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― 黄泉夜譚 外伝 ―  作者: 朝里 樹
雪に吼ゆるもの
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雪に吼ゆるもの (二)

 幾日かの間、母と子はその洞穴の中で過ごした。鬼童丸は山に出て獣を狩り、その肉を焼いて母に食べさせたが、母の体は日に日に弱って行った。

 洞穴では母の体を休めるのには限界があった。元々悪かった母の体は、鬼童丸でも分かる程の早さで壊れて行く。それを見るのは心が張り裂けんばかりの想いだったが、それでもどうにかして母を助けることができると、鬼童丸は信じていた。信じずにはいられなかった。

 季節は冬が近付いている。次第に動物の姿も少なくなっていた。それでも鬼童丸は山の中を走り回り、母のために食物を獲った。消えて行く母の命の灯火を少しでも長引かせるために、ただ己のできることをした。

 それなのに母は少しずつ、その命を削って行く。




 稲成姫が子に抱えられ、武士(もののふ)たちから逃げて七日経っていた。

 稲成姫はもう自分と変わらぬほど大きくなってしまった息子を膝に抱いていた。日は高く昇っているはずなのに、厚い雲が空を覆い、その光を通さない。

 そして、そんな空を眺めている間にも白いものが雲から降って来る。雪だ。冬がやって来た。

 鬼童丸とともにその訪れを見た、六度目の冬だった。

「鬼童丸、見て、雪ですよ」

「本当だ」

 鬼童丸はその濁りのない瞳に淡雪を映す。稲成姫は子を愛おしそうに抱きしめる。

 もう自分の命が残り少ないことは分かっていた。今の自分にできることは、子に想いを注ぐことだけだった。

 本当にこの子は大きく、強くなった。この子を産むと決めた時から、どんな困難が来ることも覚悟していた。確かに生きるのは難儀だった。それでも、鬼童丸が側にいてくれたから辛くはなかった。

「母様、どうして母様と僕は人に追われるの?」

 鬼童丸は瞳を母に向け、問う。稲成姫は決意した。この子が一人で生きていくためには、その生まれを知っておかねばならぬだろう。それも母としての務め。

「鬼童丸、あなたはね、人である私と、鬼との間に生まれた子なのです。その鬼は酒呑童子と言って、とても強い鬼だった」

 稲成姫は鬼童丸の髪を撫でてそう答えた。望んで身籠った子ではなかった。だけれど、今はこの新たな命を与えられたことに感謝している。

「その鬼はたくさんの人に恐れられて、退治されました。だからその子供であるあなたが狙われる。あなたには、何の罪もないのに」

 稲成姫は息子を抱きしめる。その体はとても暖かい。この子を残して逝くのは、本当に心残りだった。 自分は、この子の母として相応しい女だっただろうか。薄れ行く意識の中、そんな思いが過る。

 いつかこの子も、人の目から隠れることなく生きていける日が来るのだろうか。私がいなくても、ずっと笑って日々を生きられるような。

 稲成姫はそんな行く末を願い、そして空へと目を向ける。

「ねえ鬼童丸、雪はね、空から降る白い花なのです」

 ずっと昔、まだ京にいた頃、そんな話を聞いた。暖かな春は人々の希望。それを望むことが、子を残し消える母にも許されるだろうか。

 淡く降る雪は地の落ちてすぐに消えてしまうが、それでも少しずつ積もり続け、やがて雪原を作り出す。冷たい冷たい雪の野を。

 だけどそれも、いつかは溶けてなくなることだろう。

「だから、きっとあの空の向こうはもう春なのですよ。花は春に咲くものですもの。冬と春はこんなにも近いのだから、あなたにも春はすぐに来る。あなたを守ってくれるような、暖かな春が」

 そう告げた稲成姫の体から力が抜ける。そして、彼女は目を閉じた。




「母様!母様!」

 鬼童丸は異変に気付いて、母の体を揺すった。母は瞼を閉じたまま動かない。その肌は降り積もる雪のように冷たかった。

 そして、鬼童丸は、もう自分にはどうすることもできないことを知った。鬼の子は母の体を抱き上げた。村にはきっと母を治してくれる人がいる。そう信じて山を下った。




「誰か!母様を助けて!」

 鬼童丸は母を抱えたまま村の中を走り回った。戸を叩き、道行く人に縋った。

 だが、村人たちは彼の姿を見ても目を背けるか、逃げて行くかだった。誰も母と子に手を差し伸べようと言うものはいなかった。

「鬼の子だ」

 誰かがそう言うのが聞こえた。指差すのが見えた。それがなんだと言うのだ。鬼の子は自分であって、母ではない。母は人なのだ。人なら人を治してくれる筈ではないのか。助けるものではないのか。

 鬼童丸の頬を涙が流れる。しかしその慟哭も、人の心を動かしはしない。やがて村の端まで辿り着いて、そして鬼童丸は膝から崩れ落ちた。母は目を瞑ったまま動かない。

 鬼童丸は母の体を抱きしめた。折れてしまいそうなその体を壊してしまわないように、優しく、優しく。雪が降りしきる景色の中、子は母との永遠の別れを悟った。




 鬼童丸はそれからただ母を胸に抱き、雪の中で座り込んでいた。雪は冷たいが、動く力が湧いてこなかった。

 声が聞こえて、鬼の子は顔を上げた。見れば村人に連れられて、あの母と自分を追った武士たちが近付いて来る。

「稲成姫様は死んだか」

 真ん中に立った男は母の亡骸をちらと見て、感情の籠らぬ声で言った。そして男は刀を抜き、そのさっ先を鬼童丸に向ける。

「姫様も災難だった。鬼に攫われ、こんな望まぬ子を孕まされた末に、野たれ死ぬとは」

 村人は母を助けようとせずに、この武士を連れて来たのか。鬼の子である自分を殺すために。

 どうして母は死なねばならなかったのだ。鬼の血を引く自分を産んでしまったからだろうか。

 内なる想いの昂りに、鬼童丸は体を震わせる。それは寒さのためではなく、怒りのために。

「さっさとこの鬼子を渡していれば、死なずに済んだものを。まあ良い。さっさと仕事を終わらせよう」

 武士が刀を振り上げる。だがその刃は鬼童丸に届くことはない。

 鬼童丸の爪は武士の首を抉り、切り裂いた。首から血を流し、刀を振り上げたままの格好で男は倒れる。




 憎い、憎い。

 誰ひとり母に手を差し伸べなかった村人たちが憎い。

 母の前に現れ、その心を追い詰めた武士たちが憎い。

 母を攫い、その道を狂わせた鬼たちが憎い。

 そして何より、母の枷となり、母を救えなかった自分が憎い。


 人が憎い、妖が憎い、己が憎い、全てが憎い。


 この世の全てを呪ったとき、鬼童丸に流れる鬼の血は目覚めた。




 額の皮膚を破って二本の角が現れ、全身の肌が茶色に染まる。筋肉が肥大し、口と目が横に裂ける。

 鬼としての姿で、鬼童丸は雪原に立っていた。

「ば、化け物め!」

 残った武士のどちらかが刀を構え、そう叫ぶのが聞こえた。だが、恐ろしさは微塵も感じなかった。

 鬼は死んだ武士の刀を逆手に掴むと、それによって向かって来る二人の武士を切り裂いた。

 怒り狂った鬼を止められるものはいなかった。鬼童丸は次々と村人を襲った。雪によって白く染まった景色は、半鬼によって赤く塗り替えられた。

 全てに向けられた憎しみは、どれだけ人を斬ろうとも収まりはしない。それでも鬼童丸は刀を振い続けた。母のために獣を捌いた時のように刀を逆手に持ち、母を裏切ったものたちの肉に刃を突き刺した。




 そして、村には人の姿は消えた。鬼の姿のまま、鬼童丸は一人村の端へと歩いて行く。そこにあるのは、唯一つ血の付かぬ母の亡骸。鬼童丸はそれを優しげに抱き上げ、そして山へと帰って行った。




 母の亡骸はあの洞穴のすぐ近くに埋めた。墓などはなかったが、野晒しにして置くことなどできはしなかった。

 母がそこに眠った証左は、降り続く雪によって染められる。鬼童丸は空を仰ぎ、そして慟哭する。その声は咆哮となり、春があるという雲の向こうへ消えて行く。

 暖かな春など来なくとも良い。鬼童丸はそう願った。母がいない世に春などない。この雪に閉ざされた暗い冬がずっと続けば良い。

 鬼童丸は全てが憎かった。母を拒んだこの世の全てを怨んだ。

 鬼としても、人としても生きるつもりはない。鬼童丸は復讐のために生きると決めた。亡き母のために、そしてその母を苦しめた、己を罰するために。

 風は次第に強くなり、雪は吹雪となる。鬼童丸はその中を一人、歩いて行く。



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