セイレンの唄 4
不意に風が止んだ。
「……来たか」
そうつぶやいた彼の口元はほころんでいた。
次の瞬間、水平線の向こうから波が押し寄せてきた。
いや、何かが水面下から姿を現そうとしているのだ。
水が数十メートルの高さまで盛り上がり、月の光りを浴びて全容を現した。
それは巨大な海蛇。
中型の船ならひと咬みでまっぷたつにしてしまいそうな口には鋭い歯がびっしりと並び、どうやって周りを把握するのか目らしきものは見当たらない。月の光と水を弾く表面には所々海藻が付いているものの、は虫類と同じ皮膚は岩礁を砕くほどの硬質さを持っているようで、ものともせずに進んでくる。
耳を抑えたくなるような啼き声を上げたかと思うと、ものすごい勢いで海を割る様に陸地へと迫ってきた。少年の立つ方へ。
それと同時に少年は走り出した。
走りにくいはずの砂浜を、苦にするふうなく軽快な走りで駆け抜け、海へ迫り出す崖の上へと一気に駆け上がった。そして、なんとそのまま海へと勢いを殺す事無く飛び出した。
はっきり言って、助走をつけて崖から飛び降りたのと同じである。
止まり切れず、飛び降りてしまった「マヌケ」のようでもあるが、それは少年の顔から間違いであることがわかる。
普通の人間よりかなりの距離を跳んだ少年の下には、あの海蛇がいた。
タイミングは頭の真上。
「今夜でおさらばだ!」
そう口にした少年の身体は、かなりのスピードで降下し始めた。
「よおーっく、この月覚えとくんだな!!」
どおおおおおおおおおおおおおんんんんんっっっっっっ!!!!!!!
加速した上に、思いっきり蹴り出した少年の足は、蛇の首(どの辺からが首と身体の境かはわからないが、横っ面のやや下辺りだったので首という事にしておこう)にめり込み、そのまま苦しむ海蛇と一緒に、大きな水飛沫を上げ海中に消えた。
数分後、軽い地響きと波が町を襲ったが、それきり海はもとの静けさを取り戻し、穏やかな海面に三つの月影が漂っていた。
町からかなり離れたところに切り立った岸壁が連なり、眼下には大小の岩が突き出し、波が打ち寄せていた。
そこから微かに風に乗って聞こえていた笛の音が急に跡絶えた。
「? あのひとの声が聞こえない……」
静まりかえる海に耳を傾けながら、笛の主は眉を潜めた。
普段波が荒く、地元の漁師でさえ近づかない岩場に女はいた。
長い海色の髪はびしょ濡れで、白い裸体に数多くの宝石や装飾品を身に付けていた。
怪しく光る黒百合のような唇から、鮫のような鋭い歯が覗く。血の色をした瞳が、自分に覆いかぶさる黒い影の主を振り仰ぎ、見た。
「……貴女のエゴで、数多くの人達と、貴女のお仲間の命が消えてしまいましたよ」
ちょうど、真上の岩場に立つ青年が、静かに指を組み、神に祈る様に語った。
そしてそのまま足場の悪さを気にせず、女の前まで静かに降りてきた。
まるで天使のように。手にはクルスが光る。
「弱肉強食は世の常。強いものが生きるために弱いものを狩り、食らう。しかし、それに『欲』が加わり、意味もなく殺し、ただ奪うのであれば……僕らは見過ごすわけにはいかない」
岩に当たって弾けた水飛沫が、月の光りできらきらと宝石のように輝いて彼の周りに散る。今宵の月のように輝く髪と、海よりも深い蒼の二つの宝石をもって現われた青年に、女はしばし心を奪われた。
そして、こう思ったのである。自分のコレクションに……、と。
女は即、行動に出た。
「その弱い人間如きが、この私に説教かい?ちょっと腕が立つといって刃向かってくる馬鹿な人間が何匹かいたが、身の程知らずとお前もその身をもって知るがいいよ!」
勢いよく跳ね上がった女の身体は、まっすぐ青年に向かって行った。
女の半身は長い『尾』となっていた。蛇女か?!
銀色の鱗は鋼のごとく強靭で、岩をも砕き、大きく開いた口は鋭い歯をむき出しにして相手の喉を正確に狙った。
「兄さん!」
声と一緒にかなり大きめの石が跳んできて、不意に見上げた女の口に見事に入った。
すっぽり入ってしまった石のために声も出せず、目を向き、おまけに石の勢いも手伝って、そのまま情けない格好で海に倒れ落ちた。
「アヴィ、オラージュは?」
崖の上から顔を覗かせた少年に声をかけた。
「貧血ぅ。浜で倒れてたぁ」
こんなときでものんびり笑顔で答えるあたり、根性が座っているのか、はたまた単に鈍感なのか……。
アヴィの懐から顔を出して伸びているリスの手を取り、ぬいぐるみの顔が付いた手袋で一緒に手を振る。
「人一倍体力持て余してるくせに、持久力ないんだから……」
パセはその姿を見てため息を付きながら嘆いた。
……あれ? リス?!
「おのれ~」
間の抜けた会話をしている間に、蛇女が髪を振り乱し、再び海面に顔を出した。物凄い形相で海面から現われるシーンは、毎夜夢に出そうだ。
化粧を落としたおばさんが、急に暗がりで振り向いたのと同じくらい、怖い。
「アヴィ」
そんな状況でも落ち着き払ったパセは、首にかけていたクルスを上にいるアヴィ目がけて放り投げた。
それをアヴィが手袋を外した右手でつかんだ。が、クルスはその手からこぼれ落ち、そのまま下へと落下する。
その下には、パセに襲いかかろうとする蛇女が。
パセは岩を蹴り、そのまま壁際へと下がった。
ドシュッ!
上から落ちてきたクルス、いや、一本の剣が蛇女の頭を貫き、更に勢いでそのまま岩に突き立った。まるでまな板の上で捌かれるうなぎの様に縫い付けられた。
「ぎいいいいやあああああああああああああああっっっっっっっ?!」
耳を裂くような悲鳴を上げ、岩に縫いつけられた状態でもがき苦しみ、身体はなりふり構わず暴れた。
海面を叩けば数メートルの水柱が上がり、岩に当たれば粉々に砕け飛んだ。
「わわっ、こりゃ参ったね」
ことごとく足場を砕かれて、パセはひょいひょいと器用に後退しながらアヴィ達のほうへ向かった。
「わあ~、痛いよねぇ?」
のんきにその様子を傍観しながら、懐のリスを庇いつつ後ろに後辞去っていく。自分達の居たところもひび割れ、崩れ落ちていくのだ。
「ひいいいいいいいっっっっっ!!!!!!!!」
最後は喉から空気の漏れるような悲鳴を上げ、青白い炎に包まれ、塵となった。
何事もなかったように風がすべてを吹き消してしまい、あとには岩に突き刺さった剣だけが寂しく残った。
「神の御前で言い訳なさい」
そう言ってパセは岩から剣を抜き取った。
あれだけ暴れてもびくともしなかったものをやすやすと……。
「はい、アヴィ。お願いします」
「はぁい!」
元気よく返事して、差し出された剣に手袋を外した左手で触れた。すると剣は、もとのパセのクルスへと形を変えていく。それを見届けてまた、のそのそと手袋をはめた。そしてパセを見て手袋の口をぱくぱくさせ、微笑んだ。
「……終わったのかぁ?」
アヴィの懐で眠っていたリスが、寝ぼけ眼で声をかけた。
「そっちは早かったみたいですね」
「おう、一発KOってとこか。実際あんなのとチンタラやってらんねぇって。蹴った勢いで海底の岩にぶつかって、頭ブチ切れちまって」
小さな手が首元を横に引く仕草をする。
「それでも、ちぃとばかし暴れたが、石突き崩して埋めたら動かなくなった。それ確認したら血い引いちまってよぉ」
「浜で伸びてたんだよねっ」
元気に話に割って入ったアヴィは、見事アッパーをもらった。
「本当に持久力ないんだから……」
ため息つきながら言うパセに、でかい態度で反抗する。
「いいじゃんか、片付けたんだから!それよりも、何で大陸リスなんだっ?!」
後はアヴィへの質問だった。
その問いに、当り前のように答える。
「可愛いし、軽いもん。オラージュは犬がよかった?『元』のままだと僕、引きずってもこれないもん」
「じゃあ、もう『元』に戻せよ」
「え~、せっかく大陸リスにしたのにぃ?!」
目を大きく見開いて不満そうに叫んだ。
「お前!結局自分の趣味だろーがっ?!」
毛を逆立てて怒ったが、手に乗るサイズで愛らしい姿に効果は半減だった。
「ちがうよー、大陸リスが可愛いからだよぉ」
「だからそれがお前の趣味だって言ってんだよ!オレは『元の姿』に戻りたいの!」
「そしたら僕、オラージュ運べないよぉ。ここ入んないもん」
ちょっとむくれて懐を引っぱって見せる。
ちなみに大陸リスとは、お腹にあるポケットに子供を入れて育てる、小型の有袋類である。大陸に広く分布、生息する。
「~~~~~~~~~~~~~~~~!!」
会話のかみ合わない大ボケな弟に、オラージュの血管は切れかけた。間抜けな兄弟喧嘩を黙って聞きながしていたパセは、クルスを首にかけ直して海を見て言った。
「ほら、もう夜が明けますよ。馬鹿な漫才は後にして朝のお務めです。教会へ帰りますよ」
「はあーい!」
アヴィは元気に返事をして後を追った。
反対にオラージュはぐったりしたように、反発していたアヴィの懐に身を沈めた。
「しばらくこのままでいてやる。寝るから起こすんじゃねえぞ」
「わーい!」
喜ぶアヴィに、パセが笑顔で話しかけた。
「アヴィ、今日はこのままミサに参加しなさいね」
「げっ?!」
懐から抜け出そうとしたオラージュを押し込んで、アヴィは教会へとスキップした。
水平線からはゆっくりと朝日が顔を出し、新しい一日の始まりを祝福するかのように、光りを振りまき始めた。




