因縁と劒 (二)
後に残された綱は太刀を収め、肉を食い千切られた左腕を抑えた。戦いの熱が冷めた今、忘れていた痛みが彼の左腕にその存在を強く知らしめる。
逃げていた彼の馬が小走りで主人の元へと駆け寄って来る。綱は無言のまま、その背に跨った。
「それで逃げて来たか。賢明な判断だな」
朱雀門の鬼は茨木に薬の入った竹筒を投げて渡し、そう言った。恐らく彼自身が調合したものだろう。
茨木は竹筒に入った薬を受け取り、口に咥えて右手で栓を抜いた。そしてそのまま首を傾けて右肩に薬を振り掛ける。
一瞬鋭い痛みが走り、そしてすぐに引いた。傷に薬が染みて行くのが分かる。茨木は一度息を深く吐き、そして朱雀門の鬼を見た。
「俺はまだ戦えた」
「一時の感情に身を任せるとは、貴様らしくないぞ羅城門」
朱雀門の鬼は言いながら、何やら黒い粉と青みを帯びた液体を混ぜている。茨木の鼻をすえた臭いが突いた。
その通りだ。茨木は自戒する。感情に身を任せる酒呑童子の元で、冷静に状況を判断するのが茨木の役目だった。それなのに自分が熱くなってしまってどうするのか。
酒呑童子のためでなく、己のための戦いだったのが久々だった故かもしれぬ。
茨木らは今、朱雀門の楼にいた。朱雀門の鬼が住処としているそこに、人が干渉することはほとんどないが、もしかすればあの綱達が嗅ぎつけて来るかもしれない。それを言うと、朱雀門の鬼は首を横に振った。
「人と戦わずとも人に見つからぬ術など幾らでもある。しばらくはここにいろ」
茨木は少し逡巡したのち、首肯した。
楼の中には二人の鬼の他、清姫と鬼童丸がいた。鬼童丸も清姫の後を追ってここまで来たようだ。手負いとはいえ、綱に見つかれば殺されていた可能性もある。無暗に襲い掛かったりせずに逃げてきたのは、懸命な判断だっただろう。
清姫はぼんやりと楼の外を眺めているが、鬼童丸は床に腰を下ろし、何かを考えるようにじっと下を見つめている。
「どうした鬼童丸」
茨木は壁に背中を預け、そう若い半人半妖に問う。鬼童丸はちらと顔を上げ、そして言った。
「俺、あんな人間初めて見た」
「だろうな。俺もあんな人間はほとんど見たことがない」
鬼童丸の言わんとすることは分かる。自分を打ち負かした茨木童子、それと対等に渡り合う人間がいることが信じられぬのだろう。
かつて綱たちが大江山に現れ、そして鬼童丸の母親を救い出したと言ってもそれは彼の生まれるより前のこと。言葉に聞いたのみで実感できる筈もない。
鬼童丸もこれまでに幾度も人を殺めているはずだ。その中には武士もいただろう。だが、片親の妖の血しか流れておらぬ彼とさえ、張り合えることができる武士と出会ったことはないのだ。
若い彼にとって綱の存在は予想することのなかった、そして恐れねばならぬ存在なのかもしれない。
いや、かつては多くの鬼が、今の鬼童丸以上に彼を恐れていた。多くの妖たちが彼の手で殺されていたため、彼の名を聞いただけで逃げ出すものもいる程だった。
茨木童子もそんな人間は、数えるほどしか知らぬ。
朱雀門の鬼が鬼童丸の方に顔を向け、そして静かな声で言う。
「幾百年も前から、弓や剣のみで妖と戦い、そして打ち伏せることのできる人間は少なながらにいたものだ。藤原秀郷や坂上田村麻呂などのようにな。あやつらは私たちのように妖力も、強靭な肉体も持たなかったが」
その名は茨木も何度か聞いたことがある。かつて多くの妖を殺し、武功を立てて多くの妖に恐れられた人の名。どの時代においても、そんな人間は現れるものなのだろうか。
茨木は朱雀門の鬼に視線を向け、そして言う。
「朱雀門、俺の左腕は、あの綱から取り返すことができればもう一度使い物になるのだろう」
「貴様が望めば、どうにでもなる」
朱雀門の鬼は相変わらず愛想のない声で答える。だがそれで十分だった。茨木の腰には未だ、二つの刀がある。
「お前が負けるとは珍しいな、綱よ」
綱より十程歳を経た壮年の男が笑いながらそう言った。その前には綱がおり、彼はじっと畳を見つめたまま反論する。
「負けた訳ではありませぬ、頼光様」
しかし頼光と呼ばれた男は口の方端を上げ、綱に対して言葉を投げる。
「どうかな。茨木童子ひとりならともかく、その蛇のような妖に加勢されていればお前も危うかっただろう。その傷ではな」
綱は布の巻かれた己の左腕を見た。昨夜茨木童子の牙によって骨に達するほどに抉られた肉は、ある陰陽師に渡された薬を塗り込んではあるが、まだまともに動かせる状態ではない。
すぐにでも茨木童子の息の根を止めてやりたいが、動かぬ片腕がもどかしい。
「しかし、あやつを殺さねば都のものたちは安らぐこともできませぬ。早急に手を打つべきかと」
「そう焦るな。お前は妖のこととなるといつも熱くなる。まずはその傷を癒すことに専念しろ」
そう窘められ、綱は口籠る。源頼光、綱が主として仕え、そしてこの都で誰よりも強いと信ずる武士。かつての大江山の戦においても、綱はこの頼光に従って戦った。
その彼の命には逆らえぬ。武士である綱はそれ以上言葉を発することなく頭を下げた。
「その傷が治った暁には、存分に力を振るわせてやると約束しようぞ。その時は私も共にに行こう」
綱は己の住居への道を辿っていた。妻も子もいない一人住まい。狭い家の戸を開けると、冷たく乾燥した空気が流れ込んで来た。
綱は無言のままに屋敷へと上がり、そして部屋の奥に積まれた数多の箱に目を向ける。
そのひとつひとつには、彼の妖たちの腕が収められている。綱は、自らが殺めた妖の片腕を切り取り、それを証としてひとつずつ箱に納めていた。
それは、かつて妖に食われた妻と子の弔いのため。綱は拳を握り締める。
十年ほど前、まだ武士としては未熟だった頃、彼には妻と子がいた。とても温かく、幸せな日々だった。だがそれを妖によって壊された。
都を襲う妖の集団。あの頃は毎夜のように現れた。夜になれば都のものたちは家の戸を固く閉ざし、百鬼夜行が過ぎるのを待つ日々を送っていた。
綱は頼光に従う武士の一人として、その日も夜の都の警護にあたっていた。人々の眠り、そして妻や子を守るために。
だが夜明け前、百鬼が消えるのを待って家へと帰った彼の目の前に広がっていたのは、血に濡れ、変わり果てた我が家の姿。
残っていたのは妻のものと思われる右腕だけだった。あとは、全て食われてしまったのだろう。子の姿はどこにも見当たらず、ただ妖の牙や爪の痕が屋敷中に深く刻まれていた。
一夜にして、彼は全てを妖によって奪われた。
綱は嘆き、そして妖を憎んだ。その絶望の闇の中で唯一残ったもの、それは復讐であり、己の手を汚して妖を殺すことだけだった。
それから彼は頼光の部下として武功を上げ、四天王の一人、そして筆頭として数えられるようになった。しかしそれが彼を満足させることはなく、渡辺綱は武士として幾つもの妖の命を奪い、そして人として妻と子の菩提に弔った。
全ての妖を憎む訳ではない。しかし人の敵となる妖は、人の手で殺さねばならぬ。綱は自ら殺めた妖の証を眺めながら、決意を新たにする。
綱は箱を一つ取り、その蓋を開けた。短い毛に覆われた、太い腕。それは切り取られて幾年も経っているにも関わらず、未だ断ち切ったその赤い肉から血を滴らせている。
この腕の主が生きているためだ。この腕こそ茨木童子の左腕。綱はその腕をじっと睨む。かつてこの都にて幾百もの人の命を食い散らかした大江山の鬼の生き残り。そして酒呑童子の片腕。
あの鬼を生き延びさせる故は、どこにもない。
昨夜の出来事から、またひとつ昼が過ぎて夜となった頃、朱雀門の鬼は茨木に対し提案を持ちかけた。
「貴様が綱より左腕を取り返そうと言うのならば手を貸そう。しかしこの頭数では心許ない。一人使えそうなものを知っているが、どうだ」
「そうか。頼む」
茨木は素直に頷いた。己の力不足は己が最も知っている。一夜明けたこと冷めた頭は、まず誇りや意地よりも左腕を取り返すことを優先すべきだと命じていた。
酒呑童子の仇を取るためにも、それは不可欠だった。片腕ではあの九尾や死神には勝てはしないだろう。それに、あのものたちと対峙する前に倒れては何も意味がない。
人を捨てた己の身。ならば鬼としての己を是とし、劒を振う、それを教えてくれた主のため、無為に死ぬことはできぬのだ。
「それで、その使えそうなのはどこにいるんだ?」
鬼童丸が朱雀門の鬼に対し、常よりも落ち着いた声でそう問うた。彼にとって朱雀門の鬼は母の仇ではない。そのため、幾分か話し易いのかもしれぬ。
「大和国だ。元興寺に出たという鬼の話を聞いたことはないか?」
大和国、元興寺。五百年以上の昔、その寺では夜な夜な鐘楼の童子たちが何者かによって殺されるという怪異が起こっていた。そのうちに誰もが日が落ちてから鐘楼へと近付くことを恐れるようになった。
そんな中、かつて雷神によって授けられたというある力自慢の童子が、自ら鐘を突く役を担うと名乗り出た。
童子が鐘楼において待ち構えていると、未明のころにある鬼が現れた。痩せ細り、しかし目だけは爛々と光らせた男の姿をしたその鬼は、童子の匂いを感じ取って闇の中を探っているようだった。
しかし童子はそんな化け物に恐れ慄くこともなく、鬼の姿が月明かりに見えるやいなや飛び掛かり、その頭髪を掴んで引き摺り回した。人間とは思えぬその怪力に、鬼は為す術もなく明け方まで引き摺られ、最後には頭髪を引き剥がされて逃げ去ったという。
「これが、元興寺に伝わる鬼の話のあらましだ」
月夜の下、朱雀門の楼の主である鬼はそう、これからやって来るという鬼の話を茨木たちに語った。茨木にもその鬼の話に関しては覚えがある。確か、今では元興寺に出た故に「がごぜ」と呼ばれていたか。
その鬼に対し文をしたためた朱雀門の鬼は、竹筒から呼び出した九つの頭を持つ鳥の傀儡にそれを託した。鬼車と呼ばれていたその傀儡は、今大和国へと向かって飛んでいる筈だ。
「鬼のくせに弱いなぁそいつ」
朱雀門の鬼の話に反応したのは鬼童丸だった。清姫は興味がない、と言う風にひたすら足元を見つめている。
「確かに腕力ではお前にも劣るだろうな。だが、色々器用な男なのだ。それに狡賢い。それは生き残るのには重要なものだ」
鬼童丸は首を傾げる。人に、しかも童に負けた鬼がどう役に立つのか疑問なのだろう。しかし朱雀門の鬼が頼ろうと言う鬼なのだ。信用はできる。茨木はそう考える。
大江山の鬼たちも、皆が皆力任せに暴れるだけではなかった。ときには頭で考え、そして妖術や呪術を使うものもいた。各々ができることをやれば良い。それが、何者であろうとも自分に付いて来るものならば受け入れた酒呑童子の考え方だった。
その教えは、未だ茨木童子の中に生きている。