第二話:二つの意識、一つの名
親が遺した古い一軒家。 錆びついた玄関の鍵を回すと、家の中は埃っぽく、冷えた沈黙に包まれていた。 健一は、泥と返り血に汚れた大型犬を土間へと招き入れた。
「とりあえず、そこまでだ。……座れ(シット)」
かつての「テイマー」としての発音ではなく、現代の飼い主としての言葉。 だが、その一言にこもった微かな魔力の響きに、犬は即座に反応し、畳一畳分ほどもある体を丸めて土間に鎮座した。
「(……クゥゥン……)」
見上げ、鼻を鳴らす。 健一の脳内に、熱を帯びた感情が流れ込んできた。 かつて、魔王軍の過酷な戦場で、自分を「器用貧乏」な魔法で何度も治療してくれた、不器用な男への絶対的な信頼。
だが、その直後。
「――グルルルッ……!!」
犬の瞳が、どろりと赤く濁った。 剥き出しにされた鋭い牙。喉の奥から漏れるのは、地響きのような殺意だ。 健一の脳内に、今度は刺すような「拒絶」が割り込んでくる。 これは前世の意識ではない。この現代で、人間に石を投げられ、飢えに震え、泥水を啜って生き残ってきた「野良犬」としての絶望。
「……そうか。お前も、この世界で苦労したんだな」
健一は手を引かなかった。 噛みつかれれば指が飛ぶ距離だ。だが、彼は「テイマー」としての魔力を、波立たせずに流し込み続けた。 主のために尻尾を振りたがる忠誠心と、人間に牙を剥かなければ生きられなかった本能。 その二つが脳内で激しく喧嘩をしているのが、同調している健一には痛いほど伝わってきた。
「ポチ、って呼ぶのはやめだ。……こっちの世界じゃ、それはあまりに捻りがないからな」
健一はタオルを手に取り、唸り続ける犬の汚れを拭き始めた。 『主が決めるなら、何だっていいよ』。前世の記憶がそう囁く。 『人間なんて信じない。触るな、殺すぞ』。野良犬の意識がそう吠える。
「タロウはどうだ?」 ピクリとも動かない。 「……じゃあ、シャドウ」 ふいっと顔を逸らされた。
「……贅沢な奴だ。なら、これならどうだ。……お前が昔、俺が作った純度の低い、出来損ないの銀の首輪をずっと気に入ってたろ」
健一は、汚れを拭き終えた犬の頭を、覚悟を決めて撫でた。 あの頃。金も魔力も足りなくて、一生懸命「錬金術」の真似事でこしらえた、くすんだ銀色の首輪。
「銀……。今日から、ギンだ」
一瞬、犬の体が硬直した。 次の瞬間。 「(ワンッ!)」 ドサッ、ドサッと尻尾が土間を叩く。赤と茶色が混ざり合った瞳が健一を射抜き、短く応えた。
「……よし、ギン。飯にしよう。コンビニ弁当の残りで悪いが、豪華にしてやる」
健一は台所に立ち、期限切れ間近の幕の内弁当を広げた。 器用貧乏な錬金術で、添加物の匂いを消し、栄養価を底上げする。 差し出された肉を、ギンは「主への甘え」と「野良の執着」が混じった、複雑な咀嚼音で平らげた。
完全な支配ではない。 不器用な男と、二つの心を持つ獣。 静かすぎる田舎の夜、新しい名前と共に、彼らの「二度目の人生」が動き始めた。
この物語は、「かつて異世界でそこそこの実力者だった男が、現代社会でその『中途半端なスキル』をどう使いこなすか」というテーマから始まりました。 今回お届けした第二話では、再会した魔犬・ギンとの「名付け」と「意識のせめぎ合い」を描きました。
ただの従順なペットではなく、現代の過酷な野良生活を生き抜いてきた「野良犬としてのプライド」を健一がどう受け入れていくのか。 完璧な英雄ではない、40歳の「器用貧乏」なおじさんだからこそできる、支配ではない歩み寄りの形を感じていただければ幸いです。
次回、いよいよギンとの本格的な共同生活が始まります。 田舎町の静かな夜に潜む、次なる「魂の残滓」とは……?




