雪に吼ゆるもの (一)
本編第一四話「妖の血」に登場した鬼童丸の話となります。
冬ながら 空より花の 散りくるは 雲のあなたは 春にやあるらむ
― 冬でありながら空から花が落ちて来るのは、雲の彼方は春だということだろうか ―
『古今和歌集』より 三三〇番歌 清原深養父
全てが白く染まる雪原の中を、一人の若い女が歩いている。その両手に抱かれるのは、布に巻かれた赤子。
雪が降りしきる空の下、女は洞穴を見つけると、そこに身を隠した。そして、抱いた赤子に言葉を掛ける。
「お願い、死んではなりませぬ、鬼童丸……」
外伝「雪に吼ゆるもの」
大江山における酒呑童子討伐。それは人の世では源頼光たち武士の手によって成し遂げられたものとして伝えられた。
頼光たちは酒呑童子の首を持ち帰り、そして鬼たちに捕えられていた姫君を開放した。その多くは京へと帰ったが、一人だけ帰ることができなかった女がいた。
その名は稲成姫。彼女はその体に、鬼である酒呑童子の子を宿していた。親は鬼たちに殺され、夫もおらぬ彼女には、故郷には帰る場所がなかった。鬼の子がいなければきっと彼女を引き取ってくれるものもいただろう。だが、人々に恐れられ、怨まれ続けた鬼の子を孕んだ女を受け入れるものなどいない。
それ故に稲成姫にとっては、その中に宿った子こそが彼女に唯一残されたものだった。誰が父であろうと構わない。自身の中に芽生えた命なのだから、それは己の子だと、彼女はそう思う。
稲成姫はただ各地を放浪し、働く場を見つけてはすぐに他の町や村へと移った。そうやって生きるうちに季節は冬となった。
この体の中にいる子が鬼の子だと知られれば、自分だけでなく子も疎まれるだろう。しかしこの子には何も罪はないのだ。そう思い、隠し通した。鬼の子であることを告げれば、この子と引替えに自分の安寧は得られるかもしれない。だけど、それはできない。
そして稲成姫は雲原の野を歩いた。そこで誰にも見られることなく一人、雪の降りしきる中で鬼の子を産んだ。生まれながらに歯が生え揃い、そして長い髪を伸ばしたその赤子は、けれどもか細い泣き声を上げていた。母を求めるようにその小さな手を伸ばしていた。
それが稲成姫には愛おしくて堪らなかった。
稲成姫は赤子を抱きしめ、凍える空の下をさ迷った。とにかく風と雪を凌げる場所を探した。そして洞穴を見つけ、その中に身を隠した。
子の名前はもう決めていた。鬼の子だからではなく、鬼のように強く育って欲しいから。こんな呪われた出生など撥ね退けるほど、強い童として生きてほしいから、稲成姫は息子に、「鬼童丸」の名を付けた。
「鬼童丸……、可愛い、可愛い、私の子」
稲成姫はそう語りかけ、幼い我が子を抱きしめる。
鬼童丸は母の願い通り、強く逞しく育って行った。鬼の血を引いているためかその成長は早く、三月程経った頃にはもう己の足で立ち、歩けるようになっていた。
稲成姫は彼の手を引き、様々な村や町を巡った。そこで仕事を見つけ、数月働いた後に別の場所へと移ることを繰り返す。この子の出生だけは誰にも知られてはならなかった。
生きて行くのは大変だったが、息子と二人でいられることは幸せだった。鬼童丸が六つになるころには彼はどこで覚えたのか山で鹿や猪を、水辺で魚を獲って来るようになったので、食べることにはあまり困らなくなった。
真夜中、働かせてもらっている家の隅に母と子は横たわっている。風の音さえもしない静かな闇夜、母はあどけない顔で眠る子の頬を撫でる。
いつまでもこの幸せが続けば良いと思った。たった二人きりで生きられれば良い。恐らくこの子はこれからもずっと、人の世界には受け入れてもらえない。だから母である自分が愛してやらねばならぬのだ。この先ずっと、辛い時には母を思い出せるように。
稲成姫は横で眠る息子の体を抱きしめる。その逞しい体は、それなのに弱々しい。自分がいなくなればきっと壊れてしまうだろう。
人でなくとも、妖でなくとも、鬼童丸は私の子なのだ。稲成姫は涙を堪え、息子を優しく抱いたまま眠りにつく。
「母様!母様!今日は鹿を獲って来たよ!」
鬼童丸は嬉しそうにそう母に知らせるのだった。鬼童丸は母に良く懐いていた。母の愛を一身に受けていたからであろう。
自分が他の童子と違うことも気にならなかった。だが、母が他の人間たちと親しくせず、いつも寂しそうだったのは辛かった。だから、彼は母のために色々なことをやった。食べ物を獲り、料理を覚え、肉と着物とを交換して母のために持ち帰るなど、母は子のすること全てに喜んでくれた。
それは満たされた日々だった。自分には母さえいれば良いと、幼い鬼童丸はそう思った。自分を受け入れてくれるのは母だけであり、母を受け入れるのは自分だけだった。
それでも、変わらぬ日々はない。その時も村を転々とし、そしてある村に辿り着いてそこで母は仕事を見つけ、鬼童丸も近くの野や山、川や海で食物をとって暮らしていた。
それはいつもの日常だったが、母が日に日にやつれて行くように鬼童丸の目には見えた。毎日休むことなく働いていたかもしれぬし、人の目から隠れるようにして生きねばならぬ心の重荷が大きかったせいかもしれない。
鬼童丸は母を心配したが、母は決まって優しげに笑い、大丈夫だと答えるだけだった。まだ童でしかない鬼童丸にそれ以上のことは何もできず、彼はとにかく母の体に良いものを与えようと獣を狩り、野草を摘んだ。
それでも母の体は良くなる兆しを見せず、日々は変わらずに過ぎて行く。それは大の男や獣にも負けぬ体を持っていた鬼童丸に、初めて恐いという思いを抱かせた。
母を失うこと。それは母のために生き、そして己を愛してくれるものが母しかいない鬼童丸にとって、この世に独り取り残される恐れでもあった。
母の優しげな笑みが見られなくなるその日を、鬼童丸は何より恐れていた。
そして事件は、何の前触れもなくやって来る。
そろそろこの村を出て、また別の村を探そうと母が息子に話していた頃のこと、突然母子の暮らすあばら屋に、その家の主人に連れられて立派な服を着た男たちが尋ねて来た。
「貴女は京の稲成姫とお見受けする」
三人いる内の真ん中に立った男が言った。何故この男は母の名を知っているのだろう、そう思い母を見ると、彼女は今までにない青い顔をして震えていた。それで、鬼童丸はこの男たちは母の敵なのだと知った。
「何の、御用でございましょうか」
母は毅然と問うが、その声は震えていた。
「何のことはありませぬ。我々は酒呑童子討伐の後、京に帰る際にひとりはぐれてしまった貴女を探していただけのこと。しかし良く生きておられましたな」
そう話し、そして男は鬼童丸に目を向ける。
「それで……、その子供は貴女の子ですかな?」
「そうですが、それが?」
母は男を睨む。だが男の目は鬼童丸に向いたままだ。
「貴女は酒呑童子の子を身籠っていたと聞いております。よもやあれがその子供ではありますまいな」
「……違います。この子は人の子です」
母はそう断言するも、その緊張が鬼童丸にも手に取るように分かった。それは相手の男にも伝わっていたのだろう。
「稲成姫様、嘘はいけませぬな。貴女だけならば京へと帰ることもできますが、この子供はできますまい。それに、酒呑童子の子ともなれば」
男は刀を抜いた。その先は鬼童丸に向けられる。
「生かして置く訳にはいきませぬ」
その男が自分に敵意を向けているのが分かった。そしてこのままでは母とともにいられなくなることも。
ならばすることはひとつ。
鬼童丸は母を抱え上げると、目にも止まらぬ速さで男たちの横を駆け抜けた。男たちが慌てて追いかけて来るが、もう遅い。女一人を抱えているとはいえ、鬼童丸の足にただの人間が勝てる訳はなかった。
抱き上げた母の体は軽く、そしてすぐにでも折れてしまいそうだった。鬼と人の間に生まれた子はその体を傷つけまいとできる限り優しく支えながら、ただ走った。
必死に逃げて、やがて鬼童丸と稲成姫は草原へと辿り着いた。雪の季節に近付いているために、身を凍らせるような冷たい風が二人を襲う。
鬼童丸はとにかく風を凌ぐため、そしてあの男たちから隠れるため、近くにある洞穴へと母を抱えたまま身を顰めた。
「ここは……」
母は柔らかな笑みを浮かべ、鬼童丸を見る。
「ここは、私が生まれたばかりのあなたと一緒に一夜を過ごしたところに似ています。今度は、私があなたに抱えられておりますけれどね」
「母様、大丈夫?」
母は力なく頷いた。親子二人が生きるため、母は痛んだ体を休めることなく働いてばかりいた。鬼童丸も自分の体に比べて母の体が丈夫ではないことは知っていた。
「大丈夫ですよ……。ごめんなさい、心配を掛けて」
母はそう言い、鬼童丸の頬に触れる。だがその指は、どうしようもない程に冷たかった。