夜の刃 (二)
茨木は辺りを取り囲む妖気に気付くと同時に腰の左に履いた太刀に右手を当てた。姿はまだ見えぬが、確実に複数の妖が自分たちを取り囲んでいる。
「清」
「ええ……、来るわ」
茨木が刀を抜き、振り返り様に己に向かって飛んで来た妖力の塊を切り裂いた。黒色をしたそれは二つに分かれて大地に叩き付けられ、爆発を起こす。
「やっぱこれぐらいの不意打ちじゃあ駄目かぁ。なあ魔九郎」
茨木は左手でもう一本の太刀を抜きながら声の主に目を向けた。まだ陽も眩いにも関わらず、その陽光を遮るようにして大男が立っている。だが声を発したのは、その肩に乗った小男のようだった。
「白昼堂々何の用だ貴様ら」
茨木童子は二刀をだらりと下げ、問うた。まだ青い空の下、更に人の集まる市の最中にも関わらず、この妖たちは正体を隠すつもりもなさそうだった。小男の纏う黒の直垂は鴉の羽へと変わり、大男の体は巨大な狸のような獣の姿と化そうとしている。
「我が主がお前らの仲間のひとりをご所望でね」
人間たちの悲鳴が響く。この男たちの他にも数多の妖がここに集っているようだった。血の匂いが風に乗って茨木の鼻に届く。このものたちの狙いは自分たちなのだろうが、人間どもに遠慮するつもりもないようだった。邪魔だから殺す、愉快だから殺す、ただそれだけの化け物ども。
「貴様らのような雑魚どもに俺たちがどうにかできるとでも?」
茨木は低く唸るようにそう言った。その額からは既に二本の角が生え、肌の色は灰色へと変わり始めている。刀を握る筋肉は隆起し、剥き出しの牙の間から息が漏れる。
茨木の妖気に反応したのか、魔九郎と呼ばれた獣の口が大きく開き、そこから再び黒い妖力の塊が吐き出される。それは中空で蝙蝠のような姿に形を変え、茨木に向かって羽ばたく。
だが蝙蝠は緑色の火球とぶつかり、破裂した。口に炎の残滓を滴らせた清姫が茨木の横に立つ。
「分からせてあげましょうか、茨木……」
清姫の瞳が蛇のものに変わった。刺刀を右手に握った山鴉が彼女の首を狙うが、その体は赤い鱗を纏わせて巨大化した清姫の腕によって弾き飛ばされる。
「流石は大江山の生き残り、一筋縄ではいかないねぇ」
山鴉が自らが巻き起こした土煙を浴びながら立ち上がり、にやりと笑った。魔九郎は大気を吸い込み、その厚い胸を膨らませている。
その二体の妖の前に、茨木と清姫は無言のままに立ち塞がる。
鬼童丸の逆手に握った太刀は、飛び掛かって来た木槌を握った妖を叩き切った。元は器物の妖だったのだろう、それは毛のない獣のような形を崩し、ばらばらの木片となって土の上に転がった。
「ああああ! ちょこまかちょこまかうるせえな!」
鬼童丸が乱暴に太刀を振り回すと、それがまた別の妖を切りつける。どこに振ったって何かに当たる。彼は四方八方を器物の妖たちに囲まれていた。
あの片輪車とやらはどうやら朱雀門の鬼と戦っている。朱雀門が出現させた巨大な亀のような蛙のような傀儡と対峙しているようだった。鬼童丸も自分を食らうなどと嘯いたあの化け物を直に断ち切ってやりたいところだったが、群がる器物の怪物たちがそれをさせてくれない。
「畜生この野郎!」
溜まり続ける鬱憤を怒声に込めながら、鬼童丸は矛を持った妖の額に太刀を突き刺した。
「お前が主様の望む朱雀門の鬼かえ?」
片輪車の放つ橙色の炎を朱雀門の鬼の前に立った水虎の傀儡が防ぐ。元来死体である故この水虎が痛みを感じることはないが、傷を受け続ければ体を維持できなくなる。
「私を所望とは、お前の主も物好きだな」
朱雀門は次の竹筒を懐から取り出しつつ後ろから迫る器物の妖を肘で打った。土器が砕けるような感触がして、細い悲鳴のような声が聞こえた。
「妾としてはお前なんぞよりあの鬼の童を食ろうてみる方が興味があるがのう? 妖の子の肉にありつく機会など滅多にない」
片輪車の目が鬼童丸に向く。その隙を突いて鬼童丸が竹筒の栓を抜こうとするが、片輪車の炎の向こうから吹いた旋風が彼の片腕を深く抉った。
「ひひひ、ただの傷とは思いなさんな」
片輪車の屋根の上から痩せこけた男が顔を出した。朱雀門は鈍い痛みに顔をしかめる。あの男の言う通りこれはただの裂傷ではない。毒が傷の中に入り込んで来ているようだ。
朱雀門はまともに動かない右腕を左手で抑えながら続けて放たれた妖気の風を避けた。これ以上あの風を貰らうのは危険だ。
しかしその風に気を取られているうちに今度は片輪車が背後に回った。朱雀門が懐に左腕を突っ込み、竹筒を取り出そうとするが麻痺し始めた感覚が動きを鈍らせる。
燃える炎の腕が朱雀門の鬼の首を掴んだ。朱雀門はその腕を左手で握り、振り解こうとするが、彼の目の前にあの痩せた男の顔が迫る。
「少し大人しくして貰おうかね」
男が朱雀門に向けて細長い人差し指を伸ばした。その指先が崩れるようにして気化し、やがて微かな風となって朱雀門の顔に纏わりつく。
左手で口と鼻を塞ごうとも風は指の隙間を通り、体内に入り込む。吐き出す間もなくその毒は朱雀門の意識を闇に覆い尽した。
「おい、お前逃げるのか!?」
空へ向かって走り始めた片輪車の姿を見て、鬼童丸は器物の妖を踏み砕いて跳び上がった。そして片輪車の端にその爪を食い込ませる。
「今度こそ、お前まで逃がすかよぉ!」
鬼童丸は刀を腰に仕舞い、両腕で片輪車にしがみついた。しかしその燃える炎の車は、そのまままだ明るい空へと向かって上昇して行く。
霆を纏った二つの斬撃は、迫って来た器物の妖たちを次々と切り裂き、そして魔九郎が放った妖力の塊にぶつかって破裂させた。灰色と黒色の妖気が辺りを覆うが、その妖気を突き破るようにして地を跳んだ茨木が魔九郎の目前に迫る。
魔九郎が咆哮を上げ、茨木にその大木のような腕を振り下ろすが、茨木が右手に握った刀の一閃によって腕は腐った木片のように切り落とされる。
赤い軌跡を作りながら腕の残骸が地面に沈む。直後魔九郎の野太い悲鳴が続いた。
「聞いてた以上に化け物かよ……!」
山鴉が着地した茨木を横から刺刀で狙うが、彼に刃が届くより前に山鴉に向かって振るわれた清姫の蛇の尾がその鳩尾を砕いた。
「お話にもならない……」
清姫の蛇の瞳が人と妖の死体だらけの大地に叩き付けられ、口から血を吐き出しながら蹲る山鴉を捉えている。茨木はその彼女の横に立つと、牙の間から声を漏らした。
「さっさと片付けるぞ」
「私、体が鈍ってるみたい」
魔九郎が腕の切断面を抑えながら妖力を吐き出す。傷による痛みのせいか、先ほどまでと比べて威力が落ちている。茨木は刀の側面でそれを軽くいなすと、姿勢を低くして走り始める。
魔九郎の目に一瞬恐れの色が見えた。恐怖を覚えた時点でもうあの男に勝機はない。
鬼は何物も恐れない。それを覚えたときが命の捨て時だ。
魔九郎が再び妖力を吐き出そうと大気を吸い込むが、その大気に緑色の炎が混ざった。清姫の炎だ。自ら体内に妖力の炎の塊を取り込んでしまった魔九郎が喉に左手を当て、悶絶する。
「死ね」
茨木が両腕を横に振るい、二つの刃を同時に魔九郎の首に左から叩き付ける。それは一撃で魔九郎の頭をその胴体から切り離した。
小さな岩ほどはある魔九郎の首が大地に沈み、少し遅れてその胴もまた音を立てて倒れた。茨木は刀から血を払い、そして体を回して腕と袖とを黒い翼へと変化させた山鴉に右の刀の先を向けた。
「自分たちから挑んで来て、勝てぬと分かればこそこそと逃げるか」
その問いに山鴉は口角の片方を釣り上げて答える。
「俺たちの目的はもう果たしたぜ。貴様らがあのでかぶつに夢中になっているうちにな」
茨木が訝しげに山鴉を睨み、そして背後から清姫とは違う炎の妖気を感じ取って振り返った。
「朱雀門の鬼は頂いたよ」
燃える車に女の妖が座っている。言葉を発したのはその女のようだった。茨木は唇を噛む。やつらの目的というのは、朱雀門のことだったのか。
朱雀門の姿は炎のせいか、それとも車の内部にいるためか見えない。しかしその代わりに片輪車にしがみついている見覚えのある姿は見えた。
「鬼童丸、あいつまでなにやって……」
茨木が片手で頭を抱える。捕まっているわけでもなさそうだから、さっさと手を離せば良いものを全くその気はなさそうだった。あのまま自分から連れて行かれるつもりなのか。
「そういう訳だ。残念だったな」
山鴉が翼を広げ、空に舞い上がる。茨木は追撃する気も起きず、ただ嘆息した。
「どちらにせよお前たちとはまた決着をつけねばならなくなったようだ。覚悟しておけ」
茨木が睨みつけると、山鴉が一瞬顔を引き攣らせた。だがすぐに背を向けたため、その表情は見えなくなる。茨木は両の刀を鞘に納めた。
「また厄介ごとが増えたな」
「大江山にいた頃を思い出すわ」
清姫が呟いた。茨木は頷く。あの山にいた頃は、酒呑童子の命令ひとつでどんな仕事でも請け負った。それに比べれば、あの平安の妖の世を知らぬ妖たちの相手など取るに足らないことだ。この手で叩き潰す。
「問題は、あいつらがどこに向かったかだな」
「それについては心配ありませんや」
地面に転がった血塗れの死体を慎重に避けながら、壺を抱えたがごぜがゆっくりと歩み寄って来るのが見えた。茨木は彼を確認し、問う。
「どういうことだ、がごぜ」
「ここに現れた妖たちには、気づかれぬよう一匹ずつ虫をつけておきました。その虫たちがこのわしに場所を教えてくれる」
がごぜが低く笑った。茨木はその肩に手を置いた。
「でかした、がごぜ」
これで目的は定まった。茨木は妖と人の死体の血に染まった道辻を眺めながら、次に取るべき行動を思案する。




