夜の刃 (三)
鬼童丸が目下に捉える景色は次第に小さくなり、やがて雲に隠れて見えなくなった。それに伴って辺りの大気が冷えて行き、鬼童丸の肌に風が刃のように突き刺さる。
それでも鬼童丸は片輪車を放さない。むしろ風に煽られながらも腕の力だけで片輪車の上に這い上がろうとしている。妖力による炎であるためか、燃える車に掴まりながらもその熱は感じなかった。
「おうおう、こらまた珍客だ」
炎の向こうから痩せこけた男の顔が覗いた。窪んだ眼孔の奥で濁った目が笑みを浮かべ、その乾いた手が鬼童丸の右の手の甲に触れる。皮膚が粟立つような感覚を覚えて、鬼童丸は思わず右手を片輪車から放した。
「気持ちわりい」
鬼童丸は露骨に嫌悪感を露わにしながら右手で刀を抜いた。左腕に力を込め、体を持ち上げながら刀を振るって男の腕を肘の辺りから寸断する。
「活きが良い小僧じゃて」
男が喉を絞められているような細い笑い声をあげた。その傷口から血が出ることはなく、彼の体から離れた腕は落ちながら風化して塵と化し、再び男の体に戻って腕の形に戻る。
「だが、片輪車を傷付けられては敵わんからな、ここらで消えてもらうとするか」
男は言って、今度は薄い布のように変形させた腕を鬼童丸の左手に向かって振り下ろした。それが鬼童丸の皮膚を抉ろうとした瞬間、鬼童丸はこの男の攻撃を受けた朱雀門の様子を思い出し、咄嗟に手を離す。
攻撃を受けなかった代わりに支えが消え、鬼童丸の体は空を切って落ち始める。鬼童丸は刀だけは放さぬようしっかりと握り締めながら、遠ざかって行く炎の車を睨み続けた。
また逃がした。妖はみな戦うことから逃げる臆病者ばかりなのか。自分は鬼だ化け物だと言っておいて、戦って死ぬ覚悟もないのか。鬼童丸は落下の速度が速まって行くのを感じながら、そう心で悪態を吐く。
鬼童丸の背に何度も続けて木の枝が当たる感覚があり、それらは音を立てて折れた。どうやらどこかの森にでも落ちたらしい。そのおかげで少し落下速度が抑えられ、背から大地に叩き付けられながらも大きな傷を負わずに済んだようだった。
それでもその衝撃は相当彼の体に応え、鬼童丸は痛む体を大地に投げ出して中々動こうとしなかった。冬の大気に冷えた土は冷たく、彼の体温を少しずつ奪って行く。だがそのお陰で痛みも鈍くなる。
辺りには折れた木の枝が散乱している。空は未だ青く、鳶が二羽雲の間を横切って行った。ここはどこなのか、全く見当もつかなかったが、木々に囲まれた山の景色は懐かしい。母とともに過ごした山を思い出す。あの山ならば、この季節には雪が積もっていたけれど。
鬼童丸は体に負担を掛けぬよう、ゆっくりと起き上がった。大分痛みは治まった。鬼童丸は右手に握りっぱなしだった刀を鞘に仕舞う。
辺りを見回しても人の姿はない。その方が静かで良い。考えるのは苦手だから余計なことは考えたくなかった。
さてこれからどうするか。茨木らの元に戻るべきのような気もするが、まずここがどこか分からないし、そもそもあの片輪車を掴んだ場所がどこだったのかも良く知らない。
「まあ歩いてればどっか出るだろ」
鬼童丸は独り言を言いながら、地面に手を付いて立ち上がった。そして体の傷が治癒したのを確認し、鬼の姿から人の姿に変化する。茨木の助言を守ると思うと腹立たしいが、しかしこの方が行動しやすいという事実もまた彼は身をもって実感している。
着物に付着した土を払い、鬼童丸はとりあえず真っ直ぐに歩き始めた。
朱雀門が目を覚ました時、彼は冷たい石の牢の中に閉じ込められていた。両腕は背中で縛られ、妖力を使うこともできない。手を縛る縄に特殊な素材か妖術でも使っているのだろう。
壁と床は剥き出しの岩で、目の前には鉄格子。抜け出すのは容易ではなさそうだった。傀儡を収めた竹筒も奪われたようだ。
「ふぇふぇふぇ、良い格好じゃのう」
牢の中に響いたその湿り気のある声に、朱雀門は覚えがあった。やがて格子の向こうに見える出入口と思しき穴から、腰の曲がった老人のような妖が現れる。
「肉芝仙、貴様か」
朱雀門は動かぬ腕を疎ましく思いながら、鉄格子の前にまで歩み寄って来たその男を一瞥した。人の姿をした蝦蟇の化け物。朱雀門の鬼はこの妖を知っている。
「久しぶりじゃのう、朱き鬼よ。五百年振りぐらいかな」
「もう永久にお前とは会わぬと思ったが、長く生きていると上手く行かぬものだな」
朱雀門は忌々し気に肉芝仙を見る。肉芝仙は何とも楽しそうな笑みを浮かべ、朱雀門の鬼を眺めている。
「お前が滝夜叉姫の側に付いているというのなら、私を攫うよう仕向けた理由も大体分かる。お前、滝夜叉姫に反魂の術のことを話したな」
朱雀門が片眉を吊り上げると、肉芝仙は一層その顔に張り付いた笑みを大袈裟なものにした。
「偶然ながら将門公の骨が全て揃っていてなぁ、あとは然るべきものが然るべき措置を行えば、新皇は蘇る」
朱雀門の鬼は首を横に振る。肉芝仙も分かっているはずだ。反魂の術は人を蘇らせる術ではない。ただ、新たな命とさえ言えぬ肉の塊が生まれるだけのもの。
「将門は復活しない。ただ新たな肉体を得た死体が立ち上がるだけだ。それを滝夜叉姫は知っているのか? お前のことだ、話してもいないのだろう」
肉芝仙は笑うだけで答えない。朱雀門は鼻で笑い、言葉を続ける。
「お前の望む世のために、鬼の姫を利用するわけか」
「将門は並の人間ではない。それが妖と化せば、この世を滅茶苦茶にしてくれるじゃろうて。滝夜叉姫もそれを望んでおる。儂はそれに手を貸すだけじゃ」
「ふん、相変わらずの爺だ」
己は直接手を汚さず、人や妖を裏から操る狡猾な妖。それが肉芝仙だ。滝夜叉姫も彼にとっては道具に過ぎぬのだろう。父の遺志を継ごうとする彼女に手を貸すふりをして、己の欲望を満たすために着々とことを進める。この男はそういう妖だ。
滝夜叉の願いの通りに反魂の術で将門を蘇らせても、彼女が目の前にするのは自分の娘も分からぬただの肉の人形だ。それに最も傷つくのは恐らく滝夜叉。だがそれさえも、肉芝仙にとっては甘美な酒のようなものなのだろう。
「精々体を休めておくんじゃな。反魂の術は力を使うじゃろう? 姫はそこまで辛抱強くないのでな、明日にも呼ばれるかもしれんぞ」
肉芝仙は最後にそう言い残すと、粘り気のある笑い声を響かせながら去って行った。残された朱雀門はその後ろ姿を睨みながら尾張に残った鬼たちの身を案じた。彼らは無事であろうか。
「奴の様子はどうだった、肉芝仙」
地下牢の出口の側で壁にもたれていた滝夜叉は、出てきた肉芝仙にそう問うた。
「体は良いようで。少し休ませれば、反魂の術も可能じゃろうな」
肉芝仙はいつものように粘り気のある笑みを浮かべながらそう答えた。滝夜叉は頷く。
反魂の術を行うためには、蘇らせたい人間の全身の骨がいるという。幸いにも父のものは揃っている。晒し首にされたその頭骨は肉芝仙がかつて取り戻しているし、体は焼かれることなく相馬の土に埋まっている。滅ぼされた平家のものたちや妖たち全てのものは帰らないが、父だけは帰って来る。
そしてついに来るのだ。新皇がこの国を手に入れ、治めることとなる日が。父が望んだその世を、私はこの手で掴み取る。滝夜叉は拳を握った。
「父の望みが、やっと叶うのだな……」
「お主の夢でもあろうて」
「ああ、そうだな……」
滝夜叉は思う。日の当たらぬ夜の世界に身を隠し、刃を研ぎ続けて来たこの何百年という歳月が報われる。次はこの夜の刃が父を、弟を、平家のものたちを、そして部下たちを滅ぼした者たちの首を掻く番だ。
父とともに彼らの仇を取り、そしてやり直すのだ、平家の時代を。私は何もかもを朝廷の人間たちに奪われた。その全てを取り戻すことはできないかもしれないが、父の側で父が作る新たな時代を見つめて行くことはできる。
きっと父は私を認めてくれるだろう。父が生きていた頃のようなただその後を付いて行くしかなかった小娘ではなく、父のために戦い、支えることができる一人の戦士として。滝夜叉は口元だけの笑みを浮かべた。
陽は既に落ちており、下弦の月が昇っている。その二つに割れたような半円の月の光に、彼女の握る薙刀の刃は輝いた。
茨木は緑色に燃え続ける焚火を見つめながら、手に握った川魚に牙を立てた。そして生のままのそれを骨ごと咀嚼する。
戦いの後だ、本来ならば人肉とは言わずとも獣の血肉を食らいところだが、生憎冬の山には中々獣の姿も見当たらぬ。
「このままお前の虫を辿るとどこに着く、がごぜ」
「相馬国辺りでしょうな。朱雀門様が言っていた滝夜叉姫の根城ですよ」
「となるとあいつらの主とやらはあの小娘か」
茨木は二匹目の魚に食らいついた。夜の川辺に魚の背骨が砕ける音が響く。
「朱雀門はともかく、鬼童丸はどうなのかしら……、相馬にいると思う?」
緩慢な動作で焚火に薪を投げ込みながら、清姫が問う。茨木は魚の肉を飲み込み、答える。
「さあな、あの状態だったからな、どこかに落ちているやもしれん。だが死んではいないだろう。あれでも鬼童丸は酒呑童子様の子だ」
体の半分には人の血が流れていようとも、酒呑童子の血が彼を殺させはしない。それに鬼童丸自身もまた、強き鬼だ。
「案じずともまたそのうち現れるさ。あいつはまだ俺との決着をつけていないからな」
「そういうもの? 男ってよくわからないわ……」
清姫は言い、そして自身の炎によって焼けた川魚を齧った。茨木は小さく頷く。
「これを食ったらまた出発するぞ。あの小娘に俺たちを敵に回したことを後悔させてやろう。伊耶那美との戦の前の肩慣らしには、丁度良い」
「それは、楽しみね」
言葉とは裏腹に無感情な声で清姫がそう言った。
茨木は頷き、そして横に置いていた二本の刀を腰に佩いた。大江山の妖たちは確かにあの日に敗れた。だがそれが、生き残りである自分たちを弱くした訳ではない。
大江山の鬼、茨木童子は、久々の大きな戦を前に少しずつ燃え上がる己が心を感じていた。




