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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ホラー

裏野ハイツ201号室『流しの下にあるものは誰も知らない』

作者: 瑞月風花

 

「行ってらっしゃい」


神崎伸江(かんざきのぶえ)は、ベランダから手を振り、赤いランドセルの女の子に微笑みかけた。女の子は僅かに顔を上げるが、手は振り返さない。


 テレビの音に混じり、お湯の沸く音が聞こえ、伸江は「よいしょ」と声を掛け、薄暗い部屋の中に戻って行った。


 台所にはあまり使わなくなった一口のカセットコンロがあり、流しの下には、伸江が大切に付け込んだ梅酒のような瓶が保管されている。伸江は毎日その瓶を覗いては、ため息をついていた。今日も変わらない日々が始まるのだ。


 伸江は、一合炊きのお櫃に残っている白飯を茶碗によそい、沸かしたお湯を掛け、壁に向かって啜り始める。ベランダの光が届く洋室に比べ、食卓にしている台所はさらに薄暗い。しかし、電気を点けようと思ったことはなかった。食べている物は毎日同じものだし、見えても見えなくても伸江は気にしなかった。


「あぁ、そうそう」


独り言を言って立ち上がった伸江は小さな冷蔵庫の扉を開き、キュウリとナスの浅漬けを取り出した。食卓に戻った伸江の口からは、ポリポリと言う音が響く。


 伸江がこのハイツに移り住んでから、かれこれ25年になるだろうか。彼女は運命に引き摺られるようにして、ここ裏野ハイツへの引っ越しを決めた。当時はまだこのハイツも築5年と新しく、伸江もまだまだ若かった。しかし、バリバリ働く気にはなれなかった。


 伸江は小さな工場での事務員をしていた。家賃を払えて、簡素な食事さえ出来れば十分だった。仕事なんてそんなものだということにもう少し早く気づいていれば、と伸江は今でも後悔している。


 水道の蛇口を捻ると伸江は茶碗を洗い始めた。湯漬けと言うこともあり、一人分の食器を洗うのにかかる時間は、物の数秒だった。蛇口を閉じて、水に濡れた手を前掛けで拭くと、伸江は壁に向かって話しかけていた。


「みっちゃん、彩のことは心配しないでおくれよ」


伸江の視線の先には何らへんてつのない白い壁があるだけで、ベランダから見える景色は暑さで揺れ始めていた。


 仕事を退職してからの伸江の日課は、二駅向こうで乗り換えて、その更に一駅向こうの住宅街の公園を巡ることだった。娘の光代が小さい頃はよく近所を回って遊ばせていたものだった。そんな公園に着くと、木陰のベンチに座り、お茶を啜りながら休憩するのだ。ただ、あの頃と違い、暑い日中子どもを遊ばせている主婦はおらず、時々、保育園の散歩に出くわすくらいだった。


 あの頃と違い、…………。


 伸江は一人で光代を生んで、育てていた。仕事を辞めることの出来る身分でもなく、子育てを辞めることも出来ず、板挟みになっていた。ただ、選びさえしなければ、職はすぐに見付かった。しかし、子どもの熱が続き、休みが増えると、すぐに離職させられた。それは悪循環としか言えない。腰かけ程度にしか働いていない社員に対して、同情の目は誰もくれず、単なる厄介者になるのだ。例えば、長く勤めて、多少信頼関係があって、家族ぐるみで付き合ってくれるような会社があれば、伸江の気持ちも少しは楽になっていたかもしれない。


 本当に光代には可哀そうな思いをさせた。伸江はそんなことを思い出しながら、誰もいない公園の遊具を見つめ続けた。


 夕刻になる前に伸江は最寄駅に辿り着いていた。同刻の電車に乗っていたのか、103の奥さんに出会った。


「こんにちは」


伸江はゆっくりとお辞儀をした。急に声を掛けられて、驚いた顔の奥さんはそれが伸江だと気付き、微笑み顔になる。


「あら、こんにちは、伸江さん。今から保育園にお迎えなんです」


「それはたいへんですねぇ。小さい頃はいろいろありますもの」


「そうなんです。この間も急な熱で呼び出されてしまって……」


苦笑交じりの奥さんに伸江も同調する。


「でも、熱は怖いですよ。失明することだってありますもの」


奥さんは「大袈裟なぁ」という表情を浮かべながら、伸江に合わせた。


「そういえばヘレンケラーって熱で耳が聞こえなくなりましたよね、確か」


今度は伸江が愛想笑いをした。


「呼び止めてしまってごめんなさいね」


「いえいえ、じゃあ、お気を付けて」


奥さんと別れた伸江は、少し遠回りをして、スーパーへと向かった。そこであのランドセルの女の子に出会った。


 それは、伸江が絹ごし豆腐とねぎを買って出て来た時だった。女の子は背負っているランドセルをさらに手に持つ形で両手を塞ぎ、ひたすら前に進んでいた。ただ、その顔は前を見ていない。そして、それは彼女の通学路からは随分離れていた。


 伸江はそれに追いつこうと少し足を速めた。


 しかし、元気な子どもの足に、齢を重ね過ぎた足は敵わなかった。その上赤信号で差をつけられてしまい、もう彼女の姿すら見えなくなった。伸江はとぼとぼと帰路へとついた。


 夕方のニュースで明日は雨だと言っていた。


 伸江は今日買ってきたネギの根っこ部分を瓶に差して、ベランダに出しておいた。


 翌日、伸江は雨の音で目が覚めた。雨が規則正しいのか、ばらばらなのか分からない規則性をもって、伸江の耳に届いてくる。予報通りの雨だ。目を開けても、光のない部屋は伸江の心を映しているようだった。


「全く、こんなになるんなら、和室の部屋を探すべきだったわ」


洋室に布団を敷いて寝ている伸江は、腰を摩り、布団を畳み始めた。しかし、若い子にとっては、きっと洋室にベッド、という形が理想だったのだろう。伸江は、「そうだよね」とやはり、壁に向かって微笑んだ。そして、ネギが伸びてきたら『彩』に見せてあげようと、ベランダへの窓を開けた。(ひさし)のある部分でも、雨の飛沫を浴びているが、無事なようだった。もうしばらくすると、登校する子供たちの傘の花が灰色の景色に色を添え始める。


 伸江は雨を見つめながら、彼らが通るのを待っていた。半時は経っただろう。伸江のシャツも少し雨飛沫に濡れていた。


「行ってらっしゃい」


そう呟いて、赤い傘が通るのを見送った。


 癖のようにテレビのスイッチを入れた伸江は部屋の中の掃除を始めた。掃除機をかけて、濡れてしまったシャツを脱いで、洗濯に回した。雨の日は全く洗濯が乾かないので、コインランドリーまで乾燥機にかけに行かなければならない。伸江は洗濯が終わるのを待つためにお茶を淹れた。


「あぁ、そうそう」


伸江は、自分の記憶を手繰り寄せ、にこりとした。お茶請けにちょうど羊羹があったのだ。伸江は包丁で棒状の羊羹を二切れ切って、そのうちの一切れを口に放り込み、もう一切れを皿に残しておいた。


「残りは彩の分に置いておこうね」


伸江はやはり壁に向かい話しかける。そして、流しの下を確かめる。


 洗濯終了の電気音が伸江の耳に届いた。伸江は洗濯機の中で縮こまっているそれらをスーパーの袋に入れて、玄関を出た。


「ここの悪い所は、階段に屋根がないところだわ……」


傘を片手に、それこそ一段一段慎重に下りなくては、足を滑らせてしまうこと必至だった。


「あぁ。伸江さん、おはようございます」


101号室に住んでいる男性が伸江に声を掛けた。伸江は階段を下りることに集中したいこともあり、一瞬だけ、彼に微笑みかけた後、再び足元に注意を向けた。


「雨だと二階は大変でしょう?」


階段を全て下りてしまった伸江は微笑み直して、「そうでもないですよ」と答えた。


「部屋が全部埋まっていない分気が楽ですよ」


101号室の住人は、軽く笑った。


「洗濯ですか?」


伸江の持つスーパーの袋に気付いて、彼は「こんな日は大変ですよね」と言う。


「えぇ、全く乾かなくて。部屋には乾燥機がないから」


にっこりと笑った伸江に、彼は「気を付けて行ってらっしゃい」と伸江を見送った。


 雨は降り続いていた。伸江はコインランドリーの硬い椅子に座りながら「帰りにコンビニにでも寄ってパンでも買おうかしら」と考えていた。洗濯物はまだ乾燥機の中で振り回されていた。


 コンビニ帰り、雨は小雨になっていた。スーパーの袋の中にはふかふかになった衣類、コンビニの小さな袋には菓子パンが入ってある。そして、視線の先に赤いランドセルを見つけた。


 女の子は傘を差さず、とぼとぼ歩いていた。こんな時間に出会うなんて……。伸江は急いで、彼女に駆け寄った。



 伸江はいつも通りの朝を迎えていた。外が異様に騒がしかったが、伸江はそれを気にすることなく、お湯漬けを啜り、お漬物を噛んでいた。大きなため息が出そうで出ない。そして、その視線の先にはスナップ写真があった。彩の写る写真には‘86・9・3と刻印されていて、裏面には『新しいお家、裏野ハイツ202号室」と光代の字で書かれてあった。


「みっちゃん、ごめんね……許して……。だから、いつでも取りに来て。彩の目はきっと見えるようになるわ」


伸江は、壁に向かって光代に懺悔し続ける。


 光代は伸江と同じように若くして女の子を一人生んだ。男女雇用機会均等法が施行され、バブル真っただ中の時代だったとはいえ、子育てと仕事の両立なんて、考えられていなかった時代だった。きっと、光代は肩身の狭い思いをしていたのだろう。伸江は今でも後悔している。どうしてあの時、仕事を辞めることが出来なかったのだろうと。どうして、一人で子供を生むと決めた娘を突き放してしまったのだろうと。そして、光代はここに住んで間もなく他界した。警察から電話をもらい、児童福祉施設まで『彩』を引き取りに行った。その時の彩の目は伸江の頭の中で鮮やかな記憶となっていた。


「ねぇ。みっちゃん」


……あの時仕事を放り出していれば、彩が麻疹をこじらせることはなかった。

……麻疹をこじらせなければ、彩が失明することもなかった。

……あの時私が傍にいれば、彩が階段から落ちてしまうことはなかった。


「ばあちゃん、まって……」


伸江の耳の奥ではたった二歳だった彩の声が鮮明に残っている。


テレビからはこんなニュースが流れていた。


今日未明、小学生の女児の死体が発見されました。女児は眼球を抜かれた状態で発見されましたが、ほかに外傷はなく、女児の持ち物とされる赤いランドセルもその傍に放置されていました。警察は顔見知りの犯行ではないかと捜査を進め、住民に警戒を呼び掛けるとともに、昨日の女児の足取りを確認している模様です。


 評論家の一人が、以前にも同じような事件がありましたね、と誰かに同意を求めていた。


 もちろん、伸江の耳には届かない。


 そして、流しの下の瓶の中の球体が増えたことは、誰も知らない。



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[良い点] 冒頭の何気ない日常の時点で不穏な気配がチラホラ感じられて、ずーっと胸がざわついてました(癖になる感覚) 流しの下とか戸棚の中とか……独り暮らしだと本当に誰の目にも付かないですし、身近だか…
[良い点] 日常に何気なくひそむ狂気って、ほんの小さなボタンの掛け違いから生まれると思うのですが、この作品はそれが見事に表現されていたと思います。老婆の懺悔の日々を描いたのかと思いきや、最後のぞっとす…
[一言] こ、怖い……((((;゜Д゜))))))) 大浜 英彰さんの割烹で「あ、読みそびれてるホラーだ!」と思って楽しい気持ちで読み始めたらゾッとしました。 ……そもそもホラーなのに楽しい気持ちで読…
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