令嬢は婚約破棄される
突然の婚約破棄は、パーティー会場を静まり返らせた。
王子がリンデル嬢に愛を告げ、次は婚約を発表するという時に、リンデル嬢は案の定ダッシュで逃げた。リンデル嬢も、良い勘している。だがもう全ては遅いのだ。
抜け道と俊足を駆使して、王子は先んじてフォーン男爵家の馬車で待ち構えるだろう。
後は、彼のしたいことをするだけだ。
わたくしはと言えば。
婚約破棄に驚いて倒れたふりをしたわたくしは、エリックは抱き留められていた。
もはや、天にも昇るような気持だった。
(やっと殿下から解放されましたわ!しかもエリックがそばにいる!!)
だがわたくしも、勝負はここからなのだ。
エリックは、わたくしを大広間の控室の一つに連れて行ってくれた。
そしてソファに優しく寝かせてくれる。
彼は、跪いて顔を近くに寄せて、わたくしのことを気遣ってくれた。
こんな時の彼の睫毛は、少しだけ震えるのだ。
「アデル、大丈夫か?」
「えぇ、少し驚いてしまって…」
「殿下が、まさかあんなことをするとは…リンデルとは、噂の男爵令嬢だな?」
「そうですわね」
「殿下には…君という婚約者がいるのに…」
エリックから王子を責めるような言葉を聞くとは思わなかった。やはり、あんな面前で見せ物であるかのように婚約破棄をしたのだから、王家への忠誠の厚いエリックでも思うところがあるらしい。
わたくしは、横たわったまま、エリックを見つめた。
「…けれど、これでわたくしも自由の身ですわ」
「アデル、本当にいいのか?長年殿下のそばにいたのに…」
「いいもなにも、わたくしは幼いころから何も変わってはおりませんもの…」
わたくしがそう言うと、彼ははっと目を瞠った。
鳶色の瞳が揺らいでいる。
(…ここですわね!!)
「わたくしは…」
大事な一言を言いかけた途端に、控室のドアがコンコンとノックされた。
ドアが開かれない代わりに、裏手に馬車の手配ができたと、くぐもった声がする。
エリックが人目を避けられるよう、従者に言いつけていたらしい。エリックは、弾かれたようにドアに近づいて行った。
せっかくの心配りだが、いいところで邪魔が入ってしまった。
わたくしは静かに目を閉じた。
冷静にならなければ。
ここで間違えてはいけないのだ。
エリックは一言二言従者と話すと、わたくしのそばに戻ってきた。
その表情には焦りが浮かんでいる。ゆっくり話す暇はないようだ。
(これは、一度仕切りなおして後日エリックと会ったほうがよろしいわね)
エリックは、なんとしてもわたくしを人目から逃れさせたいようだ。
こんな時だからこそ思う。エリックはなんて思いやりがあって優しいのだろう。
わたくしが好奇の目にさらされないように心を尽くしてくれる。
「アデル。ひとまず馬車へ。早く学園から出よう」
「えぇ」
起き上がろうとしたわたくしを制して、エリックは無言でわたくしを抱き上げた。
「エリック…!?わたくしもう歩けます!」
倒れるふりをしただけなのだから、本当に元気いっぱいなのだ。
「だめだ。ふらつくと危ない」
エリックは渋面を作ると、わたくしをお姫様抱っこしたまま学園の裏口に向かい、用意された馬車にさっさと乗り込んでしまった。
座席に座らされ、お向かいにエリックが座るのかと思いきや、エリックはわたくしの隣に腰を下ろした。思わぬ展開におろおろと視線を彷徨わせると、優しく、でも有無を言わせぬ様子でエリックに肩を抱かれて寄りかからされてしまった。
(きゃあぁぁ~~~~!肩に手が!いや体が密着!?ちょっと待ってくださいませ!!)
よく悲鳴が出なかったと思う。
だってこんなに近くで触れ合うなんて、さっき抱き上げられたのを除けば幼少期以来。それも隣り合って本を読むとか、手をつないで歩いたくらいなのだ。
こんな密着はしたことがない。微かにエリックの体臭に交じってムスクの香りがする。
頭がくらくらした。
そして、今気付いたが、イブニングドレスを着ているわたくしの肩はむき出しになっているのだ。
素肌に感じる彼の手を、意識しないではいられない。
心臓が飛び出るほど高鳴っているのが、エリックにも聞こえるのではないかと不安になる。
こっそりとエリックを見上げると、薄暗いため表情が読めない。
ただ、彼は口を一文字に結んで、前を見ていた。
馬車は、速やかにハワード公爵家のタウンハウスへと滑り込んだ。
先触れも出してあったのか、父上と母上が迎えに出てきていた。
「アデル、おかえりなさい。大変だったわね」
「誰かと思えばエリックか、アデルに付き添ってくれてありがとう。すまないね」
「ただいま戻りましたわ。父上、母上、ご心配おかけしました」
わたくしがそう言って、馬車から降りて歩き出そうとすると、なぜかまたエリックに止められてしまった。
「アデル、俺につかまって」
「え…………?」
少し悩んでエリックの腕にそっと手を置くと、違うと首を振られた。
どういうこと?と見上げると、エリックはわたくしの背中と膝裏に腕を回し、さっと抱き上げてしまった。父上と母上は目を丸くしていた。
エリックが再びわたくしを抱き上げてしまったので、親の前でお姫様抱っこされて、馬車から家の中まで練り歩かれると言う羞恥プレイを味わってしまった。
(こ、これは恥ずかしいですわ…両親も、使用人たちも、ぽかんとしてますわ!!はっ!あのなかなか表情の変わらない執事まで!?)
わたくしたちは、なんとか自分を取り戻した執事に促され、応接室へ誘導された。
父上はなんともいえない表情でわたくしたちを見ているが、母上は喜色満面でお茶の指示を出し始めた。
(母上、わたくし一応、たった今婚約破棄されたのですけども…)
母上はなぜそんなにはしゃぐのだと呆然と見ていると、ふわりとソファに降ろされた。
エリックの手が、去り際にするりと背中を撫でたような気がして、ぞくりとした。
父上が、エリックの労をねぎらい、席に座るよう勧めると彼はまたわたくしの隣に座った。
その部屋の人間全ての目が、エリックとわたくしに集まるのがわかった。
(な…なぜまた隣に座るんですの!?)
いや、嬉しい。嬉しいけれども。
今日は、きちんとエリックに感謝を伝えて帰ってもらい、わたくしも一度口説き文句を練り直してから、後日エリックに会おうと思っていたのに。
わたくしは、無言のエリックに恐る恐る声をかけた。
「エリック…?」
「ハワード公爵閣下、公爵夫人、お話があります」
エリックは、わたくしに応えず、両親へ声をかけた。いつもは穏やかな表情なのに、硬く強張っている。
(どうしたのでしょう。こんなお顔はみたことありませんわ…)
眼差しの強い精悍な顔が強張ると、見ようによっては冷えた怒気をまとっているようにも見えるのだ。
わたくしは、エリックを静かに見つめることしかできなかった。
エリック頑張ります!