真夜中の屋上
リリーと名づけてくれた親は、多分死んだ。
育ての親は、あたしを捨てた。
何も持っていなかった。手の中には何もなかった。夢も希望も、未来も、あたしは何一つ持っていなかった。手ぶらで歩くのは軽いけど、生きている実感はなかった。
何日も歩いていた気がする。けれども、何も変わらない日常が続いた。進まない世界ほど、息苦しいものはない。何を目指して生きればいいのだろう、何の為に生きればいいのだろう。
何を糧に生きればいいのだろう・・・
誰か、教えて・・
「こんばんわ。カワイ子ちゃん」
そんな時、アイツと出会った。
あの頃のアイツは、白髪の髪が短くて、目がはっきりと見えていた。
「寒くないかい?服と靴を買いに行こうか?」
差し出された手を、疑うことなく握りしめた。アイツの手は、とても温かくてびっくりした。
「それから、髪を切りに行こうか?食事もしたいね」
アイツはずっと笑っていた。あたしの中にある、何かを記憶するという機能が、初めて誰かを記憶していく。何もなかったあたしの世界に、初めて登場したのはアイツだ。
「生きることは大変だねぇ・・やらなきゃいけないことが多すぎる」
生きるということ・・
そうか、あたしは生きているんだ。生きていたんだ。
「それよりまず、自己紹介だったね」アイツは笑って言った。
「初めまして・・・烏と申します」
カラス・・・変わった名前だ。
「あたし、リリー」
烏は微笑んだ。
「リリー。可愛い名前だね」
「ホンマ、つまらん夢やったなぁ?」
高層ビルの屋上に描かれているのは、複雑な模様の大きな魔法陣。
「オレはもっと、あの嫉妬女が暴れてくれるかと思ったんやけど・・・まさか、自分を刺すやなんて。女のすることは、分からんなぁ」
聡明は、火のついたままのタバコを、屋上から投げ捨てた。
「それにしても、あの夢職には笑えたなぁ?最期の最期まで、諦めずに説得するやなんて、オレの苦手なタイプや」
「寒い」
「は?」
聡明の目に、体を震わすリリーが映る。
「あの、今、気温二十度なんやけど・・寒いんか?」
リリーは黙って頷く。
「ベスト、貸したるわ。着とき」
「ありがとう」
おかしな奴やな・・聡明が呟く。
「にしてもリリー。何であの女に目つけたん?」
「死んでほしかったから」
こいつは、凄いことを平然と口にする。
「あの人は・・色んなものを沢山持ってるのに、まだ欲しがってた。それがムカついたの」
綺麗な容姿、帰る場所、友人、親・・・
何もなかったあたしとは違う。ムカついた・・。まだ欲しがるあの女が。
だから奪ったの。命というものを。
「よぉ分からんけど、リリーの標的は最初から、あの女やったんやな」
返事をしないリリーの黒髪が、風になびく。その日本人形のように艶のある髪は、月の光で輝いていた。
「ま、ナイフの切れ味も確かめられたし、今回の仕事は成功やな?」
「・・そこそこ」
ただ、あのナイフを回収しそこねたのが失敗だ。あのバカ面の夢職の隣にいた、冷静なパートナーの男が、混乱している中で、丁寧にもハンカチで包みやがった。
失敗だ。
あそこまで冷静さを保てる精神の持ち主は、そういない。
「ナイフを、返してもらわなくちゃ」
「オレが行こうか?最近、体なまっとるんや」
「いい。自分で行く」即答だった。
「了解しましたぁ。ほな、頑張って」
そう言うと、聡明は魔法陣の真ん中に立った。
「一つ忠告や」
魔法陣の周りを、光が包み込む。
「油断大敵やで?」
「・・・了解」
強風が、魔法陣から吹き出すと、そこに聡明はもういなかった。
同時に、魔法陣も消えている。
「さて・・行きましょう」
暗闇に飲み込まれるように、リリーは姿を消した。
誰もいなくなった屋上には、不気味な空気だけが残っていた。