エンプーサの囁き 1
「大僧正様、今、東の街に行かれたパセ様からご連絡がございました」
神聖な神殿の回廊を早足でやって来た歳若い僧侶が、笑顔で神殿の奥に位置する大僧正の部屋を訪ねる。
朝霞の立ち込める山々の間からのぞき出した太陽の光が、神殿の部屋にも差し込みはじめた頃、一人の僧侶が、今昇ったばかりの太陽に祈りを捧げる老体に声をかけた。
「務めを無事済ませ、次の土地へ参るとの事でございます」
「そうか」
深く息を吐き、次第に明るさを増す太陽に目を細めながら、独り言のように言った。
「あれの事だ、心配する必要はないのかも知れぬが、……今の私では、このように祈る事しかできぬ」
老いた身体をゆっくりとそばの椅子に任せた。
「大僧正様、パセ様は大僧正様のお身体を思って自ら志願されたのです。そのお心に報いるためにもお早くお身体をお治しくださいませんと……」
齢を重ね、やや気落ちぎみになる大僧正をもり立てようと、言葉に力も入る。
「あの方は神殿でもあの若さで大僧正様に継ぐ力の持ち主、きっと皆の期待に答えてくださいます。それに、オラージュ殿やアヴィ様も一緒です」
僧の力説に大僧正は笑顔で頷いた。
「そうであったな。パセの心遣いに甘えて、しばし休ませてもらう事にしよう」
僧が部屋を去り、独り静かに目を閉じていた大僧正が呟いた。
「もう10年か……。『女神リュミエール』よ、あなたの子供達をお護りください……」
胸の前で手をそっと組み、太陽へ向い静かに祈った。
「オラージュ、大丈夫ぅ?」
容赦なく照りつける日射しの中、一本の大きな木の下で、少年は大きな葉をうちわ代わりに、ぐったりとするリスに風を送りながらたずねた。
ちょっとねこっ毛の金茶の前髪を自分で仰ぐ風に揺らし、大きなグリーンの入った瞳を心配そうに瞬かせる。三つ又に別れた帽子をかぶり、ノースリーブのシャツにひじの隠れる長い手袋をしている。手袋は緑色の「蛇」……らしい。
暑さでのびたリス、オラージュの面倒を見ているのだ。
平原に近いこの辺では、太陽を遮るものが少ない。この木もやっと見つけた日陰に身をおける程のもので、辺りは一面草原と言ってもいい。
リスの身体のサイズには丁度良い、木の根元の穴で「大の字」で寝ていた。
「アヴィ……、パセはぁ~?」
「んとねっ、今、池らしいものが見えたから、飲めるか見て来るって」
おまけにこの暑さの中、手袋をはめっぱなしの少年、アヴィ。
まあ、本人はいたって涼しそうな顔をしているが。
「まだ気持ち悪い?」
「だいぶいい。……それより何か、音しねぇか?」
「音?」
オラージュの言葉に扇ぐ手を休めて、耳をすます。
「……さあ?」
しばらくしてアヴィは首を傾げた。
「こン中にいるから、響いて聞こえるのかな?」
だるそうに、リス事、「オラージュ」は、のっそりと身体を起こした。
「後ろの方で、何かが木を這ってるような……」
穴から顔をだし、後ろを覗こうとする。アヴィも一緒に回り込むようにして、木の後ろを見た。
「なにも……」
そう言いかけてアヴィは息を飲んだ。
覗き込んだアヴィの目の前に 、大きなトカゲが顔を向けた。
緑色の舌がアヴィの顔を下から上へと舐め上げる。
「……っ、きゃあああああああああああっっっっっっっっ?!!!!」
「な、な、何だぁ?!」
突然の悲鳴に、アヴィの背中で見えなかったオラージュは、その驚き様に慌てて穴に逃げ込んだ。
「やだ!やだ!!トカゲ嫌いぃ~~~~っ!!!!」
「トカゲぇ?」
オラージュは再び顔を出し、呆れたように言った。
「おまえ、トカゲくらいで……」
そう言って再び穴から顔をのぞかせたオラージュは、ふと自分を見ているトカゲと目が合った。
体長はアヴィと同じぐらいで、緑色の舌を忙しく出したり引っ込めたりしながら、じわじわと寄って来る。
このトカゲ、妖獣の中でも大人しい部類のはずだが、ふと、オラージュの頭をこれに関する嫌~な記憶が過った。
非常に、ヤバい……。
「ちょぉっと、待てぇーっ!!オレは不味いぞおぉぉぉっ!!!」
オラージュは猛ダッシュで穴から飛び出した。貧血を起こしている場合じゃぁない。
この妖獣、人間は襲わないが大陸リスが大好物ときている。
おまけに体格の割りに動きが滅茶苦茶速いときた。
「わああああああああっ!アヴィ、なんとかしろおおおっ!!!」
トカゲが苦手なわけではないが、如何せん、この姿では不利だ。
「やあああああっ!気持ち悪いよおおおおっっ!!!!!」
肝心のアヴィが反べそで木の周りを逃げ回る。
トカゲ類がまるでダメなのだ。じゃあ、蛇や蛙は良いのか??
「も、戻せ、オレを、元に戻せぇぇぇぇぇっ!アヴィっ!!」
「ふええええええええんんっ!」
泣きながら、走りながらあたふたと手袋を外す。だが慌ててるせいでうまく外れない。
その後をオラージュが死物狂いで追い掛ける。
「こら!落ち着けアヴィ、転ぶぞ?!」
言った矢先に木の根に足を引っ掛け、転んだ。追って来た妖獣が迫る。
転んだアヴィの周りをパニックに落ちかけたオラージュが、ぐるぐる頭を抱えて回る。
妖獣が迫って来ただけで、すでにアヴィはパニック状態。
「いっっやあぁぁぁぁっ!!!」
「っわああああああぁぁぁぁぁっ?!」
どぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんんんっ!!
バギバギバギバギィィィッ!!
ずどどどどどどどぉぉぉんんんんっ!!!!
悲鳴と共に凄まじい音の連続と、大量の葉の洗礼を受けた。
それから少々間を置いて、二人の方にゆっくり足音が近付いて来た。
アヴィに覆いかぶさるようにして息を切らしているオラージュに、戻って来たパセが、しゃがみ込んで尋ねた。
「……水、飲むかい?」
横には無惨に倒された木と、その幹と大地にサンドされてしまったトカゲが……。
アヴィはただ泣きじゃくりながら、貧血で青ざめ、さらに息を切らして動けないオラージュの腕にしがみついていた。




