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終奏

「アルト」


空ろな両の瞳に、俺が写る――前に、アルトは腕を薙いだ。

突き飛ばされた俺は、背中から床に叩きつけられる。

その一瞬で、アルトは左手で俺の腕を抑え、アルトの右手の先は俺の左眼に向けられていた。

このままいけば俺の眼球は一突きで消える。無駄のない殺人行為だ。

その瞳はまるで、ガラス球みたいだった。


「ごめんな、アルト」


どうしてこうなったのかなんて考えたくなかった。

孤独だったと言う二文字で済まされない日々を過ごしてきたのだろう。

寂しくて、つらくて、自分を責める日々を、俺が想像できるだろうか?


こんなにまで、アルトが傷ついたのなら俺だって傷つくべきだ。

気づかなかった俺だって、知らなかった俺にも、

アルトの背中の十字架を背負う資格がある。

深い後悔、深い懺悔が込み上げてくる。

戻れない過去を、悔やんでも仕方がないのに。


「ない、と」

 

瞳の色が、人間みたいになっていく。感情が宿る。


…驚愕、疑念、確信、羞恥、…後悔。


俺にはそれが自分の瞳のように読めた。

アルトはさっと、礼服のネクタイを解き、自分の首にかける。


「だめだ、アルト!」


俺の声に素早く松方さんが反応し、ネクタイを後ろからぐいと引っ張る。

ネクタイを放したその手に、がちんと手錠をかけた。

――血塗れの手が、誰も傷つけないために。


「み…見せたくなかった…」


ぎりぎりと唇を噛み、コンクリートの床に頭を激しく打ち付ける。


「ずっと、秘密にして…こんな、人間じゃない、よね。こんなの…見ないで、知らないでほしかった…

誰よりも、ナイトには……絶対に…絶対に、

―――ナイトにだけはっ…!」


慟哭どうこく

俺が拭っても、拭いきれない溢れる涙と血。

俺も痛かった。

心が辛く悲鳴を上げて、アルトから眼を逸らしたくなった。


でも、何も知らないままでいたかったとは、思わない。

一緒に向き合おう。

俺だってお前がいなくて、傷ついていなかったわけじゃないけれど、俺には母さんがいた。俺を支えてくれる誰かがいたんだ。

アルトには、父さんしかいなかったんだろう。

そしてあの父さんが、まさかアルトに優しくしてくれるなんてことは、考えられない。

息子のことを愛しているとは思う、けれど。

…でもあの人は、愛情を前面に表現する人じゃない。むしろ意図的に出さず、厳しく接する。


じゃあ、アルトはずっと独りだったに違いない。


俺は部屋の外においてきた黒革のケースを手に持つ。

顔を埋めて泣くアルトの肩を、松方さんはそっと抱いている。


静寂。

アルトはおそらく知っている。

俺は演奏する前にいつも意識を整えるから。

閉じていた瞳を、開ける。


調律。

さすがに石張りの個室だといつもと音の響き方が違う。

その辺も注意しながら、いつもの旋律を辿る。

アルトの肩がゆれ、その顔があげられる。


…血と涙で汚れたその顔。

何かを求めている、飢えているような顔。


きっと父さんは、この顔が嫌いだったのだろう。

今なら、父さんのことが分かる。

でも、俺は俺なりのやり方で、アルトに接する。


――そして、一気に、心を決めて。


 ヴァイオリンの弦が揺れ、空気が震える。

壁に散り散りに霧散していく音の波。

徐々に侵入していく音の風は、抵抗なく細胞の全てに通り抜け、遺伝子一つ残さず全身に音が廻っていく。

血液のように、愛情みたいに、それは暖かい。


誰から聞いたかは忘れてしまったけれど、ヴァイオリンの音色は、人の声に最も近いのだという。

だから俺は、ヴァイオリンの声に乗せて、アルトに言った。


 どうか自分を傷つけないで。


 それは、君のせいじゃない。


 俺と一緒に、強くなろう、アルト。


誰もそう言ってやらなかったのだろう。

乗り越えろ、一人じゃないと。


だから、アルトは『責める』ことを選んだ。それは弱いことかもしれないけれど。

…でも俺たちはまだ、変わることができる。





「…やっぱり、ナイトのヴァイオリンって、好き」

 

演奏が終わって浮かんだ表情は、あの笑顔だった。


こだまする悲しい音のヴァイオリンが、アルトの心を溶かしたのかもしれない。


「テープなんかに録らせないぞ」


きょとんとするアルト。


「俺は生演奏しかやらない主義なんだ」


その言葉に、松方さんも微笑んでいた。


「隠し録り、しちゃお」


相変わらず、アルトの笑顔はヒマワリみたいだった。





刑務所にヴァイオリンが響き渡ったあの日。

あれからアルトが血にまみれる日は、ぴたりと、やんだ。


父さんはこのことに驚いて、アルトの治療だけでなく患者への治療措置につなげるために、音楽療法の取り組みに力を入れ始めた。

おかげで俺はアルトの前だけでなく、他の患者や父さんの前で弦を揺らす毎日。

心なしか父さんも丸くなった気がする…だけ。

たぶん共有する時間が増えているから、自分の中で以前より遠い存在ではなくなったんだろう。


今ではすっかりよくなった母さんのほうが、病院の経営を切り盛りしている。

父さんと母さんがどうなるかは分からないけれど、アルトと一緒に時間を共有できているなら、どんな形でも幸せだ。

 


「ナイトってコンクールとか出ないの?」


そう言って、アルトは音楽室の、いつもの椅子に座る。


「俺の演奏会場は、ここなんだよ」


そして今日も、俺はアルトのために調律を始める。

惜しみなく、たった一人に、


―――愛情を乗せて。                    



終わり

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