因縁と劒 (一)
草も木も 我が大王の 国なれば いづくか鬼の棲なるべき
― 草も木もこの国のものは全て天皇のものだ。どこに鬼の棲む場所などあろうものか ―
『太平記』より 紀朝雄
蹄を鳴らし、馬が夜の平安京を駆ける。上に跨るは都の武士、渡辺綱。その鈍く光る眼光はじっと先の見えぬ闇を見つめている。
彼が向かう先は鬼の住まうと噂される平安の都の境界、羅城門。
外伝「因縁と劒」
彼がこの宵の中、馬を走らせている故は、二刻ほど前に遡る。
ある屋敷に四人の男が集い、宴を催していた。空は既に黒く染まっているが、彼らは夜を恐れる程臆病な男たちではなく、各々が好きに酒を杯に満たしている。都の猛者たちの酒宴であった。
「時に綱よ。あの羅城門に鬼が出ると言う噂を知っておるか?」
四人のうちで最も年配であり、また大将各でもある碓井貞光が鋭い目つきをした若い男にそう問うた。その男、渡辺綱は静かに杯を床へと置く。
開け放たれた庭から舞い込んだ夜風が、火照った綱の体を心地よく冷やす。
「存じております。雑色の者たちが噂しているのを聞きました」
落ち着いた声で渡辺綱が答えると、今度は綱の横に座った、四人の中では最も若い男、坂田金時の分厚い筋肉に覆われた体から、良く響く太い声が発せられた。
「俺も聞いているぞ。何でもひとりではなく幾人かの鬼がいるのを見たとか」
「ほう、複数いるのか」
そう興味深げに言葉を発したのは、貞光の隣に座る卜部季武。彼は金時から視線を外し、綱を見た。
「大江山から逃した鬼は一人ではなかったか」
「その筈です。あの憎き茨木童子のみ」
綱が微かに口惜しさを滲ませた声で応えた。息を吐き、若い武士は季武を見る。
「あやつから奪えたのは片腕のみ。命までは奪えなかった」
そう憤る綱に対し、季武は静かに頷き、そして問う。
「その茨木童子が、また羅城門に戻ってきたとは思えぬか?」
季武が何故そう考えたのか、その故は綱にも分かる。酒呑童子率いる大江山を棲みかとしていた鬼たちは、かつて都を襲う際羅城門を拠点としていた。人に忌まれ、死体を捨てられるような忌むべき場と化したあの門は、妖が使うのに都合が良かったのだろう。
「私が行って、確かめて来ましょうか」
「お前一人で大丈夫か?」
金時が酒で赤らんだ顔を緩ませたまま、からかうように言う。綱はそれを一瞥し、黙したまま立ち上がった。
太刀を佩き、一礼して座敷を去る。かつて大江山での戦において、自分と対峙し、唯一逃してしまった鬼。それがまたこの都を侵していると聞けば気も逸る。酔いなど瞬く間にどこかへ消えてしまった。
今度こそ息の根を止める。綱はそう己に誓い、宵の闇の中を急いだ。
それが二刻程前のこと。そして彼は今、その羅城門を前にしている。元々細く鋭い目は更に細められ、鋭い眼光が門の楼を睨む。
空からはいつの間にか冷たい雨が降り始めていた。この雨はあの日を思い出す。大江山へと出陣し、そして茨木童子を取り逃がしたあの日を。この数年の間ずっと付き纏い、燻り続けていた後悔に決着を付けられる。
「羅城門に棲まう鬼よ、いるのならば出で来るが良い」
綱は楼に向かってそう声を張り上げた。雨音を突き破り、若い武士の声が夜空を震わせる。
その声が闇夜に消え、一瞬の静寂があった。雨の音だけが辺りを満たす。それは綱にとっては何刻にも感じる時であった。
綱が目を見開いた。気配を察知して素早く太刀に手を掛ける。直後、楼から黒い影が飛び出し、彼に襲い掛かった。
茨木童子は何年か前に嗅ぎ、そして忘れることなどできる筈もない臭いを察知して楼の外を見た。闇の向こう、妖の目でも捉えられぬ遥か先から、微かにこちらに近付いて来る者の気配がある。
「どうしたの、茨木?」
彼の異変を察知した清姫が問う。茨木は奥の牙を噛む。
「人が来るぞ」
茨木はいつもよりも一段低い声でそう清姫に告げた。
清姫は首を傾げ、楼の外に目を向けている。こんなにも遠い相手。他の人間が相手ならば茨木も気配など分からなかっただろう。
だが、相手があの武士ならば話は別だ。茨木の全てであり、そして主である酒呑童子の討伐に与し、そして彼の左腕を奪った男。人でありながら鬼と対等に戦ったあの武士。
宿敵の再来に、茨木童子は両の腰に佩いた太刀の柄に触れた。
やがて馬の蹄の音が近付いて来る。いつの間にか雨粒が門の屋根を叩いていた。
あの、絶望と憤怒の狭間に揺れながらこの門を目指して歩いたあの日と同じような冷えた雨。片腕の鬼は裂けた目尻で門の下に現れた武士を睨み付ける。
「なんだ?人間?」
鬼童丸が楼の下を見つめ、そう呟いた。その直後に男の声が響く。
「羅城門に棲まう鬼よ、いるのならば出で来るが良い」
闇を切り裂くような、明朗とした声だった。その言葉に鬼童丸がにやりと笑み、茨木に問い掛ける。
「俺がぶっ殺して来てやろうか?」
「お前は手を出すな。俺がやる」
茨木はそう、有無を言わせぬ強い語気で答えた。あの男の相手は他の誰にもさせたくはない。己が雌雄を決するべき相手と、そう決めていた。
かつて大江山、酒呑童子の右腕であった己を取り戻すために。
茨木は右手を左の太刀に置き、そして楼から一人飛び降りる。
因縁に結ばれた鬼と人は、雨空の下、同時にそれぞれの劒を抜いた。
太刀の刃同士がぶつかる音が雨音を真っ直ぐに切り裂く。馬上の綱に対して上から飛び掛かった茨木は、宙で体を翻して地面に降り立った。ぬかるむ土が泥となって彼の足元に散る。
「やはり貴様であったか、茨木童子。私を覚えておろうな」
綱が馬を走らせ、馬上から茨木童子を切り付ける。しかし茨木は地を転がってそれを避け、そして片腕を地に付いて飛び上がり、綱を蹴り落とした。
「貴様の顔を忘れるはずもない、渡辺綱よ」
全てを失ったあの日、最後に戦った武士、渡辺綱。
落ちた綱を追撃しようと茨木が太刀を振り下ろすが、素早く起き上がった綱の太刀がそれを防いだ。再び刃がぶつかり、擦れる音が響く。
片腕とは言え、鬼である茨木の方が力は強い。そのまま綱の太刀を砕き、一刀に両断しようとした力を込める。が、綱は唐突に刃を下にして太刀を立て、茨木の力の矛先をずらした。茨木も咄嗟に体勢を立て直すが、綱により素早く振り上げられた太刀が右肩を抉った。
「鈍ったな、茨木童子。貴様の首も酒呑童子と同じ塚に入れてやろう」
人でありながら、まるで鬼のような面相で綱は茨木を睨み、そして怒気を孕んだ声で茨木にそう告げる。だが、茨木も裂けた口を釣り上げ、そして吐き捨てるように言った。
「貴様こそ、頼光とともに鬼に食われぬよう用心しておけ」
茨木童子は牙を露わに綱に向かって食らい付く。不意を突いたその攻撃が綱の左腕の付け根、その肉の一部を食い千切った。
茨木はその肉を咀嚼することなく、ぬかるむ土の上に吐き出した。
雨は傷を負った両者の体の熱を奪う。しかし、人と鬼はどちらも一歩として退く意思は持ち合せてはいなかった。
綱の振り下ろした太刀を、茨木は右手に握った太刀で去なす。深く切り裂かれた右肩では、まともに受け止める力は残ってはいない。しかしそれが鬼の気力を削ぐものになりはしない。
そのまま刃を横に振うが、綱は後ろに跳んでそれを避ける。どうやら太刀を受けられぬのはあちらも同じのようだ。茨木は深く息を吸い、そして牙を噛み締めた。
互いに振るった刀がぶつかり、互いに弾かれる。そこだけ燃えるような痛みを発する右肩を庇いたくとも、腕はひとつしかない。目の前の男に左の腕を切り裂かれた故に。
もうひとつの刀さえ使うことさえできれば、この男をすぐにでも殺してやれる。茨木は片腕故の力の不足を改めて痛感する。
綱が刀を構える。左腕を柄に当ててはいるが、恐らく握る力はほぼないだろう。それでも綱は表情一つ変えず、鬼である茨木に真っ向から対峙している。
武士として、人として多くの妖と戦い、そしてその命を奪い続けた男には、怯えも震えも見受けられぬ。それで良い。強き相手でなければ、あの日主の死を目の前にしながら、左腕を失い無様に逃げた己を更に許せ得ぬ。
綱が上段に刀を振り上げた。茨木も刀を横に構える。そして互いに動き出そうとした直後、頭上から緑色の熱の塊が落ちて来て二人の間を遮った。それが何なのか、炎が纏う妖気から茨木にはすぐに察しがついた。
「茨木、逃げましょう」
その熱気に紛れ、現れる蛇の体を持った女の姿。赤みを帯びた硬い鱗に覆われた巨大な腕が茨木を抱え、持ち上げる。
「おのれ!まだ鬼がいたか!」
綱は太刀を振り回すが、形のない炎は切り裂けぬ。清姫はそちらをちらと見て、そして茨木を抱えたまま綱に背を向けた。
「清、放せ!」
「私を振りほどく程の力もないのなら、余計に無理よ」
緑色の炎が雨を蒸気に変える。清姫は綱に目をくれることなく、その場を去った。