まあ、そうかなという感じ。
この話を書いているのは、自分もがんになった時、他人の体験記を読み漁ったからです。
人によって場所や進行は違います。ご参加までに。
思ったよりも冷静なのは、まあいつかそうなるんじゃないかな、
と思っていたからです。
私は30代で母を乳ガンで亡くしました。
従姉妹も二人、四十代で乳ガンになりました。
(二人とも回復している。)
母が乳ガンで亡くなった、というと、(何しろ30代で母が亡くなると根掘り葉掘り聞く人がいるのだ。)
「じゃあ、貴女もなるかもね?気をつけないと。」
と薄く笑う人が何人もいましてよ。
説明はしにくいが、心配ではない悪意のある表情。
ゲスです。人間のクズでございます。
それで、それからは先手を打つ事にしたんですよ、ええ。
「母の死因?乳ガンです。で、こう言うお話をすると、母が乳ガンだとあなたもそうなるかもね?っていう人がいましてねえ。
本当、世の中には鬼がいるもんですねえ。」
とあらかじめ予防線を張る。
「でも、本当のことだよね?」とまだ言い募る人には、
「ありがとうございます!〇〇さんが心配してくれてるって…貴女もきっとガンになるって言ってるって…みんなに言いますね♡」
と言い返す。
だいたいそう言うのは馬が合わない同僚とかなので、ここまで言うと引く。攻撃したら返されると思いなよ、って感じです。
けっ。余計なお世話だ。気をつけてもなるときはなるんだよ。
母はお酒もタバコもやらない人だった。健康のためにウォーキングもかかさなかったし、
婦人会で習った減塩食を食べ、具沢山の味噌汁をつくり、肉の脂身を取り除いていたのです。
豚肉の脂身を、縁にあるやつね、手で取り外してから料理に使ってましたね。
「ああ。美味しいのはわかってるんだけど。」
とつぶやきながら。
それに添加物には昔から人一倍厳しくて。
買い物をする時は裏面の添加物一覧をよく見ていました。
「こないだの駄菓子の飴、ベロが染まっていたじゃないの。そんなの食べたらいけない。」
と。
野菜だって、父が家の空いた土地に野菜をつくっていた。
(田舎だったからね)
無農薬だと安心して食べていたなあ。
それでも。なる時はなるのである。
母が亡くなってから私はすぐ、がん保険にはいりました。
転ばぬ先の杖と言う奴ですね。
30代だったから、掛け金も安くて。他にも掛け捨ての安い(年を持ったから掛け金は上がってるけどね)保険にも入っていたけど、ガンに特化してなかったから別に入ったのである。
ガンにかかるなら、乳ガンだろう、とは思っていたのです。
いや、本当に役に立ちましたよ。
コロナ禍での個室代も怖くなかったっす。
放射線治療の時だって、受付の人が、
「あの…費用ってこんな感じなんですけど、保険入ってます?」
と恐る恐る聞いて来たのですが、
「あ、入ってますよ。」
「良かった!」
と安堵されたのである。
そうなんだ。がん保険に入ってるってことは受付の人の笑顔を引き出すのか。
お金がかかるからって放射線治療をやらない人がいるのだな。
放射線治療が終わったら診断書を書いてもらった。
「二通?」
「ハイ。がん保険とこっち。」
綺麗に賄えて、残りで旅行にも行けましたとさ。
これを読んでる若い人。悪いこと言わないから、持病がないうちに、年が若い安いうちに入っておいた方がいいですよ。
今は四人に一人がガンになるとかならないとか。
持病があると新規で保険にはいるのはなかなか難しい。
(今は入れるのがある…かもしれないが。)
それと。
卵巣嚢腫で手術寸前までいった40代前半。
子宮ポリープと子宮内膜症で手術した40代後半。
その時の布石が覚悟になっているのでした。
特に子宮ポリープの時は、病院から渡された資料をもちながら、
ため息をついて電車に乗った。
町医者から紹介された、行った事もない大病院に検査に行くのだ。
「あの…この不正出血は内膜症ですか?」
「…それで済めばいいけどねえ。」
その冷たい医師の言葉。
「ああ…来年の桜は拝めないかもなあ。嫌だなあ。」
その時の心細さは今でも忘れない。
もうその町医者には行っていない。紹介された系列の大病院にも。
何故か、手術は他の病院でやることになったし。
それから10年以上。
ポリープもとって(悪いものではなかった)
ちゃんと生きております。
ドンマイ。
そして2011年11月の末。
〇〇病院に行く。
大病院あるあるなのですが、他の科にかかっていても新しく受付をしなくてはならない。
しかもそれには紹介状が必要なんである。健診センターの紹介状と資料を持って、さあ受付だ。
前の人の手元を見て驚愕する。
私と同じ健診センターの封筒ではないか。
では私と同じくらいに同じような過程を経て、ここにいるのだな。
親近感を持つような、気まずいような。
この人とはこの後の検査でずっと一緒だった。
まったくなんだかな、である。




