プロローグ:路地裏の再会と、錆びついた記憶
四月、湿り気を帯びた夜風が、街灯の少ない畦道を撫でていた。 佐藤健一(40歳)は、コンビニの袋を揺らしながら、親から受け継いだ古い一軒家へと続く夜道を歩いていた。
手元の袋には、値引きシールの貼られた幕の内弁当と、ストロング系の缶チューハイ。 地元の中小企業に勤め、独身のまま実家を守る。 それが今日という一日の、そしてこれからの人生の、決まりきった報酬だ。
「……はぁ。明日もまた、代わり映えのしない一日が始まるのか」
独り言が、カエルの合唱に吸い込まれて消える。 かつての夢が何だったのかさえ思い出せない。 ただ、誰にでもできる仕事をこなし、誰からも深くは必要とされないまま、人生の折り返し地点を過ぎてしまった。 そんな空虚な自覚だけが、胃のあたりを重く沈ませていた。
その時だった。
生い茂る庭の隅で、ゴミ袋が激しく破ける音がした。 健一が振り返ると、そこには一匹の大型犬が立っていた。しかし、それは異常だった。
体毛は泥と血に汚れ、逆立った背中の上には、どろりとした「黒い霧」のようなものが立ち昇っている。 何より、その瞳だ。白目までが濁った赤色に染まり、人間に対する明確な「殺意」を宿している。
「あ……」
逃げなければならない。脳が警報を鳴らしているのに、足がすくんで動かない。 犬――否、獣が低く唸り声を上げ、地面を蹴った。 時速50キロを超える猛突進。その牙が健一の喉元に届こうとした、その瞬間。
「――待て(ハルシュ)ッ!」
健一の口から、無意識に、聞き慣れない言語が飛び出した。 同時に、指先がパチンと音を立てる。
世界が一瞬、白く弾けた。
「……え?」
目の前で、宙に浮いたままの犬が固まっている。 いや、固まったのではない。激しく震えているのだ。 赤く染まっていた瞳から色が抜け、そこには困惑と、信じられないものを見たような驚愕の色が浮かんでいた。
健一の脳内に、激しい頭痛とともに「映像」が流れ込んでくる。 剣と魔法。泥臭いキャンプの匂い。 自分はどこかの戦場で、安物の杖を片手に、煮え切らない表情で指揮を執っていた。
火球を放てば小さく、回復呪文を唱えれば傷跡が残り、金属を練れば純度の低い剣しか作れない。 周囲からは「便利屋」と重宝されながらも、「器用貧乏」と揶揄された日々。 その傍らに、いつもいたのが。
「……お前、ポチか?」
健一の口から、ポロリと前世での呼び名が漏れた。 目の前の犬――異世界の魂を取り憑かせた野良犬が、喉を「キュゥゥ……」と鳴らした。
黒い霧が霧散していく。 犬は健一の足元に力なく着地すると、まるで叱られた子供のように耳を伏せ、尻尾を千切れんばかりに振りながら、健一のビジネスシューズを舐め始めた。
「嘘だろ……。あれ、夢じゃなかったのか?」
健一は震える手で、自分の顔を覆った。 かつての記憶。中途半端に習得した魔法の数々、失敗続きだった錬金術の配合表、そして、使役していた数匹の「パッとしない」魔物たちとの絆。
周囲を見渡せば、静かな田舎町の闇の中に、どろりとした黒い影がいくつも揺らめいているのが見える。 普通の人間には見えない、異世界から漏れ出した「魂の残滓」。それが現代社会を蝕み、凶悪事件として形を変えて現れているのだ。
「……40にもなって、いまさら前世の続きかよ」
健一はため息をつきながらも、足元で甘える元・魔犬の頭を、そっと撫でた。 幕の内弁当は地面に落ちて台無しになったが、不思議と心は、昼間の仕事をしている時よりもずっと冴え渡っていた。
「とりあえず、入るか。お前の飯も、なんとかしないとな」
中途半端な魔術師と、再会した一匹の獣。 静かすぎる田舎の夜、古い一軒家の戸が開く音が響いた。




