滝夜叉 (一)
他所にても 風の便りに 吾ぞ問ふ 枝離れたる 花の宿りを
―遠く離れていても香を運ぶ風の便りによって、枝を離れて散った花のありかを尋ね求められる。同じように人々のうわさによって、散る花のように離れてしまったあなたを案じている―
『将門記』より 平将門
焼け崩れた古城の跡で、その娘はただ独り目覚めた。
周りには自分の侍女たちや、配下であった物の怪たち、武人たちの焼き焦げた亡骸が倒れている。肉と骨の焼けた匂いが鼻を刺激する。
娘は自らの腹を見た。己が刀を突き立てた筈のその皮と肉とは今や跡形もなく塞がり、痛みさえも感じない。それはもう人の体とは言えぬものであろう。娘はそう自嘲する。
娘は辺りを見回す。そこに命あるものの姿はない。皆あの憎き大宅太郎光圀、そして源頼信らがここに攻め入ったことにより死んでしまった。ある者たちは自害し、ある者たちは戦いの果てに首を刎ねられた。その惨状を作り出したものたちは既にこの場所を去ったのだろう。
あの時と同じだ。父を殺され、更に一族郎党を掃討されながら弟、良門とともにただ二人で生き延びたあの日々と。とても恐ろしくて、そして悔しき時代だった。
外伝「滝夜叉」
娘、滝夜叉は傍らに落ちていた己の薙刀を支えにして立ち上がった。夕陽が彼女を照らしている。
父は私の目の前で死んだ。朝廷へと反旗を翻した父、平将門は、中央のものたちとの戦の末に流れ矢に倒れ、そして晒し首とされた。
無念であった。女であり、まだ年端も行かぬ娘であった滝夜叉は父とともに戦うこともできず、ただ幼い弟を連れて逃げ惑うしかなかった。獄門とされた父の無念を、殺された兄弟たちや一族の怨みを偲ぶしかなかった。
そして残され、また朝廷の手から逃れた滝夜叉は決意した。父の悲願を遂げるため、死したものたちの弔いのため、自ら生を捧げることを。そのためならば鬼に、魔に、妖になることを厭うものかと。かつて彼女は貴船の荒魂にそう願い、そして妖術使いとしての力を手に入れた。だが神が与えた力はそれだけではなかったのかもしれぬ。こうして人ならざるものとして此処に立っているのだから。
人は強き思いの果てに鬼と化す。かつて父がそう話してくれたのを思い出す。この世に現る鬼の中には、元は人であったものも多いのだと。
ならば何故父は鬼とならなかったのか、死した後もう一度立ち上がって私を導いてくれなかったのか、そう悔しさに似た思いも同時に抱く。
しかし私は鬼となった。ならばこの行く末も決まっている。
「お主の望み通りとなったのだろう。刀で腹を裂いてすぐに塞がる人間などいはしない。お前はもう、人ではなく鬼となったのだろうよ」
後ろに現れた怪しげな気配。しわがれていながらも、湿気を含んだようなその独特の声に滝夜叉は振り返る。
「肉芝仙か」
滝夜叉は白髪の頭に巨大な蝦蟇の皮を被った老人をそう呼んだ。肉芝仙はゆっくりと滝夜叉の横まで歩み寄り、立ち止まる。
「滝夜叉よ、その鬼としての力をどう使う?」
「知れたこと。父上の遺志を遂げるまで」
滝夜叉の言葉に肉芝仙は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そう言うと思うたよ。儂が見込んだだけのことはある」
粘り気のある声に滝夜叉は顔をしかめる。この異人は何故か滝夜叉、そして良門の悲願に手を貸してくれている。良門に力を与えたのもこの翁だ。その理由は分からぬが、何か目論みがあるのだろう。
しかしそれを抜きとしても、滝夜叉はこの翁に良い感情を持っていなかった。あの者が発する妖気や霊気、そして気配が彼女に不快な感情を抱かせる。
それに、良門の下に向かった筈の彼が一人で帰って来たことが気になった。共に生き延びた唯一の肉親であり、そして共に悲願を遂げるため、この肉芝仙の力によって妖術使いとなった良門、彼はこことは別の場所で都のものたちと戦っていた筈だ。
「良門はどうした」
「死んだよ。都のものたちに殺された」
肉芝仙は淡々とそう告げた。滝夜叉は一瞬目を見開き、そして首を垂れた。
「そうか……、良門も……」
弟が死んだ。父の遺業をともに遂げようと誓った時から、どちらかが死ぬことぐらいは覚悟はしていた。しかしたった一人の家族を失ったと言うその事実は容赦なく彼女の心を締め上げる。そしてその痛みが新たな憎悪へと変わって行くのを滝夜叉は感じていた。
朝廷のものたちは、人間たちは、この私から全てを奪って行く。滝夜叉は薙刀の柄を握り締めた。その手が微かに震えている。
ならば私は良門の遺志をも背負わねばならぬ。父が、良門が望んだ世のためにこの身亡びるまで刃を振おう。憎き朝廷を転覆させるため、そしてこの東国に新たな国を築き上げるために。ただそれだけが自分に残されたものだ。
「ならば如何とする。己一人で朝廷に刃向かうか?」
肉芝仙が下卑た笑みを顔に張り付け、そう将門の娘に問いかける。滝夜叉は彼を流し目で見やり、そして答える。
「我とてそこまで馬鹿ではない。この命無駄にするようなことはせん。幸い人ならざる身体を手に入れたのだ。何十年、何百年掛かろうと朝廷に勝利し得る新たな鬼の群れを作り上げる」
「そうか、迷いはないな。ならば儂も手を貸そう。お前の下にいれば、しばらく退屈しなさそうだ」
滝夜叉は答えず、山を燃やすように沈み行く太陽に目を向けた。あの西の先に憎き都がある。渦巻く怨念とともに、滝夜叉はその景色を己が瞳に焼き付けた。
新たなる復讐を誓ったその日の証として。