雪に吼ゆるもの (三)
母が死んでから一年の時が経った。鬼童丸が独りで迎える初めての冬が訪れた頃のこと、彼は既に、人だけでなく妖にも恐れられる存在となっていた。
逆手に太刀を持ち、理由もなく人や妖を襲う鬼。それはその肉を食らうためではなく、ただ殺すことだけを目的としていた。
いくつもの亡骸を積み上げた。それで母が帰って来る訳ではないと知っていながら、母を裏切った世を許せずにただ太刀を握り続けた。
そんな日々の中で、鬼童丸はある妖からそれを聞いた。源頼光に討ち取られたとされる大江山の鬼の群れ、その中に唯一人生き残った鬼がいると。
その名は茨木童子。酒呑童子の右腕であったとされる鬼。
母の全てを狂わせたという酒呑童子の隣にいた鬼が、未だに生きている。鬼童丸にそれを許せるはずがなかった。
鬼童丸は茨木童子を仇と定めた。母のため、その命を奪うと決めた。それはただ生きる理由を欲していたのかもしれぬ。
母のいない世界で、母のために生きることはできぬとどこかでは知っていたのに。
鬼童丸は妖を襲い、茨木童子の情報を集めた。そして彼が鞍馬山に向かうことを知った鬼童丸は、その道中において牛を殺し、その皮を被った。身を隠し、そして降り積もる雪から身を守るため。
幾日掛かっても構わなかった。茨木童子を殺すことができれば、母は喜んでくれるはず。母を故郷から連れ去り、そして鬼の子の母という呪いを掛けたのは、大江山の鬼たちなのだから。
二つの夜を過ぎ、三度の夜が訪れた頃、鬼童丸は妖気を感じた。今までに感じたことのない強い妖気だった。
その妖気に怯むことなく、鬼童丸は太刀を逆手に握った。それが正しい刀の使い方ではないと知っていたが、母のために獲物を捌くときにはいつも刃物をこうして逆手に握っていた。母のために何かを殺すのならば、これでなければいけないと己の中で決めていた。
妖気が鬼童丸の間合いに入る。彼は牛の皮を脱ぎ棄て、目の前の片腕の鬼へと躍り掛かった。
茨木童子は腰の左右に太刀を佩き、一人夜道を歩いていた。向かうは鞍馬山。あの山には妖が多くいる。その中から新たな仲間を探すことができればと思っていたが、その道中に微かな妖気を感じ、茨木は立ち止った。
隠してはいるようだが、慣れてはおらぬようで妖気の出所は簡単に分かった。強い敵意も感じる。また自分を狙う妖か。しかし幼稚な隠れ方だ。牛の皮を被っただけで誤魔化せると思っているのか。
酒呑童子が死して以来、茨木を狙う妖は多くいた。己の力を誇示するためか、それとも大江山の妖に怨みがあるのか、それは分からぬが、襲って来るものは返り討ちにした。まだ立ち止まる所ではない。
道の側にいた牛が動き出し、中から刀を持った鬼が飛び掛かって来た時にも驚きはしなかった。右手で太刀を引き抜き、逆手に握られた相手の刀に叩き付ける。
その一撃で相手の鬼の刀は弾き飛ばされ、鬼も地面に転がった。
まだ童の鬼だろうと、茨木はその鬼を見て思う。体は人であれば大人に匹敵するが、まだ顔が幼い。それなのに、底知れぬ憎悪をその鬼の中に感じた。そして微かな懐かしさも。
冬の月に雪は照らされ、静けさに染まる地の上で、二人の鬼は対峙する。
「童よ、何の真似だ」
茨木は鋭い目で睨む鬼の童にそう問う。
「お前、茨木童子だな?」
逆に問われ、茨木は頷いた。
「ならば?」
「なら、母様のためにお前を殺さなくちゃならない……!」
童は弾かれ、地に突き刺さった刀へと手を伸ばすが、茨木の刃がそれを遮った。怨みがましい目で鬼の子は茨木を見る。
「母のため?貴様の母は大江山の妖にでも殺されたのか?」
「そんなものじゃない……。鬼に捕われ、この俺を身籠ったことで全てを狂わせられたんだ……!」
怨嗟の籠る目は暗い光を帯び、鬼の童の妖気が増す。
「だからお前を殺さなくちゃならない!お前が生きていたら母様が浮かばれないんだよ!」
怨みの叫びとともに伸びる爪を後ろに跳んで避け、茨木は相手を見た。鬼の子……、そうだ、この童はよく似ている。
かつての主、酒呑童子に。
「そうか、お前は酒呑童子様の忘れ形見か。生きていたとはな」
大江山が陥落した際、逃がれた女の中に酒呑童子の子を宿したものがいたという話は聞いたことがあった。しかし人の世ならば生まれることも許されずに殺されたのだろうと思ってもいたのだが。
この齢になるまで生きていたということは、様々な苦難があったことだろう。鬼子として生まれた茨木にもそれは想像できた。
その上母親は、この鬼の子を見捨てなかったのか。それ故に己と母の二つの憎悪をその身に背負い、生き残りである自分を怨んでいるのかもしれぬ。最もなことだと茨木は思う。
「そうだ!お前たちさえいなければ母様は苦しむことなどなかったんだ……。俺など産む必要もなかったんだ!」
鬼と人の子は再び茨木に飛び掛かるが、茨木は太刀の峰を叩き付け、その体を地に沈めた。
「いくつ積んでも母のため……か。近頃人や妖を無差別に襲う鬼と噂になっていたのは貴様だな」
死した母のため、いくつもの亡骸を積み上げる鬼の子。茨木は咳き込む半鬼半人の子太刀の先を向け、に問う。
「復讐などと言うが、今の貴様は弱い。この片腕の俺にさえ勝てぬ程にな。だが俺もお前を殺す気はない。お前、名を何と言う」
「……鬼童丸。お前を殺すものの名だ!」
「心意気だけは認めてやる」
その決して屈しない姿に、茨木は酒呑童子の姿を重ねる。鬼童丸と名乗った鬼は、恐らく父である酒呑童子のことを最も憎んでいるであろう。しかし、茨木には彼の子である鬼童丸を殺すことはできない。
「酒呑童子様の子であるならば、俺にも責がある。付いて来い。面倒は見てやる」
「誰がお前なんぞの世話に!」
「どちらにせよ今のお前に力はない。俺とともに来て、力を付け、俺を殺せるまでになれば良い。いつでも受けて立ってやる」
茨木は言った。鬼童丸から感じる歪さは、恐らく己の生さえもどうでも良いと思っていることから来るものだ。この鬼は鬼の子として生まれた己をも責めている。だからあんな無謀な戦いができたのだろう。このまま放っておけば、近いうちに死ぬ。
酒呑童子の残した忘れ形見。行き場のない自分を酒呑童子が拾ってくれたように、茨木童子もこの鬼童丸を拾い、世話をすることに決めた。
「絶対に……殺してやるからな!」
「できるものならな」
茨木は鬼童丸に背を向け、歩き出す。
鬼を怨む鬼の子。酒呑童子ならば豪快に笑い飛ばし、子を受け入れたことだろう。自分では酒呑童子の代わりにはなれぬ。だが、どんなに怨まれていても良い。酒呑童子の子を見捨てることは出来なかった。
母を亡くし、その仇を取ろうと足掻くその姿を己と重ねてしまったこともあったのだろう。鬼童丸を魔道に落とした責を償えるのは、生き残った自分にしかできぬこと、茨木童子はそう己の中に思う。
力で負けた以上、鬼童丸は茨木童子に従った。
自分を殺そうというものを己の側に置いておこうとする茨木童子の考えは分からぬ。
だが、力及ばぬ以上は茨木童子の元に下るより他はなかった。己の無力を噛み締めながら、鬼童丸は茨木童子の背を睨む。
「言っておく、俺は鬼として生きるつもりはない」
「ならば、何として生きる。人か?」
茨木は鬼童丸を振り返り、問うた。
「俺は鬼でも人でもない!そんなものと一緒になって堪るものか!」
「己の中に流るる二つの血を拒むか。難儀な生き方だ。まあお前の好きなように生きろ。俺はそれに口は挟まん」
茨木童子は言い、そして前を向いて歩き出す。酒呑童子の右腕だった鬼。自分がその主の子であるから、命を絶たなかったのか。
父を憎む鬼童丸にとってそれは屈辱だった。それは父に命を救われたことということにもなる。だから、己の生き方でそれを乗り越えると決めた。
人も妖も否定できるような強い力が欲しいと、そう願う。そんな力があれば母を救えたかもしれぬ。だがそれはもう過ぎたこと。
この世の全てに抗う力を付けるため、今はこの鬼の元に下るのだ。鬼童丸はそう己に言い聞かせた。妖でも人でもないものとして生きられるようになるために。
雪は人と鬼の子へと降り続ける。鬼童丸に春は来ない。彼は己で選んだ雪原の道を、ただ独り歩むことに決めたのだから。
異形紹介
・鬼童丸
『古今著聞集』に見られる鬼。酒呑童子討伐で知られる武将・源頼光が弟・源頼信の家を訪れた際、厠に囚われていた鬼が鬼童丸だという。
頼光は鎖でしっかりと縛っておくように言うが、鬼童丸は鎖をたやすく引き千切り、翌日市原野において牛を殺し、その中に隠れて鞍馬山へ向かうという頼光を待ち伏せする。
しかし頼光にその待ち伏せを見破られ、彼が渡辺綱に矢を射らせたことで牛から出てきたところを頼光に一刀のもとに切り捨てられたと言う。
また、京都府知山市雲原の口碑においては鬼童丸の出生が伝わっており、それによれば彼の母は大江山の酒呑童子に囚われていた女の一人で、頼光によって酒呑童子が倒されたときに際に彼の子を身ごもっており、発狂して故郷を忘れ、雲原で子を産んだのだと言う。それが鬼童丸であり、彼は酒呑童子の仇として頼光を狙ったのだそうだ。
『前太平記』にも鬼童丸についての記述があり、それによれば比叡山の稚児であったが、悪行により比叡山を追われ、洞穴に移り住んで盗賊になったのだという。
このように鬼童丸の伝承は現在にも伝わっているが、江戸時代には鳥山石燕や歌川国芳が鬼童丸の姿を描き、また曲亭馬琴が『四天王剿盗異録』の中に登場させている。また、近年では漫画『ぬらりひょんの孫』中において茨木童子とともに京妖怪として登場を果たした。