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― 黄泉夜譚 外伝 ―  作者: 朝里 樹
鬼の涙
2/27

鬼の涙 (二)

 その日も茨木はいつものように床屋の仕事をしていた。店には彼一人しかおらず、客も一人だった。

「痛て!!」

 客の頬を剃刀で剃っていた時のことだ。仕事に慣れたという油断から、茨木はその頬を傷付けてしまった。一筋の血が客の頬を流れる。

「すみません」

 慌てて謝り、そして流れる血を自らの手で拭った。その血が指に付いた瞬間に、茨木はそれがとても旨そうだと思った。それは何故か分からない。だが、彼はその欲望の赴くままに指を舐めた。

「いいってことよ。気をつけろよ?」

 その客の声は、もう茨木の耳には届いていない。

 それは、今までに味わったことのない甘みと、そして体を満たす充足感を持っていた。必死に平静を装い、彼は仕事を続けた。しかし、その頭の中は先程の血の味で一杯になっていた。

 それから茨木は父と母が見ていない時を選んでわざと客を剃刀で傷付け、その血を舐めるようになった。茨木の体格もあり、文句を言う客はほとんどおらず、次第に茨木は血では満足できなくなって行った。


 人の肉が食いたいと、そう思った。


 その欲は抑えねばならなかった。人を殺せば後戻りはできぬ。父や母の元にもいられなくなるだろう。

 そう思い、一年(ひととせ)ほどの間は血を舐めるだけで、心で欲を抑え込んでいた。しかし獣を捕らえ、その生き血を啜ろうと、その肉を食い千切ろうとも彼の欲は満たされぬ。

 それが異常なことだと理解していながら、人の肉に牙を突き立てることを欲した。

 そしてその日、茨木はある若い女の客を相手に仕事をしていた。血の味ばかりを求める己に嫌気が差していた彼は、その日においては一度も彼女の顔を傷付けまいとしていた。だが、それが彼の欲望に拍車をかけた。

 仕事が終わり、女は店を出た。その時茨木は彼女が荷物を忘れていることに気が付いた。そして、父の言付けで女を追い掛け、それを届けることとした。

 人並み外れた体力を持った茨木の足は速かった。女の足になどすぐに追い付くことができた。

 だが、茨木はすぐには彼女に荷物を渡すことはしなかった。無意識のうちに一定の距離を取って女を追っていた。

 女は次第に人気(ひとけ)のない道へと入って行く。

 時は黄昏。一日において最も妖気が濃くなる刻限。

 気が付いた時には、茨木は女へと躍り掛かり、その首に自らの牙を突き立てていた。鮮血が茨木の喉へと流れ込む。

 それはどうしようもなく旨かった。茨木はまだ息のある女の肉を食い千切り、そして飲み込んだ。辺りが暗い闇に沈む頃、その女の命と引き換えに、やっと茨木の腹は満たされた。




 口から血を滴らせながら、正気に戻った茨木は自らの行いが起こした結果を見た。肉を食い千切られ、元の姿が想像できない程に惨たらしく殺められた女の亡骸。それが彼の目の前に横たわっている。

 茨木にはその光景が信じられなかった。自分は人を殺した。それだけでなくその肉を食らったのだ。それはもう人の行いではない、そう思った。

 家に帰ることはできず、茨木はふらふらと山の中を歩いた。そして自分の目が月明かりさえも届かぬ森の中にも関わらず、まるで昼間のように良く見えていることに気が付いた。

 そのまま当てもなく森の中をさ迷っていると、やがて水の流れる音が聞こえて来た。川がある。茨木は血に(まみ)れた己の体を洗い流そうと、音のする方へと向かった。

 森を抜けると、思った通りに通りに川はあった。茨木はその川に掛かった橋へと上がり、そして水面(みなも)に顔を近付け、言葉を失った。

 そこに写るのは人の顔ではなく、額に三本の角を生やした、灰色の皮膚の男。口は裂け、目は赤く光っている。その物の怪の顔が、茨木を見返していた。

 茨木は震える両手に視線を向ける。普段よりも一回り大きくなり、赤い血と灰色の皮に染まった二つの手。爪も鋭く伸びている。

 そこに、人であった茨木の面影はなかった。

 鬼と化した一人の童子は、澄んだ夜空に向かって絶望の声を上げた。




 その姿故に人里に下りることもできず、茨木はただ山中を徘徊した。力は人であった頃よりも増大していたため、動物を獲って食らうことには困らなかった。

 だが、猪や野兎の肉では腹は満たせても欲は満たせぬもの。人の肉が食いたいと、何度もそう思った。しかしそれは恐ろしいことだと知っていたから、できなかった。

 そして何より、人にこの鬼となった姿を見られたくはなかった。

 父と母はいなくなった自分をどう思っているのだろう。元々は実の子ではない自分がいなくなり、食い扶持が減ったと喜んでいるのか。それとも嘆き、探し回っているのか。できれば前者であれば良いと鬼子は思う。

 鬼子であり、捨て子である自分を拾い育ててくれた親に、人を殺めて化け物となってしまった自分が顔向けできるはずがなかった。

 一月(ひとつき)ほど山中を放浪する生活が続いていた頃のこと、茨木は初めて自分以外に言葉を話すものと遭遇した。

「ば、化け物!」

 男は茨木の姿を見て、そう言った。

 それは人だったが、弓と矢とを持っていた。山に獣を狩りにでも来たのだろう。その男は異形の茨木を見て慌てて弓を構えた。

 反射的に茨木は腕を振った。ただそれだけの行為は、いとも簡単に男の体を引き裂いた。

 地面に叩きつけられ、命を絶たれた男の死体を茫然と見つめた。また、人を殺めてしまった。だが、その右手についた赤い液体は、彼の本能を呼び覚ます。抗えない程に。

 血の匂いが鼻を突く。茨木は静かにそこに座り込み、そして再び人の肉を口にした。




 それから丹波の山の(ふもと)では、人が妖に(さら)われるという噂が立つようになった。夜になると人々は戦々恐々とし、自らが狙われぬことを祈った。

 茨木は人を食らう鬼となった。己の感情とは裏腹に、人の肉を食うことが止められなかった。鬼となった自分を受け入れられずにいながら、ただ人を襲い続けた。本当に自分は、化け物となってしまった。

 夜の闇に紛れて人を攫う物の怪。だが彼は決して自分を育ててくれた髪結床屋の側へは近付かなかった。あの二人にだけはこの姿を知られたくなかった。

「俺は……化け物だ……」

 宵の闇に座り込み、茨木はそう息を吐く。もう人には戻れはせぬ。

 後悔か、孤独か。茨木の心は満たされぬ。その代わりとするように、茨木は己の欲に従った。

 そうやって人を食らうようになり、また一月(ひとつき)二月(ふたつき)と経って行った。人は鬼に比べれば弱い。しかし、それでも彼らはただ黙って殺されることを良しとはしなかった。




 荒い息を吐きながら茨木童子は森の中を走っていた。その右肩には矢が突き刺さり、頭部にできた裂傷からは血が流れている。

「いたぞおお!」

 声が山中に響く。鬼を追い、殺そうとする人の声。何十という武装した人間たちが茨木を追っていた。

 食うために何人も殺して来た。だから人も自分たちを守るために鬼に立ち向かう。この世の道理だ。それだけのことを俺はやったのだ。

 もう逃げ場はなかった。もうこれで終わりなのだろうと、そう考えた。人の道理に外れた自分には、もう生きる道など残されてはいない。

 それぞれ武器を持った人間たちが茨木を囲む。茨木は膝をついた。鬼子として生まれた己の最後に相応しいと、自らを嘲った。

 これでもう、己の在り方に悩まずとも済む。そう思った。

 だが、茨木に刃が届く前に人々の間にどよめきが走った。目を伏せていた茨木も異変を感じてその瞼を開いた。

 茨木の目に見えたのは、身のたけ二丈はあろうかという大男だった。その頭部には五本の角が生え、そして耳元まで裂けた口は笑みを浮かべている。

 それは茨木と同じ、鬼だった。

「これだけ数がいりゃあ、少しは楽しめるかのう?」

 巨大な鬼はそう豪快に笑った。人々は恐れ戦きながらもそれぞれが弓を構え、矢を放つ。だが、それは赤い体をした鬼の体を貫くことさえできない。

 鬼は右手に握った一丈以上はある巨大な刀を振った。たったその一振りで、彼の前にいた男たち四人が真っ二つに切り裂かれ、亡骸として地に転がる。それを見て、大鬼はふんと鼻を鳴らす。

「何匹集まったところで雑魚は雑魚か」

 それからは一方的だった。人の武器はその巨大な鬼に傷を与えることができず、鬼の振う刀は紙切れのように人の体を引き裂いた。そんな戦いとも言えぬ殺戮が続き、いつの間にかそこに人の姿はなくなっていた。

 後には、ただ二体の鬼の姿が残った。

「おめえ、儂と同じ鬼じゃな?」

 赤い鬼は刀の先を地面に突き刺し、そしてそう茨木に目を向けてそう問うた。

 茨木が曖昧に頷くと、鬼は楽しそうに笑って「そうか、そうか」と言い、腰に結んでいた徳利を口に運んだ。酒の匂いが漂う。

「儂は酒呑童子(しゅてんどうじ)。お前さんと同じ鬼じゃ。しっかし久々じゃのう。鬼と会うのは。どうじゃ、飲むか?」

 そう酒呑童子と名乗った大鬼は酒を勧めたが、茨木は首を横に振ることしかできなかった。

 それが、茨木童子と酒呑童子との出会いだった。

 後に固い主従の絆で結ばれ、百鬼夜行を作り上げる二体の鬼たちは、丹波の山奥でこうして野良の鬼として互いを認めたのだ。




「なあ、お前さんも元は人だったんだろ」

 岩場に腰かけ、酒を喉に流し込んでから酒呑童子が言った。真夜中の川辺であるから、人に見つかる恐れはなかった。見つかったところで酒呑童子に勝てるものなどはいなかっただろうが。

 酒呑童子はもう二丈の巨大な鬼の姿ではなく、無精髭を生やし、赤みを帯びた髪を無造作に伸ばした人間の男の姿になっている。それでも鬼の姿である茨木と同じぐらいの背丈があり、体は固い筋肉に覆われている。

何故(なにゆえ)、それが……?」

「儂も同じだからよ。儂も元は人じゃった。これはその時の姿じゃ」

 親指で己を指し、そう酒呑童子は小さく笑みを作る。

「お前さんはどうして鬼になったんじゃ?話してみい」

 人から鬼へ、茨木が初めて出会った己と同じ境遇にいる男はそう問うた。そして、茨木はそれまでのことを初めて他者に吐露した。鬼子として生まれ、本当の鬼と化すまでの話を。

 酒呑童子は黙って茨木の話を聞いていたが、それが終わると豪快に笑った。

「そうか、お前も鬼子として生まれたのか。儂も同じじゃ!」

 そう酒呑童子は茨木の肩を叩く。

「儂も生まれた時から牙やらなんやらが生えていたというのが気にらなかったらしく寺の前に捨てられてのう。しばらくは寺で大人しくしてたんじゃが、どうもあそこは儂には合わんでな。ぶち壊して出て来てやったわ」

 酒呑童子は昔を懐かしむ風でもなく、ただ笑ったままそう言った。

「それから盗賊になってな、色々仲間もいたが、裏切られた。だが儂は裏切り者を含め、儂を追って来たものたち全てを殺してやった。その時じゃよ。儂が鬼になったのは」

 酒呑童子は茨木に酒を勧めるが、茨木は断った。酒は飲んだことが無いが、飲めば頭がぼうとすることは知っていた。それよりも、茨木は人から鬼となった目の前の男の話をしっかりと聞きたかった。

「お前は、己が鬼となったことを悔やんでおるか?」

 酒呑童子はそう茨木に問うた。

「俺は……、鬼になってしまってから、己の在り方が分からぬのです」

「そうか。それはな、鬼となった己を否定しているからだ」

 酒呑童子はそう茨木に答える。

「儂もお前も鬼子として生まれた。周りの人間どもに疎まれ、捨てられるのが鬼子の宿命(さだめ)じゃ。それでも我らは生き延びた。そして、鬼となった」

 酒呑童子は徳利を口に運び、そして一口酒を飲んだ。

「儂は己が鬼と化したことを悔やんではおらぬぞ。儂は鬼として、己の望むままに生きる、そう決めたんじゃ」

「鬼として、生きる……」

「そうじゃ。人間どもが儂らを鬼と呼びたいのなら、呼ばせておけば良い。だが儂は誇りは捨てぬ。己を否とするのではなく、是とするのが鬼の生き様じゃ。どれだけ他のものたちに疎まれようと、力に抗い、そして己のために戦うのが鬼というものじゃ。お前も、そうすれば良い」

 鬼としての己を是とする、それは茨木の中にない答えだった。人を襲い、肉を食らう鬼は否定されて然るべきものだと思っていた。

 しかし、目の前にいる鬼は違った。鬼と化した己を受け入れ、望むままに生きる。その生き様は羨ましくもあり、また恐ろしくもあった。きっとそんな生き方を志した時、鬼は人であったことを全て捨てるのだろう。

「儂はな、(みやこ)を目指しとるんじゃ」

 酒呑童子は月を見上げながらそう茨木に言った。

「京とは、あの平安の?」

「そうじゃ。あそこは人や妖が最も集まる場所。そこで己の腕を試し、そしてこの酒呑童子の名を轟かせる。それが儂の望みじゃ。お前も一緒に来るか?」

 唐突な誘いに、茨木は一瞬返事ができなかった。鬼として生きるか、人としての過去にしがみつくか。答えは一つに二つ。茨木は真っ直ぐに酒呑童子を見た。

「連れて行っていただけるのですか」

「当たり前じゃ。お前も鬼、儂も鬼。それで理由は十分じゃ。ならば、お前はこれから茨木童子じゃ。儂と同じ童子の名を持つ鬼じゃ。共に京を目指そうぞ」

 酒呑童子の右腕であり、鬼としての茨木童子はその夜に誕生した。茨木は初めて、鬼としての己を受け入れてくれるものに出会った。



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