■ 第五話:雨の日のパン屑と、彼女の記憶
「……佐藤さん。そのスマホに映ってる子」
休憩室の隅で、遠隔テイムを終えて安堵の溜息をついていた健一の肩を、後輩の女子社員・**瀬戸**が震える声で叩いた。 彼女の視線は、スマホ画面の中で疲れ果てて眠るギンの姿に釘付けになっている。
「……え、あ、いや。これ、実家で飼い始めた犬で……」 「嘘。間違えるはずない。……その、左耳の欠けた形。それに、その悲しそうな目……」
瀬戸の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。 彼女は、健一が一度も見たことがないほど真剣な、そして切実な表情でスマホを覗き込んだ。
「……よかった。生きてたんだ……。私、あの雨の夜、車に撥ねられたあの子を見失ってから、ずっと探してて……」
健一の脳内に、ギンの「野良の意識」を通じて一つの記憶がフラッシュバックした。 冷たい雨。潰れた足。死を待つ孤独。 そこに現れた、震える手で自分の傘を差し掛け、なけなしの菓子パンを差し出してくれた一人の女性。 「(……クゥ……ン)」 スマホのスピーカーから、眠っていたはずのギンが小さく鼻を鳴らした。 それは「ギン」としての忠誠心ではなく、「野良」としての魂が上げた、心からの安堵の吐息だった。
「瀬戸さん、君だったのか……」 「私のアパート、ペット禁止で……。保護したくてもできなくて。病院に連れて行こうと一度目を離した隙に、いなくなっちゃって。毎日、後悔してたんです」
彼女は溢れる涙を拭いもせず、画面越しのギンにそっと触れようとした。 健一は悟った。 ギンの「野良の意識」が、あれほどまでに人間に反発しながら、どこかで完全に闇に落ちなかった理由。 それは、瀬戸が与えたあの一夜の温もりを、魂の奥底で守り続けていたからなのだ。
「……仕事が終わったら、家に来るか? ギン――この子も、君に会えばきっと喜ぶ」
健一の言葉に、瀬戸は何度も、何度も深く頷いた。
第五話を読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、お昼休みの喧騒の中で、健一の不器用な「遠隔テイム」だけでなく、ギンの「野良」としての過去、そしてそれを救った一人の女性――後輩の瀬戸さんの存在が明らかになりました。
ただの偶然に見える出来事の裏に、一本の太い「縁」があったこと。 人間に絶望し、牙を剥いたギンの魂が、それでも完全に闇に落ちなかったのは、瀬戸さんの優しさが心の奥底に残っていたからでした。
都会の片隅で傷つき、田舎町で孤独に生きてきた男と犬、そして一匹の野良犬に心を痛め続けた女性。 彼らが紡ぐ物語は、ただのファンタジーに留まらない、心の救済の物語へと発展していきます。
次回、ついに三人が再会を果たします。 ギンの「野良」の意識は、瀬戸さんの前でどう変化するのか。 そして健一は、この奇妙な縁をどう受け止めるのか。
ぜひ、感動の再会を楽しみにお待ちください。
■ 次回予告:第六話「土間の再会、涙の咆哮」




