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恋愛もの

ずっと

作者: 腹黒ツバメ



 満開に咲き誇る桜が蒼天と、どこか寒々しい無人の校庭を彩る。

 卒業式を終えて、華やかな笑顔で談笑しながら、あるいは涙を流しながら校門を抜けていく学生服の男女。彼らを目線で追いながら、俺は門柱に背中を預けてひとりの少女の影を探していた。

 今日、俺は密かに好意を寄せていた女子に告白する。入学初日からこじらせて以来、ずっと醒めない片想いに終止符を打つのだ。

 担任の先生直々に手渡された卒業証書も、たぶんもう一生会わないだろう同級生との記念写真も、現在の俺にとっては脇役でしかない。

川口(かわぐち)さん……」

 無意識に彼女の名前を呟いてしまうが、仲間同士で感動を共有し合う卒業生たちの耳には届かない。お陰で、不審そうな眼差しを向けられることもなかった。

 数少ない友人が学校から去り際に、俺に声をかけていく。この後カラオケでもどうかと誘われたが、俺は今から告白し、川口さんとデートの予定なのだ――などという自信満々な台詞は吐けず、やんわりと遠慮した。

 そして、数分か数十分かもわからない時間を待ち続け、ようやく校舎から“彼女”が現れた。

 川口さんは式典のとき号泣したらしく両目を赤く腫らしていたが、今は晴れやかに微笑んでいた。惚れた相手の笑顔に、意図せず胸が高鳴る。

「うげ……」

 しかし注目すべき点はそこじゃない。彼女の周囲には、その友達と推測される数人の女子連中が集まってきゃいきゃいと話していたのだ。あの集団の中に突貫して想いを告げるのは、かなり度胸が必要だろう。

「……」

 息を呑む。

 そう、俺はもう覚悟を決めたんだ。

 勝算があるかと訊かれれば正直微妙だが、この機会を逃したら、川口さんとは、たまに道端ですれ違う程度の関係になってしまう。

 今しかない。

 俺は逸る気持ちを抑え、怪訝に思われないよう慎重に彼女たちの方へ歩み寄り――


「好きです、つきあってください!」


 ――その女が、俺の眼前に立ち塞がった。



〈ずっと〉



 彼女は四谷(よつや)亜純(あすみ)

 高校に進学してから一年から三年まで、偶然にも全学年で俺と一緒のクラスに所属していた同級生だ。

 だがそれ以上に偶然、俺と四谷さんが会話した回数はゼロ。一度たりとも触れ合う機会はなかった。狭い教室の中、俺たちは三年間を共有してきたというのに。

斉藤(さいとう)くん――じゃなかった、(りく)くん。これからどこにいこっか?」

 そんな四谷さんが、自転車の荷台に腰掛けて俺の呼称を姓から名に訂正した。俺は聞こえない振りをして、意外と難しい二人乗りに神経を集中させようと尽力する。

 だが、肩に乗せられた彼女の両手から感じる体温がそれを妨げる。

 なぜ四谷さんがやたらと親しげに俺の名前を呼ぶのか、なぜ俺と四谷さんは自転車の二人乗りなんてしているのか。

 それは単に彼女がすこぶる馴れ馴れしい気性だから、などという理由ではない。

 なにを隠そう原因の一端――もとい大半は、無責任な俺の方にあるのだ。



 少し時間を遡っての校門前、俺は川口さんに告白するため、毅然とした足取りで一歩ずつ前進していた。数メートル先には川口さんの姿。緊張で頭が熱くなる。

 そして、あと二歩近づいたら声をかけようと判断した直後、俺の前に何者かが立ち止まった。

 一瞬足を止めるが、その相手が退く気配はない。その瞬間初めて俺は、その人物が俺に双眸を向けていることに気づいた。

 誰かは知らないが邪魔をしやがって――と目の前に意識を移すと、

「好きです、つきあってください!」

 俺の予定していた台詞が、その部外者に先を越された。

 仰天に目を剥くと、声の主と視線が交錯する。


 それが四谷さんだった。


 そして理解する。今のは、俺に向けられた言葉だと。

 予想外の闖入者から唐突に想いを告げられ、もう盛大に混乱した。仕方あるまい、不肖ながら異性と縁遠い灰色の青春を過ごしてきた俺は、女子に好意を寄せられる経験も当然皆無だったのだ。

 野次馬根性丸出しの卒業生たちが、俺たちの動向に注目している。確かに見物人の立場なら俺も興味本位で観察していたかもしれないが、実際に野卑な視線を向けられるのはあまり心地よくはなかった。

 返答に困る――どころか、驚きに声も出せずいると、川口さんまで俺を注視しているのが視界に映った。

 その後の心理状態は、正直自分でもよくわからない。

 だが、なぜか“女子の告白を無下に断っては、川口さんに嫌われてしまう”と謎の危機感を覚えた俺は、狼狽しながらも、

「う、うん……」

 と、頷いてしまった。

 今思えばそれは本末転倒、考え得るかぎり最悪の選択肢であることは自明の理なのだが、なにせ思考回路がショートしていたのだ、冷静な判断などできるはずもない。

 ……なんて言いわけしてみたけれど。

 結局のところ、自業自得ということだ。



 現在の話に戻り、晴れてカップルとなった俺と四谷さんは、早速デートのために自転車で地元町の郊外へと向かっていた。

 俺は徒歩通学、四谷さんは自転車通学だったので、彼女を後ろに乗せての二人乗りだ。警察の方も、今日くらいは見逃していただきたい。

 今日卒業した高校はなぜか田園風景のど真ん中に立地しており、しばらくがたついた田んぼ道を走らなければ、コンビニすら探せない。都市部の周辺に至っては本来電車でいくような距離なので、俺たちの他に自転車を走らせる姿はなかった。

「あと一ヶ月もすれば進学だね。陸くんは専門学校だったっけ?」

「あ、ああ……」

 楽しげに弾んだ声音で話す四谷さんに、しかし俺は曖昧に相槌を打つばかりだった。

 胸中は、本心では好きじゃない相手との恋人を演じている自身への嫌悪感と、四谷さんに対する罪悪感でいっぱいだった。苦悩の原因である彼女との会話に花咲かせる心の余裕なんてないのだ。

 しばらく走ると、不意に背中に降り注ぐ言葉の雨が途絶える。

 ほっとした反面、急にどうしたのかと怪訝に思うと、耳元で囁くようなか細い声が聞こえた。


「――本当はね、陸くんに断られると思ってたんだ」


「……え」

 つい、呻きが漏れた。

 その台詞に、俺の後ろ暗い心境が見透かされたように感じる。言葉が鋭利な槍となり、胸に深々と突き刺さる。

 四谷さんの告白に、俺は心根から応じたわけではないのだ。

 だが、彼女の口調に俺を問責するような刺々しさはなく、むしろ肩の荷が降りたような安堵の響きが窺えた。

「ほら、陸くんとは元々仲がよかったわけじゃないでしょ? あたしが一方的に片想いしてただけだし、告白しても無意味だって、そう考えてたの」

「…………」

「でも、どうせなら当たって砕けようってさ。正直、フラれること前提で告白してた。友達と“玉砕した後遊ぼうね”なんて約束してたくらいだし。結果も伝えてないから、今もひっきりなしにメールが来てる」

「……友達に返信しないの?」

 息苦しさを掻い潜って発した台詞は、しかし無論、本心から尋ねたい問いではなかった。ただ、この話題を続けるのが億劫だっただけ。

「一応、陸くんが運転中だからね」

 苦笑した四谷さんが片手でスカートのポケットを叩いた。あそこに携帯電話を入れているんだろう。

 二人乗りしているのに、自転車の走行中にメールを控えるなんて妙な話だ。法律云々というより、彼女特有の倫理観があるのか。

 現実逃避のためか、くだらない推測をしていると、俺の腹を掴む四谷さんの両腕に力が籠もった。なぜか捕獲された野生動物が連想されて、冷や汗が額に浮かんだ。

「だから嬉しいの。こうして陸くんと何気ない会話をしながら、自転車の二人乗りをしながら、身体をくっつけながらデートできるなんて――ホント、夢みたい」

 恥ずかしい台詞を臆面なく使う四谷さんに、俺の胸中はますます陰鬱に翳り、曇っていく。

 この体勢のお陰で彼女の表情が視界に映らなくてよかった。

 きっと彼女は開花したばかりの夕顔のような儚い笑顔で――その顔を目にしたら、良心の呵責で精神的な病気でも患ってしまうかもしれない。すべて自分の撒いた種なのだが。

 ――こんな関係が、果たしていつまで続くんだろうか?

 ふと脳裏をよぎった不穏当な疑問。それを我武者羅に振り払うように、俺はペダルを踏む足に力を込めた。



 開幕から剣呑な匂いを濃密に漂わせた四谷さんとのデートは、しかし蓋を開ければ存外悪くないものだった。

 映画館の前まで来て、中には入らずただひたすらB級洋画の破天荒さゆえの素晴らしさを語り合ったり――

 カラオケで俺の音痴が露呈して、四谷さんに心折れ砕けるまで爆笑されたり――

 冷やかしに服屋を覘いていたら、なぜか四谷さんがけったいな動物の描かれたダサいパーカーに心惹かれていて、その様子が隣で見ていて面白かったり――

 彼女とふたりで過ごす初めての時間はまさしく感無量なくらい楽しくて、次第に俺は、こんな日々が続くなら悪くないと思うようになった。

 ――けれど、

「今日は楽しかったね」

「……ああ」

 淡い夕焼けが差し込む喫茶店で対面して座っていると、ふと、

“俺の眼前で微笑している少女は、もしかしたら川口さんだったのかもしれない”

 と、余計な空想が脳髄と左胸を埋めてしまう。全然似ていないのに、四谷さんの笑顔を川口さんと重ねてしまう。

 そう。

 俺は未だ、告白が失敗に終わったことを後悔していた。川口さんに、未練を抱いていた。

 現実問題、川口さんとの進路は違って、もう道端ですれ違っても挨拶をしない程度の関係――すなわち赤の他人に回帰してしまっている。

 だけど、

 過去の話だと忘却したくても、頑固にこびりついた記憶は容易く剥がれてはくれない。

 想いを馳せたって無駄だし、度が過ぎれば気色悪いだけ。しかも暫定恋人の前で他の女性のことを思案するなんて、無神経にも限度があるというものだ。

 こうして俺が上の空で間抜け面を晒している間にも、四谷さんは快活な黄色い声で今日の思い出話を語っているというのに。

 席代に頼んだコーヒーを傾け、俺は抑揚のない相槌を打つ。話の内容なんて右耳から左耳に流れて、微塵も身体に残りはしなかった。

 それでも四谷さんは笑顔を崩さず――だからこそ、突然の言葉に途方もない違和感を覚えた。


「――ごめんね」


「え?」

 脈絡のない謝罪に、思わず俺は聞き返してしまった。意識が追憶から現実に引き戻され、茫洋としていた瞳が焦点を結ぶ。

 ――俺はいったいなにを見ていたのか。

 気づけば四谷さんは俯き、俺にその双眸を向けていなかった。

 静かな店内に俺たち以外の客の姿はなく、四谷さんの笑顔すら見失った俺は当惑した。

 けれど、いくら理解に苦しもうと時計の針は止まらない。

 事態の変化に追いつけず硬直する俺に構わず、四谷さんは睫毛を伏せ、沈痛な面持ちでゆっくりと続ける。

「なんか、無理やり連れ出しちゃったみたいでさ……。デート中もときどき上の空だったし、今だって斉藤くんはここじゃなくてどこか遠くを見てる――本当は、あたしとつきあうつもり、なかったんだよね?」

 愕然とする。

 四谷さんは俺を“斉藤くん”と呼んだ。今日改めたばかりの呼び名を、また関係が始まる以前のものに戻した。それが意味すること、いとも簡単に想像がつく。


 ――最初からずっと、見抜かれていたんだ。


 成行きにまかせて四谷さんの告白を受けたことも、意志が固まらないままにデートをしていたことも。

 形容しがたい恐怖が背筋を這い、俺は闇雲に否定の言葉を探した。

「そんなこと――」

「いいの」

 しかし、上辺だけの誤魔化しは彼女のひと言に掻き消されてしまう。

 不可思議な威圧感を携えたその声音に意図せず息を呑み、結果的に俺は発言の機会を逃した。小刻みに震える彼女の肩に、自身の無責任さを痛感する。

「励まさなくってもいいんだよ。全部、あたしのせいなんだから……。きっと斉藤くんは、勢いに押されて告白を受けちゃっただけだもんね? あたしがちゃんと、斉藤くんの本心を聞いてあげられればよかったのに……」

 違う――と、腹の奥底から叫びたい。

 彼女の言葉は一部の間違いもなく真実だ、彼女の告白に俺は中途半端な気持ちで頷いた。

 だけど、違う。

 四谷さんに否はなく、悪いのは俺だ。全責任を被るのは、本来なら俺であるべきなんだ。

 彼女の気持ちを、どころか自分の気持ちさえ熟慮せず適当に恋人を気取って。

 その上阿呆な自分を見抜かれて、純粋な好意を抱いてくれた彼女を、一方的に傷つけた。

 だから、俺が全部悪いのに――

「……っ」

 声が出ない。“俺の方こそごめんね”のひと言が。

 優柔不断で臆病者な俺の心臓が、喉が、至極簡単な謝罪の言葉を吐きだすことすら、遮二無二に拒絶する。

 水面で口をぱくぱくする小魚のように喘ぐ俺の無様な沈黙を、四谷さんがどう受け取ったのかは、わからない。

 けれど彼女はこの瞬間、目尻に透明な滴を浮かべた。

 大粒の涙をテーブルにこぼし、酷く痛々しい笑顔を俺に向け、


「役者不足な恋人で、ごめんね」


 その言葉に、ようやく自覚した。愚かな自分が四谷さんへと傾けていた感情の正体を。

 俺はずっと四谷さんを友達目線で見ていた。告白されてから現在に至るまで、微塵も交際相手だと考えなかった。

 この瞬間初めて彼女を、異性として意識して。

 刹那、走馬灯のように蘇るデートの記憶。生まれたばかりの思い出が、川口さんに片想いしてきた三年間と天秤にかけられる。

 自身の気持ちに整理がついた今、どちらの存在がより重いのか――解答は即座に出てきた。

「――待ってくれ」

「……え?」

 喉の最奥から必死に声を絞り出し、俺は意志を宿した双眸で、初めて正面から四谷さんと向き合った。突然変貌した俺の態度に、彼女は目を瞠って口元に両手を添える。

 ――もう、逸らさない。

 不退転の決意を胸に秘め、俺は凛と告げた。

「確かに、告白されたときは深く考えもせずに頷いたよ」

 四谷さんの肩がびくりと震えた。

 包み隠さない本音が彼女を傷つけるだけなのは、理解している。それでも、もう嘘を上書きしたくなかった。曝け出したかった。

「正直俺は他の女子が好きだった。今日も何度かその(ひと)のことが脳裏をよぎった。でも――」

 一度、息を止める。失った大量の酸素を鼻腔から取り入れる。

 四谷さんは充血した瞳で呆然と俺を眺めていた。降臨した静謐。それを俺はゆっくりと裂いた。


「俺を好きだと言ってくれた四谷さんを、俺は好きになった」


 ぱっと四谷さんが俯き気味だった面を上げた。溜まった涙が振り払われる。

 べらべらと無際限に語り尽くしたのは、懺悔し赦しを請うためじゃない、彼女と新しい関係を築くためだ。裏表なく俺に寄り添ってくれた彼女の想いに、応えたかったから。

「それって、どういう……?」

「何度だって言うさ。最初は違ったけど、今日のデートを通じて俺は四谷さんが好きになった。これからも一緒にいたいと思ったんだ」

 ……勝手だとは思う。自分の気持ちを把握するのに、時間をかけすぎだ。

「謝るのは俺の方だよ。本当なら、きみを泣かせてから吐くような台詞じゃなかった」

 悔悟の念に駆られ、意図せず下唇を噛んだ。

 もっと早くに四谷さんへの好意を自覚できれば、彼女が涙を流す必要なんてなかった。彼女を泣かせたのは紛れもない事実だ。

 だからこそ、俺には彼女の涙を止める義務がある。

「改めて俺から言わせてほしい――好きです、つきあってください」

 傾いた夕陽が窓から差し込んだ。翳りを浄化するような神々しい光は彼女の背中から視界を照らし、まるで後光みたいだった。

 粛然とした店内で向き合い、彼女の返事を待つ。校門前で川口さんを見かけた瞬間とは比較にならない緊張感で、背筋にじわりと汗が浮かんでシャツに染み込む。

 永遠のようできっと数秒だった時間が容赦なく流れ、四谷さんの唇に微笑が窺えた。かと思えば、またも頬に滴が伝う。

 その涙にぎょっとするが――どうやら杞憂らしい。

 四谷さんは唇を閉じたままで、こくりと首肯した。

「――うん」



 ★



 ――波乱だらけだった一日が、もうじき幕を下ろす。

 高校生という殻を破ったばかりの健全な若者である俺たちは、陽が完全に暮れるより先に帰路へ就いた。

 自転車を押して、薄暗くなった夕空の下をふたり並んで歩く。やがて四谷さんに先導されて到着したのは、彼女の自宅の門前だった。

「今日はありがとね、陸くん」

「いや、こっちこそありがとう」

 足を止め門扉を開く四谷さんを見守っていると、彼女がはにかんで笑う。

「なんか、ふたりして“ありがとう”って変な感じだね」

 他愛ない台詞に、けれど俺の口元も綻んだ。彼女の一喜一憂に、不思議と俺の感情まで左右されてしまう。

 微笑みながら、少しの間無言の時間が続く。きっと俺と四谷さんは、同じことを考えているんだろう。

 ――まだ、離れたくないと。

 だけどこれが一生の別れじゃない。明日も明後日も、これからはずっと一緒だ。

 だから、

「四谷さん――」

「名前」

「――え?」

 伝えようとした言葉は、彼女の不意の呟きに遮られた。

 気勢を削がれると同時に、どうしたのかと首を傾ぐ。四谷さんは自身の顔を指差し、白い歯をこぼす。

「下の名前で呼んでくれていいよ」

 はっとする。そうだ、俺たちは既に相思相愛。名前で呼び合っても、咎める人間はいない。他の女性に気持ちが揺らいで自己嫌悪することもないのだ。

 とはいえ、急に呼び名を変更するのは意外と気恥ずかしい。視線を四谷さんの瞳から逸らし、地面に向けてぼそぼそと小声を落とす。

「あ、じゃあ、えぇっと……亜純さん」

「ふふっ――さんづけなんだ」

 案の定、一歩距離を詰めた彼女にからかわれた。積極的に顔を近づけてくる彼女に、余計に頬が熱くなる。

「笑うなよ! まだ慣れてないんだし……」

「ごめんごめん。それでどうしたの?」

 適当な謝罪をして、亜純さんは途切れた台詞の続きを促した。

 今度は黙して俺が語り出すのを律儀に待ってくれている。

 心置きなく、とはいえ緊張に鼓動をバクバクさせながら、深呼吸を幾度か繰り返して言葉を紡ごうとする。



 しばらく時間が経てば、俺と亜純さんの進路はばらばらだ。俺は地元の専門学校に、彼女は都内の大学に進学する。入学したら、ふたり一緒にいられる時間も減るかもしれない。

 時間的にも精神的にも、すれ違うときだってあるだろう。

 ふたりの関係は、時計の秒針が進むごとにほんの僅かずつ変化していく。容赦のない時間の流れに、俺たちは逆らえない。

 けれど、この関係は数多くの偶然の果てに生まれた関係だ。

 もしも俺が川口さんに告白していたら――川口さんへの未練を捨てきれなかったら――

 もしも亜純さんが告白を断念していたら――デートの最中さえも心ここにあらずだった俺に愛想を尽かしていたら――

 その全部の可能性を避けてきたのは、もはや奇跡と呼んでいいかもしれない。

 だからきっと、これからもずっと俺たちは数多の偶然と障害を乗り越えて、恋人同士であり続けるんだろう。

 そうであればいい――と願っている。



「これからもよろしく」

 簡素なひと言で、胸中に渦巻く複雑怪奇極まりないこの葛藤と願望が、すべて亜純さんに伝わったとは思えない。

 ――それでも。

 想いの欠片程度でも彼女の胸に届いて、俺との未来を夢見てくれたのなら、充分だ。

「陸くん……」

 頬を朱に染めた亜純さんが、家の門扉を離れて身体を寄せてくる。俺はそのままの体勢で彼女を受け入れた。

 彼女の髪が瞳が唇が極めて至近距離にあるというのに、今は騒がしい心臓の音が耳朶に響かず。

 俺たちは手と手を絡め、互いの体温を全身に感じ、そして――







 読んでいただきありがとうございます!


 今年も卒業の季節がやってきましたね。

 数多くの別れが日本中に入り乱れる時期、このときこそが自分の未来を決定する瞬間だと思います。

 世の中には必要不可欠な別れもあれば、人生を酷く歪ませる別れもある。

 みなさんも隣に大事な人がいたのなら、絶対に手を離さないように!


 ――ふははは、現在進行形でぼっちの人間の言葉は重かろう。


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