ったりしません!!こっそりそのお姿を見ていられるだけでいいのです…!!そして、その美しさや可愛らしさ、聡明さを書き綴っていくのです!」
「う、うん…」
一人の人間をここまで心酔させるアデル様も怖い。
きらきらと目を輝かせていた彼女だったが、はっと僕の顔を見た。
「え、そ、そして、私、内容を白状しましたので、このこと、黙っていてくださいますか…?」
僕は、ちらりともう一つ条件をつけてみることにした。
「じゃあ、もしアデル様を見ていて、アデル様やルーイ王子殿下、それにエリックが関わることで何か不穏な噂があったら僕に教えてくれる?」
「え…?」
「僕は、あの三人を恩人だと思ってるんだ。あの三人は下手なことをしないと思うけど、周りはどうかわからない。三人とも無事に卒業してほしいからね」
割と学園内の情報は知っていると思っていたが、僕の知らないところにアデル様の『見守る会』があるなど思ってもみなかった。ケイシーであれば、また別なところから情報を得られるだろうと思って言ってみたのだ。
すると彼女はぱっと顔を輝かせた。
「は…はい。わかりました!おまかせください!」
「うん。それなら、誰にも言わないから大丈夫だよ」
「ありがとうございます!そうなれば、私しっかり観察しておきますね!!」
「うん?」
「大丈夫です!観察対象を増やすのは苦ではありません!!」
「え?そんなつもりじゃ…」
「新しくノートを買わなくては!ではこれで失礼します!」
「ワトソンさん!?」
何やら彼女は使命を帯びた表情で走り去ってしまった。
「えーと…僕は何かのスイッチを押してしまったのかな…?」
いや、彼女は幸せそうだったので大丈夫だろう。そう納得させて僕も家路を急いだ。
家について、ふと気が付いた。
「あ、妖精って誰か聞けばよかった…」
まぁ、機会があればまた聞いてみよう。同じクラスだし話す機会はある。
ケイシー・ワトソンの意外な一面を知ってしまって心がざわついたが、今のところ誰の不利益にもなっていない。それに、あの感じだと彼女が本気を出せばアデル様周囲の問題は、かなり早い段階で救い上げられるだろう。
(恩人たちには卒業まで穏やかに過ごして欲しいからね。ケイシーが何か企んでいなくてよかったなー)
僕はこの時、重要な手駒を手に入れたことにまだ気がついていなかった。
彼女に観察対象を与える。この判断が後で大きく状況を変えるのだ。
あの時、彼女に目をつけて本当に良かった。