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― 黄泉夜譚 外伝 ―  作者: 朝里 樹
平安京の鬼
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平安京の鬼 (一)

 気れては風新柳の髪をけづ

 氷消えては波旧苔きうたいの鬚を洗ふ

― 空は麗らかに晴れ、風はさながら佳人の髪のような新芽の柳を梳るように吹く。

 氷は解け、さざ波が岸の苔を洗うさまは、さながら去年からの古い顎髭を洗うようだ ―

 『和漢朗詠集』より 都良香(みやこのよしか)

 この漢詩を羅城門の下で歌った際、門の楼にいた何者かが「あはれ」と言ったと伝えられる。


外伝「平安京の鬼」


 茨木童子は一人酒を呑む。かつて酒呑童子が最も好んだ酒と同じ、大江山の湧水から醸造された酒。

 酒が特別好きな訳ではないが、この味は懐かしい記憶を思い出させてくれる。酒呑童子と、そして共に戦った妖たちと宴に興じたあの日々を。

 いつまでも過去にしがみ付くのは無駄なことなのかもしれぬ。だが、今の茨木童子にとってはそれが全てだった。人であったことをやめ、鬼として生きられたことに誇りを持っている。それを酒の味とともに改めて噛み締めた。

 まずは過去に置いて来た左腕を今夜取り返す。その後はこの都を離れ、そしてまた新たな日々を生きる。

 過去を忘れる訳ではない。過去に決着を付けるため、あの死神と九尾を探す。その先のことはその時に考えれば良い。

「茨木、もうすぐがごぜの準備ができるみたい」

 いつの間にか羅城門の屋根へと登って来た清姫が言う。彼女はそのまま、茨木の隣に腰を下ろした。生ぬるい風が吹く夜だった。夜の帳が下りた都には、人の姿も妖の姿も見えぬ。

「清、これは酒呑童子様の命ではない。お前は別に力を貸す必要はないぞ」

 次の相手は頼光とその配下四天王。幾十、幾百という妖が彼らによって殺されている。今までの相手とは訳が違う。清姫にはそこまで自分を助ける義理はない、茨木童子はそう思う。

「今の血の気が多い貴方を一人で行かせるのは不安だわ……。貴方まで死んだら、私も寝覚めが悪いもの」

「お前にもそういう気持ちはあるんだな」

 茨木は言い、酒を勧める。珍しく清はそれを受け取り、蛇の舌でちろりと舐めた。

「私が最も憎むのは、契りを破ること……。それは貴方も知っているでしょう? 私は酒呑童子様とあなたに助けられた時、付いて行くと約束した。だからここにいるだけ……」

 茨木は頷いた。清姫と出会ったのは、もう百年は前になろうか。あの日から清姫の顔は陰を覗かせていた。茨木は彼女が笑ったところさえ見たことがない。

「お前はあの時死にたかったのではないかと、俺が余計なことをしたのかもしれんと思うことがある」

「貴方がそんな風に言うのは珍しいわね……」

 清姫は愁いに満ちた目を茨木に向けた。

「いいえ、私はどうでもよかったの。生きようが死のうが、どうせあの人は私がこの手で殺してしまったのだから、どちらにせよもう会えないもの。だけど、貴方のことは恨んではいないわ。貴方に、酒呑童子様に命を救われて、それで今日まで生きてきた。それなりに、私も救われていたのかもしれない……」

「そうか、ならば良い」

 茨木はまた一口、酒を舐めた。




 茨木が清姫を初めて出会ったとき、彼女は真っ白な顔をして水に浮かんでいた。その遥か向こうには緑色の炎に燃え盛る寺が見え、水面にかろうじてその光が反射している。

 入水を図ったのだだろう。それが人であったならば、いや妖であったとしても普段の茨木ならば捨て置いたはずだ。自ら死のうというものをわざわざ助ける必要はない。むしろ怨みを買うだけになるやもしれぬ。

 だが、茨木は直感的にその女が自分と同じく人から妖となったものだと悟った。そして無意識のうちに川から引き揚げていた。自分でも、何故そんなことをしたのかは分からなかったが、わざわざもう一度水に沈めるべきでもないとも思った。

 だから彼は、彼女の横に座って待った。

 しばらくすると女は目を覚まし、そして酷く暗い色を帯びた目で茨木の姿を認めた。

「貴方が私を助けたの?」

「ああ」

「そう……」

 女はそれだけ言うと、冷たい草の上から体を起こし、顔を俯かせたままただ黙り込んだ。敵意も失意も感じない、ただ女から漂う霊気は何の感情も孕んではいないようだった。

「お前は妖なのか」

「恐らく……、今はそうなのでしょう」

 女は己が妖と化したことに対しても何の感想さえも抱いていない様子でそう言った。かつて自分が鬼になった時とは全く違う。

 女の心は、これ以上にないほどに乾燥しているように茨木には思えた。

「俺は茨木童子、お前と同じ妖だ。お前、名は?」

「私は、清」

 女は消え入りそうな声で答える。茨木はしばし思案した後、言った。

「行く場所がないなら、良いところがある。俺たちのような妖がたくさんいる場所だ。来ないか?」

 わざわざ己の勝手で死のうとしていた彼女を救い出してしまった手前もあり、茨木はそう提案した。清と名乗った女は黙したまま首肯する。

 自分と同じように妖となり、そしてこの世に絶望している女。それを自分は放ってはおけなかったのかもしれぬ。

「何があったかは知らんが、全てを失ったところでまた生きる理由を見つけられない訳じゃない」

 茨木は清の方を見ぬままにそう言った。それに彼女がどう反応したのか、彼は知らない。




「酒呑童子様の下でともに戦ったのは、もうお前だけだな、清」

「ええ……」

 清は頷いた。

 酒呑童子と出会い、清姫と出会い、それから茨木は再びほとんどのものを失った。主も、大江山も、左腕も。自分が鬼になった直後の日々に戻って来たのかもしれぬと思ったこともある。あの絶望にただ打ちのめされていた日々に。

 だが今彼の隣には、ずっと共に戦ってきた清姫が、自分を憎みながらも付いて来る酒呑童子の忘れ形見、鬼童丸が、平安京を見続け、そして新たな妖の時代を見るためと力を貸してくれる朱雀門の鬼が、そしてまだ出会ったばかりにも関わらず、茨木の左腕のための戦いに参じてくれるがごぜがいる。

 あの頃に比べればずっと恵まれているのだろう。茨木はふと表情を和らげた。

「清、今更だが、死ぬなよ」

「それは……、命令?」

 清は首を傾げ、そう問うた。

「いや、約束だ」

「そう……、分かったわ。契りは、守らねばならぬものだから」

 そう呟く清姫の顔が、ほんの少しだけ和らいだように茨木には見えた。気のせいだったかもしれぬ。だが死なぬと言ったのだからそれで良い。自分の左腕のため、たったひとり生き残った大江山の妖を死なせることはしたくない。

 茨木は立ち上がった。時は来た。平安京の鬼としての最後の戦いが迫っていた。




 渡辺綱(わたなべのつな)は部屋の中で一人座り、目を閉じていた。

 安倍晴明に物忌を言い渡された以上、この屋敷から出る訳には行かぬ。しかしそれではあの鬼を殺しに行くことができぬ。

 勿論この都にいるのは綱だけではない。頼光も、貞光も、季武も、金時もいる。だが彼らは綱ほどに鬼の討伐に積極的ではない。

 今にも刀を手にとって外に飛び出そうになるのを必死で抑える。今こうしている間にも、鬼のために涙を流すものたちがいるかもしれぬのだ。

 辺りは暗く、もう夜になっているらしい。一日がここまで長く感じるのは初めてだった。その時、微かな物音に綱は素早く反応した。

「綱よ。私じゃ。伯母の真紫じゃ」

 戸の向こうから聞こえる声には、確かに聞き覚えがあった。綱は刀を腰に佩き、そっと戸に近付く。腕の痛みなど既に関係はなくなっている。

「真紫様ですか」

「そうじゃ。戸を開けとくれ」

「私は今、物忌のただ中であります故」

 言いながら綱は刀の柄に手を掛ける。鋭い眼光が戸を透かして相手を睨む。

「おお、幼いころ大切に育てた報いが、この仕打ちか」

 さめざめと泣くような声が聞こえた。綱はわざとらしく溜息を吐き、そして言う。

「仕方ありませんね。戸を開けましょう。しばしお待ちを」

 綱は言い、その直後刀を引き抜くと同時に戸を叩き斬った。伯母のものではない、しわがれた悲鳴が上がる。

「じゃからこの役目は嫌だったんじゃ!」

 転がるようにしてかろうじて太刀筋から逃れた、女物の装束を身に纏った禿頭の鬼がそう悪態を吐いた。鬼が目の前にいる以上もう物忌などしてはいられぬ。綱は堂々と屋敷の外に立つ。あの陰陽師の言付けなど知ったものか。

「貴様、茨木童子ではないな。まあ良い。お前もこの刀の錆にしてやる」

 綱は刀を振り上げるが、鋭い視線を感じてそちらに注意を向けた。

 そこに、あの片腕のない鬼が目をぎらつかせて立っている。綱は無意識のうちに口の両端を釣り上げた。

「こちらから出向かずともそちらから現れるとは、手間が省けた」

 禿頭(とくとう)の鬼はひいひいと言いながら既に刀の届かぬ場所へと逃げいている。だが今はそちらに注意を向けている余裕はなかった。この目で捉えているのは、茨木童子だけではない。

「やはりがごぜのみでは駄目だったか」

 そう言葉を発したのは、茨木童子の後ろに立つ背の高い鬼。見たことのない鬼だが、関係はない。妖であるならば切り捨てるまで。さらにその後ろには清姫と呼ばれていた大江山の妖と、先日清姫に抱えられていた若い鬼がいる。

 計五体の妖。だが綱はその全てを自らの手で葬る気でいた。相手が何人いようと関係はない。この刀が届くところに妖たちがいる。この都の夜を脅かしている。

 かつての己の妻や子のように、彼奴らによって全てを奪われたものがいるかもしれぬ。それを思えば、その場を立ち退くことなどできはしなかった。

「掛かって来い、鬼ども」

 綱は低く怒声を響かせ、そして刀を構えた。直後、彼の後ろから何かが空気を切って鬼たちへと向かった。それが矢であると分かった時には、その矢は茨木の刀によって切り捨てられていた。

「熱くなるな、綱よ」

 そう背に掛けられる良く知った声。そして彼の主である頼光が綱の横に立った。その左腕には弓が握られている。

「頼光様」

「鬼退治は一人では難しかろう。助けに来てやったぞ」

 頼光の後ろから貞光、季武、金時が次々と現れた。それぞれ皆刀を腰に佩いている。

「やっぱり物忌なんてお前には無理だったな。あの陰陽師に聞いて正解だったぜ」

 金時が笑みを浮かべて言う。綱は答えず、ただ口元だけで笑った。

 恐らく晴明が知らせたのだろう。あの陰陽師は奇妙な術を使って都のことならば何であっても把握している。綱は溜息を吐いた。別段自分一人で鬼を殺さねばならぬ理由はない。彼らがいてくれるならば、負けることはないだろう。

「頼光様、(めい)を」

 綱は刀を構えたまま言った。頼光は穏やかに笑み、そして彼に命じる。

「茨木童子との因縁を断って来い。あとのものたちは、私たちで何とでもしよう」

 綱はその言葉に力強く頷いた。




 鬼と人とが一斉に動き出す。五人の人と鬼は月夜の下、武器を抜いた。



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