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― 黄泉夜譚 外伝 ―  作者: 朝里 樹
鬼の涙
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鬼の涙 (一)

本編第一四話「妖の血」に登場した茨木童子の話となります。

丹波道(たにはぢ)の 大江の山の さな(かずら) 絶えむの心 ()が思はなくに


― 丹波の道の大江山では、真葛(さなかずら)が絶えず伸びつづけるという。その真葛が絶えぬように、貴方との(えにし)が絶えるなどと、私が思うだろうか ―


 『万葉集』 巻一二より 三〇七一番歌




 打ちつける雨に身を震わせながら、その鬼は一人歩いていた。失った左腕の傷口を右の手で押さえているが、流れる血は大地に落ち、雨の中へと消えて行く。

 鬼は一人薄暗い空へを見上げ、咆哮を上げる。その頬を(いかずち)が照らし、そして冷たい雨が打つ。


外伝「鬼の涙」


 その鬼、茨木童子(いばらきどうじ)は荒い息を吐く。痛みと寒さに意識が遠退くが、彼は気力を振り絞って歩いた。彼は生き残らねばならなかった。

 人の姿へと変化してはいたが、切り飛ばされ、血を流し続ける左腕は目立つ。今他の妖や人に見つかるのは避けたかった。

 茨木童子は獣道の上に立ち止まり、振り返る。夜と雨雲に隠れ、彼の住処(すみか)であった大江山はもう見えぬ。もう、あの山に戻ることはないかもしれぬと、茨木童子は残された右の拳を強く握る。

 (あるじ)も、仲間も、全て失ってしまった。にも関わらず彼は生き延びた。唯一人(ただひとり)あの戦いから逃げ延びた。

酒呑童子(しゅてんどうじ)様……」

 死した主の名を呼び、そして茨木童子は自身の無力を呪う。主の命を助けることができなかった。命を賭して付いて行くとと誓ったのにも関わらず。

 茨木童子はただ歩いた。生きねばならぬという強い思いが彼の足を動かす。行く当てなどなかったが、かつて略奪と暴虐を繰り返した平安京を無意識に目指していた。

 やがて巨大な門が見えて来る。京と周辺とを隔てる境界、羅城門(らじょうもん)。横に十丈六尺、そして天に向かって七十尺と伸びるその門は、たった独りになった今、とてつもなく大きなものに見えた。




 今にも力尽きそうな体を引き摺り、羅城門との距離を縮めて行く。白土塗りの壁と赤塗りされた木材で作られた見慣れたそれは、しかし今の朦朧(もうろう)とした茨木童子の目にははっきりとは映らない。ただ雨を凌げる場所があれば良い。そう望む彼の霞んだ視界に、見覚えのある女の姿が(おぼろ)げに見えた。

「清……」

 茨木童子はそう女に呼び掛けた。清と呼ばれた青い和服の女は雨の中、茨木に近付いて来る。黒い髪を腰の下まで伸ばし、顔に暗い影を落としたような雰囲気を纏った女だった。

「茨木……、一人なの?」

「……ああ」

 それで清は全てを理解したようだった。だがそもそもが暗いその表情はほとんど変わらない。

「そう……。付いて来て。怪我の手当てぐらいはできるわ……」




 失われた左手の傷口には、薬が塗られ、そして布が巻かれた。場所は羅城門の楼の中。昇るための梯子も階段も置かれておらぬこの空間に、人がやって来ることはほぼない。精々勝手に死体を運んで来て捨てる人間がいるだけだ。そんな人間に姿を見られたところで恐ろしくもない。

 そのため、この門の楼は鬼たちにとっては恰好の隠れ場所となっていた。酒呑童子と二人、ここで酒を酌み交わしたこともある。それはもう、二度と訪れぬものとなってしまった。

「あなた以外の妖たちは、みんないなくなったのね」

 闇に消え入るような声で清が言った。茨木はただ頷き、答える。

 清と呼ばれるこの女妖もまた、酒呑童子の配下の妖だった。本来清姫と呼ばれているこの妖は、以前の戦で負った傷によりこの日の戦いには参じていなかった。それ故に彼女もまた、生き延びた。

 この左腕に塗った薬も元々は彼女のために用意されていたものだ。だがそのお陰で痛みは引いた。そのせいか、ただ喪失感だけが茨木童子の空虚な心に入り込む。

「あの死神と妖狐は……、追っては来ないの?」

 清は降り続ける雨を眺めながらそう片腕の鬼に問う。

「恐らくな。あれだけの戦の後だ。そんな余力はないだろう」

 あの鬼神とさえ呼ばれた酒呑童子が討ち取られたのだ。少なくともそうでなければ茨木の心は収まらなかった。

「お前は、独りでのこのこと逃げ延びた俺を軽侮するか?」

「いいえ、別に……」

 清は抑揚のない声で答える。昔からこの女はそうだった。他の妖や人にほとんど関心を示さない。だが、今の茨木にはその方が居心地が良かった。大声で騒がれたり、泣かれでもしたら残った右腕でその者を斬ってしまいそうだった。

 茨木は楼の壁にもたれ掛かった。強さを増して行く雨の音を聞きながら思う。

 彼の主、酒呑童子があんな死神の小娘などの負けるはずがなかった。いつもならば戦いにもならなかったはずなのだ。

 だが、彼は度重なる戦いの果てに痛み切った体を引き摺っていた。いつもの様に大酒を食らい、豪快に笑っていたが、長年酒呑童子の側に仕えていた茨木には彼の体の変調が手に取るように分かった。

 それでも茨木童子は何も言わなかった。己の生きたいように生きる。それが彼の主だった。そこに自分が口を挟む余地はない。

 酒を呑むこと、そして血の滾る様な戦いが何より好きだった。そして彼は悪事は働けども卑怯なことを何よりも嫌った。それが大江山の鬼の頭領、酒呑童子の在り方。

 彼の最後の戦いとなった今宵においてもそうだった。死神、九尾の狐、そして武士(もののふ)。三つの勢力が酒呑童子を打ち取るべく、時を同じくして大江山に集った。そんな強大な敵を目の前にしても、大江山の主は臆するところを見せなかった。

 そして鬼たちを統べる妖は、己の体など顧みず、目の前に立った死神の少女の言葉に豪快に笑い、そして答えた。

「鬼に横道無し。正面から掛かって来い」

 酒呑童子は一人と一人で対峙し、互いの力をぶつけ合う本気の闘いを望んだのだ。それを邪魔することはできなかった。鬼としての誇りを汚すことだけは、酒呑童子は許さなかった。

 例え、それで主が死ぬかもしれぬと思ったところで、茨木童子にできることは何もない。

 酒呑童子が負けるはずがない、そう信じるしかなかった。だが、鬼たちの主は死んだ。死神によって命を奪われた。

 斬り飛ばされた鬼神の首は、茨木のすぐ側に転がった。

 握った拳が震える。酒呑童子が死んだ瞬間にこちらの負けは決まっていたのだ。だが、鬼たちは主亡き後も戦った。彼らは敵に背を向けることを良しとしなかった。

 統率を欠いた鬼たちは次々と殺されて行った。誰もが主の死を憂い、そして仇を取ろうとした。それを成し遂げたものはいなかった。

 茨木童子もその一人だった。だが、目の前で酒呑童子を殺されたことで激昂していた彼は、ただ闇雲に敵に突っ込むことしかできなかった。そして武士、渡辺綱(わたなべのつな)と対峙した彼は、その刀によって左腕を斬り飛ばされた。

 その痛みによって、茨木はもうこの戦いに勝ち目がないことを知った。もしも酒呑童子が生きていたのならば、彼と共にその命を燃やし尽くす道を選んだだろう。だが、茨木が忠誠を誓った鬼はもういなかった。

 茨木はその時思った。生き延びねばならぬと。生きて仇を取らねばならぬと。

 それが茨木はその一心で戦場から逃げ出した。酒呑が見ていたならばきっと許さぬ行為だったであろう。だが、鬼の道を外れてでも、あの死神と九尾の狐へと復讐すると誓った。それができるのはもう、茨木童子しかいなかった。

 清は相変わらず窓の外の景色に目を向けている。まだ雨は止まないようだ。

「ねえ茨木……、貴方はこれからどうするの?」

 清が暗い視線を向けて言った。大江山の鬼たちは彼を残して皆いなくなってしまった。これで自分もただの鬼に戻ってしまったと茨木は自嘲する。

 最強の鬼の右腕ではなく、何の肩書も持たぬ野良の鬼。それが今の自分には相応しい。それでいい。ずっと昔に戻っただけだ。そして妖の寿命は、人よりもずっと長い。

「何百年、何千年掛かろうとも構わん。必ず俺があの小娘の命を奪う。必ずだ……」

 茨木童子の独白は、雷鳴の渦巻く夜空へと消えて行った。




 それからしばらくの間、茨木はこの羅城門の中で身を顰めて過ごした。消耗した体力と妖力を回復するためだ。この門には人の死体が大量に放置されていたため、食糧には困らなかった。

 生きた人の肉に比べれば味も栄養も劣るが、贅沢は言っていられない。この状態で再び他の妖や人と戦うことになり、死んでしまえば生き延びた意味がない。

 清は既に傷を癒し、羅城門にはいない。気まぐれに様子を見に来るぐらいだ。それ以外にこの楼を訪れるものはいない。

 毎夜のように宴に興じていた日々からは想像もできない孤独。酒を呑んで豪快に笑う主も、戦果を自慢し合う仲間もいない。だから、こんな静かな夜はまだ自分がたった独りだった頃を思い出す。

 今と同じ、ただ独り闇の中をさ迷っていた頃のことを。




 茨木童子がこの世に生を受けた時、彼は人だった。ただし普通の赤子としてではなく、生まれてはならぬ鬼子として母の腹を出た。

 生まれながらにして牙と長い髪を生やした赤ん坊、母はその赤子の笑みを見て、発狂して死に、そして父は人とは違うその赤子を持て余し、名前さえ付けずに山中へと捨てた。

 そんな鬼子を拾ったのがある髪結(かみゆい)床屋(とこや)だった。その赤ん坊の出生を知らぬその男は、哀れな子を家へと連れ帰り、そして茨木と名付けた。




 茨木は人一倍良く食べ、そして人一倍早く成長した。六つになる頃には既に体格も力も大人を超えていた。

 茨木は自分が捨て子であることを知っていたが、それ故に自らを育ててくれた床屋の夫婦を父母と呼び、慕っていた。

 だが、他の童たちと違う茨木は、彼らの仲間に入ることはできず、化け物と呼ばれて石を投げられた。心は他の童子と変わらぬ彼は、己が他の童たちと異なる在り方をしていることに悩み、そして家から出ることも少なくなった。

 髪結床屋の夫婦はそんな茨木を不憫に思い、そして彼に床屋の手伝いをさせることにした。茨木はすぐに仕事を覚え、よく働いた。父と母に恩返しができること、そして刃物を使えることがどうしてか楽しかった。それにここならば客に感謝はされど、石を投げて来るものはいなかった。

 茨木はただ黙々と仕事に打ち込んだ。そうして一年、二年と時が過ぎる。それはそれで幸せな日々だった。このまま両親の床屋を継ぐのだろうと朧げに考えていた。

 あの日、あの味を覚えるまでは。



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