第8話 帰途
薄明かりが梢を縁取り、澄んだ風が森を梳いた。
早朝、準備を終えた俺たちは集落を後にした。
ミーリが先行して獣道を辿り、短い手信号で合図を寄越す。
前衛にラウノ、すぐ後ろにカリーナと俺。
そしてゼディロを中心にクィヴェラ族が固まって歩く。殿はアルヴィンに任せ、警戒は万全だ。
ギデオンは自分で歩こうともせず、目も虚ろだ。何かが抜け落ちてしまった様子で、仕方なく俺が担いで歩く。
クィヴェラ族には負傷者を含め、老人や子どももいる。
彼らの暮らしは森の奥に偏っていて、長い移動に慣れているわけではない。
体感重量が軽くなる羽運車でもあればよかったのだが、幅をとるので森には不向きだ。
代わりに、集落にあった木材と縛り紐を拝借し、背負子に組み直した。
かろうじて、歩けないほどの重傷者はいない。荷は全員で分散し、長く歩けない者から順に負担を減らしながら進む。
魔物にも用心はするが、速度優先だ。明るいうちに森からは出たい。
森が深まり湿った土を踏むと、荷の金具が小さく鳴った。
木の根やぬかるみを避け、できるだけ平坦な道を選ぶ。
「これ以上は速度を上げられん」
ミーリからの合図を受けたラウノが短く息をつく。
「この調子でも、陽が高いうちに森は抜けられると思うわ」
カリーナが茂みを払い、慎重に進む。
魔物の気配はまだないが、俺はいまのうちに十字弓を準備しておく。
クィヴェラ族は戦える人手が薄い。魔物と遭遇しても、近づかれる前に片をつけたい。
道中、小休憩を二度挟んだ。
ミーリが合流して、アルヴィンとラウノの二人と情報を擦り合わせている。
小柄な見た目に反して、とにかく頑健なやつだ。会話中も気配を探り、短弓は握ったまま。戻っても常に周囲への意識は残している。
「来た時と変わりないように見えるけど……ちょっと静かすぎるかな」
「追われている気配はない。そろそろ進もう」
アルヴィンの号令に異を唱える者はいなかった。
✣ ✣ ✣
何事もなく進み、昼前に川へ出た。
水を清澄環の付いた筒で浄化して補給を行う。
背負子を樹に立てかけ、一度荷を下ろす。ここで長めの休憩だ。
ふと視線を感じて振り向くと、リュティスの妹、レティアと目が合った。
ひと呼吸だけ値踏みするような視線を感じると、そっと目を逸らされた。
助ける形になったとはいえ、クィヴェラ族が俺たちをどう見ているのかは、正直なところはっきりとわからない。
ゼディロも、幽誓環というあの共鳴がなければ、ここまで俺たちを信用していたかは疑わしい。
アルヴィンともまだ詳しく話せていない。
俺は俺の信念で動いたが、正直、アルヴィンたちまでここまで無茶するとは思っていなかった。
俺と同じように何か思うところがあったのか。改めて話をしたほうがいいのかもしれない。
水辺ではクィヴェラ族が魔術を使って、率先して水を浄化してくれている。
魔導具なしに魔術を使えるのは、話に聞く以上に便利だ。
俺たちはどんなに些細な術でも魔導具を介さないと使えないし、遺創具以外の魔導具は基本的に複雑な事象を起こせない。
クィヴェラ族の様子を眺めていると今度はリュティスと目が合ったが、すぐに逸らされた。
頬にわずかな紅が差しているのが見え、俺は首をかしげる。
理由はわからないが、昨日とは少し違う印象を受けた。
しばらく経って、ミーリが立ち上がり軽く手を叩いた。
「そろそろ出発するよ。みんな、いける?」
「半分は過ぎた。もうひと頑張りだ」
俺が応じ、すぐ皆も続いた。
✣
歩みを進めると徐々に樹間が狭まり、地面の起伏が増えていく。
そのとき、前を進むミーリの手が上がった。
彼女が右手の茂みを指した瞬間――空気が変わった。
「止まれッ!」
ラウノの声の直後、前方右奥から地を蹴る音が近づいてくる。茂みの奥で小さな光が揺れた。
光の正体は角だ。白と黒が入り交じって艶を帯び、根元に節の並ぶねじれ角。
怨捲羚だ。
こいつ自体は致命的に強いわけじゃないが、厄介な能力がある。それに加え、樹木の茂る獣道だ。場所が悪い。
言葉より先に、十字弓を引き上げる。狙うのは左前脚。
弦が鳴り、木々の隙間を矢が走る。
甲高い悲鳴を上げて怨捲羚が一瞬よろめくが、掠めただけのようだ。それでも構わず、ミーリに角を向ける。
ミーリが半身に構え、身を捻って突進を躱して一度こちらへ合流する。
ラウノが入れ替わるように前へ。鉾槍は狭い森で扱いづらいのだろう。今は隊員の遺留品だった黒螺鋼製の質の良い剣を抜いている。
俺はギデオンを縛った縄を近くの木に絡めると、不虧勍断刃を抜いた。
狙いは斃すことじゃない。無力化だ。それには明確な理由がある。
怨捲羚は死に際に角が霧散し、残留体を複数体生む。
角が砕けただけでも発生する厄介な性質だ。残留体は形の定まらないもので、無策に斬りかかれば刃が空を切る。
ラウノが取り押さえにかかったが、怨捲羚は素早くすり抜け俺に向かってくる。
「左に押し込む!」
「はい!私が止めます!」
俺の声に、カリーナが応じる。
俺は不虧勍断刃の刃を立てず、剣身の腹で突進してくる怨捲羚を左へ弾く。
よろめいた怨捲羚に、カリーナの波揺振輪が強く煌めいた。
目に見えない脈動が地を這い、獣の四肢が一瞬痺れたように沈む。
「カリーナ!無理すんじゃねえぞ!」
この出力は連発できないだろう。
カリーナの息がわずかに乱れている。
動かなくなった怨捲羚の様子を見ようと前に出たその瞬間、目の前の木の影が伸びた。
「下がって!!」
ミーリがすぐさま矢を放つ。矢は影へ吸い込まれると、音もなく消えた。
暗がりの底から闇の塊がにじみ出る。俺は咄嗟に不虧勍断刃を叩きつけたが、感触はなく空を斬った。
「纏影豺!?一度、離れろ!」
木陰を縫うように移動する闇から距離を取る。
草むらに紛れ、黒い靄が視界から消えた途端――漆黒の狼が現れた。
纏影豺はこちらを一瞥すると、太い短剣のような牙をみせる。
「まずい!怨捲羚が……!」
漆黒の巨躯が素早く動き、転げた怨捲羚の喉へ噛みついた。
嫌な音が響き、角が霧のように溶けて消えた。
「やべえ!来るぞ!一度引くか!?」
「この道じゃ無理だ!人も多すぎる!」
青白い輪郭が二つ、空間にふっと浮いた。怨捲羚を模した残留体だ。
冷たい燐光に縁取られた輪郭が、葉先を焦がすように佇んでいる。
「残留体は私とアルヴィンでやるわ!」
カリーナが再び波揺振輪を向ける。残留体が一瞬だけ定着し、足取りが鈍る。
殿から駆けつけたアルヴィンが特徴的な剣を抜いた。
破魔鋸刃――銀に波打つ刃の剣は、魔力による構成物を挽き斬る遺創具。
纏影豺と切り離すようにアルヴィンが残留体を引き付ける。
襲い来るゆらめきに銀波が噛み合い、耳障りな音が弾けた。
俺はラウノとともに漆黒の狼へ向き直った。
こいつは人目を盗んで影に潜み、どこからともなく出現する。
だが、姿が見えているうちは、ただの強靭な獣だ。
「ミーリ、逃すなよ!」
「任せて!」
黒狼が視線を振り切り影に沈もうと動き回る。
その都度ミーリが素早く回り込み、視線の糸を繋ぎ直す。
俺は前に出ずに十字弓を再装填して矢を放つ。
黒狼の背を削ったが、傷は浅い。合わせて射かけたミーリの矢も尾に払われてしまった。
影に潜れないと判断した纏影豺は一転、唸り声とともに突っ込んでくる。
ラウノが剣を斜に構え、正面から受け止めずに刃の腹で進路を撫でる。
振られた黒狼は木にぶつかって足を止める。その瞬間、俺が踏み込む時間が生まれた。
不虧勍断刃の柄を握り直し、森を縫って叩きつける。
狭い森の中。細い木ごと叩き切ったが、既に体勢を立て直していた纏影豺は後ろに飛んで躱した。
しかし、纏影豺が退いた先にはラウノが詰めている。
ラウノが体重を乗せた蹴りで黒狼をこちらに押し込む。
俺は歪乱進甲に魔力を注ぎ、地を蹴った力を全て前方に収束する。
黒狼が振り上げた前脚の付け根を不虧勍断刃が断つ。
暴れる巨躯の首にラウノの剣が突き刺さる。体重をかけて骨をへし折って刃を抜くと、黒い血が吹き出して草木を濡らした。
背後では耳障りな音が響く。
アルヴィンの破魔鋸刃が最後の残留体を断つ音だ。
カリーナは疲れを隠さず、指先をさすり息を整えていた。アルヴィンがカリーナに駆け寄り、状態を確認する。
怪我をしたわけではないだろう。魔導具の使いすぎで魔力焼けをしたと思われる。
波揺振輪のような魔導具は強力だが、その分扱いが難しく、使い方によっては反動もでかい。
銀波の残響が薄れ、森に静けさが戻ろうかという間際、ざわめきに気づいた。
俺とラウノは警戒を弱め、クィヴェラ族に駆け寄る。
そこには倒れた黒衣の男と、脚を押さえて座り込むクィヴェラ族の小柄な女。
そして、一目で死んだとわかるギデオンの姿。
老夫婦の手は震えているが、大きな怪我は見当たらない。若夫婦は互いに息を荒げ、視線はまだ鋭い。
「ゼディロ、なにがあった?」
「混乱に乗じて、この者が襲いかかってきました」
黒衣の男を調べようと近づくと、乾いた音と同時に死体が燃え始めた。
燃鱗蜥蜴の鱗粉でも仕込んでいたか。炎はたちまち広がり、死体を覆い隠した。
すぐに消しにかかったが、火が消えた頃には死体に調べる価値は残っていなかった。
監視の視線を感じていたのはこいつらだろう。行政長官の手駒だろうか。
話を聞くに、ギデオンが襲われたことに気づいた後、黒衣の男が逃げようとしたところを、怪我をした女が魔術で斃したらしい。
口封じなのか、筋書き通りなのか、確証はなにもない。
女の負傷は浅くはないが、意識ははっきりとしているようだ。既に応急処置が始まっている。
怪我人は出たものの、ひとまず事なきは得たと言えるだろうか。
ギデオンのことも今更考えても仕方がない。割り切るしかない。
とにかく、森の中で夜を過ごすようなことは避けたい。
「急ぐぞ。話はあとだ」
その号令には誰も異論がなかった。
森を梳く風は、潤んだ残滓をまとって不快に肌を撫でた。




