紅に染まる思考
「また、やったんですか」
頭上から溜息が降って来たから、ゆっくりと重い瞼をこじ開けた。
そこにはやっぱりというか何と言うか、彼がいた。
呆れた顔をして私を見下ろす彼。
私はあー、と視線を流して頷く。
彼は二度目の溜息を漏らして、私の上に乗ったり部屋中に散らばっている原稿用紙を拾い上げた。
端の方に書かれている番号通りに揃えているらしく、トントン、と角を揃えるような音が聞こえる。
その間も私はうつらうつらと船を漕ぎながら、重い瞼を閉じたり開いたり……。
「寝ないで下さい」
また声が降ってくる。
彼が私の頭のある方向に座っていて、私の目を見ながら眉間にシワを寄せた。
怒ってるなぁ、不機嫌だなぁ、と他人事のように考えながら彼の言葉を待つ。
「何で毎回足なんですか」
「……手は、小説を書くでしょう?」
「辞めるって考えはないんですか」
「……どっちを?」
「足の方に決まってるでしょう」
「……無理だよ」
今にも眠りに落ちてしまいそうなままで答える。
ふわふわとした微睡みが気持ちいい。
でも彼はそうじゃない。
微睡んでないしむしろ機嫌は最悪。
理由は全て私にあるけれど。
淡々とした彼の質問に、とろとろ返す私。
会話になっているだけまだいい。
ちゃんと自分の考えを言えているし、彼の言葉を頭に入って認識されるから。
もう寝ようかな、と思っていると突然彼がぐしゃりと私の髪を乱す。
何だろう、と視線をやれば彼は立ち上がって私の足元へ。
ぬらりとした感触に驚いて足が跳ねる。
「え、何々」
足を上げたままの状態でだるい体を起こす。
腕が体重を支える時間制限をしているらしく、プルプルしていて危ない。
彼と目が合うとビックリして体重を支えていた手が滑って、後ろに倒れて後頭部を勢い良く打ち付けた。
今ので脳細胞がだいぶ死んだんじゃないかと思うくらい痛い。
ズキズキと痛む部分を押さえながら、再度起き上がって彼を見た。
口元についた赤を舐めている。
その赤は私の血液で私の足から流れたものだ。
先程のぬらりとした感触は彼の舌だったようで、何となく足が熱を持ったような気がした。
「何で舐めてるの」
「何で放置してるんですか」
質問に質問で返されると少し複雑だ。
彼は彼で眉間にシワを寄せたまま、私の足を睨んでいる。
足の付け根に近い太ももからタラタラと血液が流れていて、ショーパンやフローリングが汚れてしまっていた。
「切るのはいつだって楽だけど、片付けるとはいつだって面倒だよね」
ふるふる、と首を横に振りながら言えば彼の目元が引きつった。
その顔怖いなぁ、でもイケメンさんだなぁ、と考えていると体が浮いてベッドに放り投げられる。
ぼすん、と音を立てて私を受け止めてくれるベッド。
沈んだ体を起こしていると、彼が棚から救急箱を取り出してベッドの近くにやって来る。
本当に世話焼きだなぁ、と思う反面、言い表せない感謝が胸に宿る。
「リストカット以上ですよ。ある意味」
彼の言葉にそうだねぇ、と返す。
残念ながら私は生まれてから一度もリストカットなるものをしたことがない。
その代わりと言わんばかりに足を切る。
と言っても太ももの辺りだが。
今日はなかなか太い血管のある場所だったらしく、どうにもこうにも血の出が多い。
そのおかげでいつも以上に後始末が面倒で、そのまま床に転がっていたのだが、そこに彼がやって来て怒られたというわけだ。
毎度毎度迷惑をかけているな。
「血が出てるとね、ぼんやりするの」
溢れ出る赤をタオルで押さえている彼に言葉を投げた。
彼は視線だけを静かに上げて私を見る。
当たり前だろう、と言わんばかりの顔をしている。
「でも、頭がスッと冷えるような感覚が一瞬して、ふわふわするの。とろとろ流れる血を見てると、凄く書きたくなるの」
へらりと笑って見せれば、それとは対照的に彼は苦虫を噛み潰したような顔になる。
イケメンが台無しだ、なんて思っても言わない。
今言ったら余計に怒られるから。
彼の顔を見て口を噤む私は、そのまま上半身をベッドへと沈めた。
足は相変わらず彼の方に投げ出していて、彼がその足を掴んで手当をする。
粗方血を拭き終わったらしく、ガチャガチャと救急箱から何かを取り出していた。
その音が止んだ次の瞬間、何とも言い表せない感触が私の足を襲って「ひょわえ?!」と情けない悲鳴を上げる。
ぬるっとした感触と、ヒンヤリとした感覚と、ピリッとした感覚と、ビリッとした痛みと、スースーする感覚など色んなものが何か分からずに、上半身を曲げて彼を見れば消毒液を持っていた。
あぁ、消毒か。
理解出来ると力が抜けて元の体制に戻る。
何となく治療の仕方が雑な気もしなくはないが、私が自分でつけた傷だから文句は言えまい。
そもそも、私に自傷癖があるのかと問われれば答えに迷うところなのだ。
別段死にたいとも思ったことがなく、そこまで生きていたいとこだわることもない。
人間いつかは死ぬのだ。
それが早いか遅いかや死に方の違いだけ。
では、何故足を切るのか。
まず単純に手は切れないから。
小説を書くのに手は必須だからというのもあるし、力加減を間違えたり繰り返しして神経まで届いたら困る。
それに足の傷は隠せる。
そして何よりの理由か思考が漂うからだ。
余計なことを考えることがなくなるのだ。
勿論血を抜いているからだけれど、先程も言った通りそうすると小説を書きやすくなる。
ふわふわした頭は物語を書くのには丁度いい。
スルスルと包帯を巻かれる感覚に目を閉じる。
まだ頭の中がふわふわしているらしい。
それにとろとろとした睡魔が私を包む。
程良い貧血というのは心地の良いものだ。
「いつか死にそうです」
パシリ、と包帯を巻き終えたらしい彼がその部分を叩いた。
セクハラだ、なんて思ったけれど眠くて口が開かない。
彼の感情か上手く読み取れないけれど、何か返さなくちゃ。
そう思いながらも私の世界は閉じられた。
「にんげ、ん。いつかは、しぬ、よ」
「……そうですけど、ね」