鬼の子の旅路 (一)
花もなく しげれる草の 桔梗こそ いつの時世に 花の咲くらむ
― 桔梗が花を咲かせることもなく、草が茂っているこの地には、いつの世になれば花が咲くこととなるのだろうか ―
千葉県佐倉市将門町「桔梗塚」に刻まれた和歌 作者不詳
外伝「鬼の子の旅路」
鬼童丸は両手を頭の後ろで組みながらぶらぶらと足を投げ出すようにして歩いていた。進めども進めども景色は一向に大した変化を見せず、方向が掴めない。
だが鬼童丸は大して悲観してはいなかった。人と違い、妖が山の中で迷ったから死んだという話は聞いたこともないし、事実死ぬ気は全くしない。飢えた獣如きならば返り討ちにする自信もある。
だから山中を彷徨うこと自体に問題はないのだが、それでもただ歩き続けるだけというのは飽きる。また冬の閑散とした景色がその感情を助長する。
鬼童丸は寒空の下で一つ欠伸をした。それは白い息となって雲散する。だがその大口を閉じたとき、鬼童丸は視界の端に動く物体を捉え、そちらに瞳を向け動かした。
「飯か」
冬景色の中を黒い塊が移動している。こちらには気づいていないようだが、それは痩せた猪だった。あまり美味そうではないが、この季節、見つけたときに食料を調達しておいて損はない。
それに狩りには慣れている。鬼童丸は腰から刀を引き抜くと、それを逆手に握ったまま振りかぶり、音もなく猪に向かって投げつけた。
太刀は横に回転しながら飛び、猪が反応する間もなくその太い首に突き刺さった。更にその投擲の勢いは猪の体は近くの大木の幹に串刺し、猪は二、三度苦し気な鳴き声を上げた後動かなくなった。
黒く乾いた地面を木の幹を伝った赤が汚した。鬼童丸は刀を引き抜き、それに付着した血を舐め取る。甘い味が口の中に広がった。
新鮮な肉を食うのは久々だった。鬼童丸は舌なめずりをしつつ刀を仕舞い、猪の死体を持ち上げてその肉に噛み付こうとする。しかし牙の先がその獣皮を貫こうとした瞬間、その動きを今度は森の奥から響く地鳴りのような音が遮った。
「なんだよ一体」
鬼童丸は食事の邪魔をされたことに苛立ちながら音の方向を見る。いつの間に近付いたのか気配はすぐ近くにあり、まず見えたのは生白い柱のようなものだった。しかもそれはゆっくりと動いており、さらに見上げると今度は赤黒い鱗とその間にはめ込まれたような黄色い瞳が鬼童丸の姿を映していた。
大きく裂けた口の隙間から長い舌が現れ、消える。鬼童丸は静かに刀を抜いた。
「あぁ、俺蛇は嫌いだ」
鬼童丸は清姫のことを思い出しながら言った。途端、大蛇は大口を空け鬼童丸に迫る。鬼童丸は太刀を逆手に構えてその牙にぶつけた。鋭い音が冬の森にこだまする。
鬼童丸の腕に衝撃が走り、骨がしびれるような感覚があった。この大きさから薄々分かってはいたが、やはりただの巨大な蛇ではない。牙に妖気を纏っている。この大蛇もまた妖だ。
土の上を這い背後に回った大蛇の尾を背に叩き付けられ、鬼童丸の体が宙を舞った。鬼の子は体を捻って木の側面に着地すると、それを蹴って続く尾の攻撃を避けた。狙いを外した大蛇の尾が大木を真っ二つへし折った。
鬼童丸は刀を握っていない方の拳を握った。落下と共に大蛇の頭部が迫る。鬼童丸は拳を振り上げると、渾身の力でその頭頂部を殴りつけた。鈍い音が森の中の乾いた空気に響き渡り、続いて大蛇の巨体が土に沈む。
「まあいいや、これで飯が増えた」
鬼童丸はそう気を取り直しながら止めを刺そうと刃を大蛇の首に近付ける。だが刃を振り下ろそうとしたその瞬間、彼の目の前から大蛇の姿が消えた。
「待って下さい、降参致します」
その大蛇の代わりにあったのは地面に倒れた妙齢の女の姿だった。生白い肌にあの大蛇の鱗と同じ赤黒い色の小袖を纏っている。瞳の色は黄色で、細長の目が縋るように鬼童丸を見上げていた。
鬼童丸は刀を握ったまま、その女に問う。
「お前、あの大蛇か」
「はい、名は桔梗と申します。今はあのような大蛇の妖となってしまいましたが、元はこのような姿の人でありました」
桔梗は着物に付着した枯葉を払いながら立ち上がった。背は鬼童丸より低いが、雰囲気は堂々としている。元はどこかの貴族か武家の家なのだろう。それがなぜあのような大蛇と化したのかは分からないが。
「そんで、なんで俺を襲ったんだよ」
「それは……、あの猪は元々私が狙っていた獲物だったのです。この数日何も口に入れていなかった中でやっと見つけた獣で、気が立ってしまっていて」
もう敵意は感じられなかった。鬼童丸はあきれたように息を吐きながら、握っていた刀を腰に履きなおした。
「ただ腹減ってただけかよ。それならまあ、言えば分けてやるぐらいしてやったのに」
鬼童丸は転がったままだった猪の足を掴み、死体を持ち上げながら言った。桔梗が恐る恐るといった調子で鬼童丸を見る。
「よろしいのですか……?」
「幾ら俺だってたかが食い物のために女を殺するようなことはしない」
鬼童丸は少し照れくさそうに顔を背けながら刀を使って猪を捌き始める。普段の自分なら、こんな風に言葉を掛けることもなかっただろう。同じ蛇女である清姫になら絶対に掛けない。
そんな自分が桔梗に対してこんな態度を取るのは、ひとえに桔梗の纏う雰囲気に母の面影を見たような気がしたからだということは自分でも分かっていた。
猪肉を食いながら桔梗と話をした。聞けば、彼女が妖となったのはもう何百年も昔のことだという。
「つい幾月か前までは、故郷である磐城国のとある沼に住み着いておりました。しかしそこを人に追われ、南へ南へと逃げて来た途中に辿り着いたのがこの山なのです。妖となった以上人の世で生きることはできず、また人であった故に妖の世に暮らすこともできぬ、半端な生き方をして参りました」
桔梗はそう目を細めた。鬼童丸は生のままの猪肉を食い千切り、噛み砕きながら問う。
「じゃあずっと一人だったのか。でもなんで人間が蛇になるんだ?」
「それは私にも分かりませぬ。でも、私はこれは罰なのだと思うております」
「罰?」
鬼童丸は口の中の肉を嚥下した。久々の生肉は美味いが、それ以上にこの女の話に興味があった。清姫が蛇になった理由につては別段興味が湧かぬので、己のことながら不可思議なことだと鬼童丸は思う。
「はい、私はとある武士に仕える側室でした。私は彼の寵愛を受け、とても、とても大切にして頂きました。にも拘らず、私はその方を裏切った」
桔梗は辛そうに目を伏せる。鬼童丸は黙ったまま次の肉を咀嚼する。
「私はあの方が隠れていた場所を敵に密告しました。そのせいであの方は敵の手に落ち、首を取られた。あの方を殺したのは、私のようなものです。それなのに、私は戦を生き延びてしまった。私だけが」
人の戦は良く知らぬ。それにひたすら目の前の敵に向かって挑み、叩きのめすことを信条として来た彼には裏切りがどういうものなのか、具体的に想像することは難しい。それでも目の前の女がその行為を酷く悔やんでいることは分かった。
「私は故郷である磐城国に戻り、父の元で暮らしていました。だけどある時喉が焼けてしまうような渇きを覚え、水を求めて湖へ向かいました。そしてそこで水を掬おうと水面に目を落としたとき、私の体が蛇身となっていることに気付きました。それが私が人でなくなった日のことです。私があの方を裏切った罰に、妖となってしまったのだと、そう思うのです」
人が妖になる。それは初めて聞いた話ではない。茨木も清姫もがごぜも元は人であったという話は聞いたことがあった。だが彼らの場合は桔梗のように妖であることに悩んではいなかったし、それに妖となった日のことは聞かされたことはなかった。
「俺には良く分からないけど、大変だったんだな」
鬼童丸にしては珍しく考えた末、結局そんな言葉が口から出た。だが桔梗はしおらしく頷き、小さく息を吐いた。
「鬼童丸様は元より妖だったのですか?」
桔梗が鬼童丸に目を向けた。その仕草が母に似ていて、鬼童丸は少し胸の内が熱を帯びるのを感じつつ、それを態度には出さぬようにして答える。
「そうだとも言えるし、そうでないとも言える。俺は鬼と妖の間に生まれた子なんだ」
もうすっかり猪の死体は骨と皮だけになっていた。鬼童丸は冷えた土を掴んで手についた血を落としながら桔梗に話す。
「俺にも母様がいたんだけどさ、死んじまった。守れなかったんだ」
鬼童丸は握っていた土を投げた。それは地面に当たり、粉々に砕け散る。桔梗はそれ以上問いはしなかった。代わりに、彼女は鬼童丸に違う問いを投げかける。
「貴方はこれからどうするのです?」
「さあね。俺もこの森の中に落っことされて迷っているところなんだよな。とりあえず、滝夜叉とかいう女のところに行けば良いのは分かってるんだけど」
鬼童丸がそう答えた瞬間、桔梗の顔色が変わった。身を乗り出し鬼童丸に顔を近付ける。
「今、滝夜叉と仰いましたか……?」
「あ、ああ、言ったけど……」
「その方はもしや、平将門様の御息女の?」
鬼童丸が頷くと、桔梗は掌を口に当てた。今度は鬼童丸がその桔梗に向かって問い返す。
「あんた、滝夜叉を知ってるのか?」
桔梗は身を引き、項垂れて少しの間言葉を発するのを迷うような仕草をした後、結局その紅い唇を開いた。
「……はい、私がかつて仕えたのは、姫様のお父上、将門様だったのです」




